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ザーラ・キルシュの詩「白いパンジーのそばで」―ほらごらん 彼は来ないよ

ザーラ・キルシュ(Sarah Kirsch)の詩集『呪文のうた』を読む。「白いパンジーの傍らで」(内藤洋子訳)がおもしろかったので、原詩を探し、自分でも訳してみた。題は「白いパンジーのそばで」とした。

ザーラ・キルシュ(1935-2013)はドイツの詩人だ。本名は、イングリット・ヘラ・イルメリンデ・キルシュ。

ザーラ・キルシュのザーラは、彼女が1960年以降に使い始めたペンネームで、これにはホロコーストに対する抗議の意味が込められている。

ナチスの第三帝国では1938年に名前変更条例が施行され、非ユダヤ系の名前を持つすべてのユダヤ人男性は自分の名前にイスラエルを、すべてのユダヤ人女性はザーラを追加することを強制された。これらは典型的なユダヤ系の名前だ。ユダヤ人であることをすぐ識別できるようにしたのだ。

詩「白いパンジーのそばで」は、単独で出版した最初の詩集『田舎滞在』(1967)に収められている。ザーラ・キルシュが32歳のときに刊行されたものだ。

■ヨジロー訳

  白いパンジーのそばで

        ザーラ・キルシュ

公園の 白いパンジーのそば
彼に言われたとおり
私は 柳の木の下に立っている 
葉を落とした ぼうぼう髪の老婆が言う
ほらごらん 彼は来ないよ

ああ と私は言う 足を折ったんだわ
魚の骨を喉に引っかけたか
突然 道路が通行止めになったか
あるいは 奥さんにつかまってるのかも
いろんなことが私たち人間の邪魔をするのよ

柳は揺れて ぎいぎい音を立てる
ひょっとしたら もう死んでしまったのかも
コートの陰であんたにキスしたとき 青い顔してたよ
そうかもしれない 柳さん そうかもしれない
それなら一緒に願うとしましょう 彼がもう私を愛してないって

■解釈

「私」と柳のやりとりが、ゲーテの詩「魔王」のパロディとなっている。「魔王」の方はぞっとするが、ここではユーモラスだ。

すらすらと読んでいける。ただ、最後の一行だけは理解しにくい。「それなら一緒に願うとしましょう 彼がもう私を愛してないって」――これはいったいどういう意味なのか。

一人の女性が公園の柳の木の下、白いパンジーのそばに立っている。彼女は恋人を待っている。彼女の恋人は既婚者だ。

柳が葉を落としていること、パンジーが植えられていることから、季節は冬であることがわかる。

女性は、待ち合わせの時間に恋人が現れないので、不安になる。「ぼうぼう髪の老婆」と言われる柳の木が女性に話しかけてくる。

柳の声は、女性の中の不安が語る言葉だ。女性は自分自身と対話している。

老婆は、ほら、やっぱり彼は来ない、と言う。女性の心の中に、彼はひょっとしたら来ないのではないかという予感があったのだ。

老婆の言葉を女性は否定する。足の骨を折った、魚の骨が喉に引っかかった、道路が通行止めになった――きっと彼は来る、来ないのは何かで遅れているはずと思いたい女性は、いろんな理由を挙げて老婆を納得させようとする。

怪我をする、道路が通行止めになるなどは普通の理由だが、魚の骨が喉に引っかかった、という言い訳には唖然となる。<どんな言い訳?>などと突っ込みたくなるが、「私」は動転して思いつくことをなんでも持ち出しているのだろう。ユーモラスなところだ。

「奥さんにつかまってる」というのは、「彼」が奥さんに何かの用事を頼まれてそれを片づけているということだろう。

「私」は事態を重大に考えたくなくて、いろいろな理由を並べ立ててごまかそうとする。

しかし、柳は納得しない。「ぎいぎい音を立てる」は「私」への抗議のブーイングだ。

そして柳はいちばんきついことを言う。「ひょっとしたら もう死んでしまったのかも」と。

「コートの陰であんたにキスしたとき」――そう、前回会ったとき、今いる場所で「彼」のコートに隠れるようにして二人はキスしたのだ。柳はそれを見ていた。

柳から決定的な攻撃を受けた「私」は、「そうかもしれない 柳さん そうかもしれない」と、その可能性を肯定する。

そして言う、「それなら一緒に願うとしましょう 彼がもう私を愛してないって」と。

どういう意味か。

柳から、<彼が来ないのは死んだからかもしれない>と言われて、それまで柳に押されていた「私」は毅然として切り返す。彼が死ぬよりは、「もう私を愛してない」ほうがましだ、と。彼の愛か、彼の生かと問われたら、私が選ぶのは後者だ、と高らかに宣言している。つまり、それほど彼を深く愛しているのだということだ。

柳からいじめられて、ということはつまり、自分の不安に押しつぶされそうになって、最後に「私」は覚悟を決めたのだ。

「それなら一緒に願うとしましょう」と訳したところは、「それなら私たちは願うとしましょう」とも訳せる。つまり、主語は「私たち」だ。<それなら私は願うとしましょう>ではない。

それまで二つに分裂していた「私」の心は、一つになる。自分の中の強い愛を確信したのだ。彼が来るかどうかはもう関係ないとさえ言える。

「私」と柳のやりとりを、おもしろがって読んできた読者は、最後の一行に行き当たってはっとする。そして居住まいを正すことになる。

■おわりに

現代はジェンダーの時代だ。その観点から見ると、第1連2行目「彼に言われたとおり」がどうしても気になってしまう。

この詩が書かれたのは1967年以前。恋愛においても男性が主導するのが当然と考えられ、女性もまたそれを自然に受け入れていた時代なのだろう。

でもまあ、現代だって「彼女に言われたとおり」と書く男性詩人がいてもいいのだろうし、あまり気にする必要がないのかも。

■補足

訳出に当たっては、内藤洋子訳「白いパンジーの傍らで」を大いに参考にした。内藤訳のほうが僕の訳よりいいようにも思う。それでも自分で訳したのは、内藤訳の最後の一文「それなら願うとしましょう」では、「それなら私は願うとしましょう」と解してしまうからだ。主語が「私たちは」であることをはっきり示したかった。結局、「私たちは」を使わず、「一緒に」としたが。

■参考文献

ザーラ・キルシュ『呪文のうた』内藤洋子編訳、郁文堂、1998

*見出し画像の柳の木は「Flode illustration(フロデ イラスト)」の、パンジーは「てがきっず」の素材を利用させていただいています。


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