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命がけで海外に渡った人たち② ブラジル移民

私は長野県生まれです。どうやら親戚の中にブラジルに移民した人がいると聞いたのは、最近のことです。

母方の「コマツ」姓を名乗り、かなり大きな農園を営んでいるそうです。母親はその親戚を知っていましたが、もう90歳を超えています。

思いついて改めて聞いてみたのですが、「コマツ農園としか分からない」との答えでした。そうですねえ、もう移民が始まってから100年以上経っていますから。

移民としてはアメリカ、ハワイなどがメインでした。

しかし、日本人が勢力を伸ばしたため、警戒され移民が制限されました。そのため、ブラジルが選ばれたのです。

さて、日本人の移民は、明治から第二次世界大戦までの間、約80万人に達しますが、その半数が北アメリカやハワイ方面への移住でした。
やがて北アメリカ・ハワイへの日本人移民が、渡航先で勢力を伸ばすようになると、先住のヨーロッパ系移民から排斥を受け、1908(明治41)年には「日米紳士協約」が結ばれ、この地への移民が制限されるようになり、別の移民先を探す必要が生じました。
そのような中、新しい入植地に選ばれたのがコーヒー農場があるブラジルでした。

ブラジルに行くには、

船で約2カ月(50日)かかりました。
現在は途中乗り換えでも飛行機1日半です。

だいぶ短くなっています。しかし地球の裏側であることに違いはありません。

ブラジル移民の船内は、とても快適とは言えず、蚕棚のベッドや自然通風、扇風機だけの換気でした。

プライバシーはほとんどなく、航海の途中で伝染病が発生するといった事件も起き、死者が出たこともありました。

人々は、様々な行事や娯楽で気分転換をはかりながら、はるか遠くの移住地を目指しました。

20世紀初頭の日本人のブラジル移民は、日本の農村や都市部での貧困や土地の不足、経済的困難などの要因により、新たな機会を求めて日本を離れることを決意しました。

その後、日本政府とブラジル政府の合意により、大規模な移民が実現しました。

最初の大規模な移民は、1908年に「笠戸丸」という船が、日本の港を出発し、ブラジルに向かいました。写真の船です。

この移民団は約781人からなり、彼らはブラジルのサントス港に到着しました。彼らの多くは農業労働者であり、ブラジルのコーヒー農園で働くことを目指していました。

その後、日本政府とブラジル政府は移民契約を結び、定期的な移民が行われるようになりました。船は日本各地の港を出発し、途中、他のアジア諸国や中東の港を経由することもありました。

ブラジルに到着すると、移民たちは移民収容所に一時的に滞在し、医療や移民手続きを受けることがありました。

その後、彼らはブラジルの各地に配置され、農場や工場などでの労働に従事しました。特にサンパウロ州やパラナ州などの南部地域が日本人移民の主要な定住地となりました。

移民たちは困難な状況に直面しましたが、多くは勤勉さと努力で成功を収め、農業や産業の分野で繁栄しました。彼らの労働はブラジルの経済や文化に大きな影響を与え、現在でもブラジルにおける日系人コミュニティは大きな存在感を持っています。

移民船の中の様子については、石川達三の「南洋航路」に描かれているというのですが、近所の図書館には蔵書がなく、読めていません。読むことができたら、情報を追加していきます。


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