見出し画像

命がけで海外に渡った人たち① 遣唐使の天才 阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂

ちょっと興味があって、命がけで外界を目指した人を調べてみた。今は、地球のどこに行くにも飛行機を使えば、乗り換えしたとしても2日程度で着くことができる。

しかし、つい100年ほど前まで、海外に行くことは命をかけた仕事であった。若者が内向き思考になっていると言われるが、いま1度、未知の世界に飛び込む勇気について書き留めておきたい。それは自分に対するエールでもある。

まずは、何と言っても稀代の天才、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)でしょう。

仲麻呂が目指した唐の都、長安までは、海路と陸路で約30日。
現在は西安まで空路で5時間程度。


奈良時代の文人で、698年に生まれました。19歳のときに遣唐留学生として唐に渡り、唐の第6代皇帝玄宗の目に留まり、李白や王維らと交わり、文名を上げました。

阿倍仲麻呂は、長期滞在留学生の吉備真備(きびのまきび)や、留学僧玄(げんぼう)らとともに、総数557人という当時として過去最大の大使節団である養老元年の遣唐使で唐に渡ります。当時19歳だったと言われています。

 日本人でありながら超難関の官僚登用試験「科挙(かきょ)」に合格しました。

 今もアジアの国々では受験第一主義の教育が属いています。その源流とも言えるのが科挙です。どれだけ難しい試験だったのでしょうか。

 科挙は、中国で587年ごろから1904年まで行われていた官僚登用試験です。科挙の合格率は100人に1人以下になることも珍しくなく、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することもあったと言われています。

 最終合格者の平均年齢は、時代によって異なりますが、おおむね36歳前後と言われています。中には曹松などのように70歳を過ぎてようやく合格できた例もありました。

 仲麻呂はその後、唐の高官として昇進していきます。 その優秀ぶりは唐の第6代皇帝玄宗(げんそう)の目にもとまりました。

 中国の唐の第6代皇帝である玄宗は、685年から762年まで在位しました。本名は李隆基(りりゅうき)、諡号(しごう)は明皇帝(めいこうてい)です。

 在位期間は712~756。玄宗は、則天武后の孫で、中宗が毒殺された後に政変を起こして即位しました。即位後、姚崇(ようすう)や宋璟(そうえい)ら有能な人材を登用し、官界の粛清や内政の刷新に努めました。

 この時代は「開元の治」と呼ばれ、太平の世を築きました。また、李白や王維ら文人の活動を保護し、貴族文化の隆盛をもたらしました。

 しかし、晩年には政治に疲れ、楊貴妃への愛に溺れたため、755年に安史の乱が起こりました。翌年、子の粛宗に譲位し、上皇天帝と呼ばれるようになりました。757年に長安に帰還し、その地で亡くなりました。

 遣唐使船の航海にはさまざまな困難が付きまとい、船酔いも当然ありました。さらに、食べ物も問題でした。

 中国の実情を記録したことで有名な円仁(えんにん)の『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』によると、糒(ほしいい)(蒸米(むしごめ)を乾かした携帯・保存食)と生水のみで飢えをしのぎながら風雨、高浪を乗り越えなければならず、航行中重病になればひとり異国に置き去りにされることもあったそうです。

また造船技術、航海術が未熟なため、難破漂流することも珍しくなかったのです。

 唐での30年の生活を経てようやく帰国を許され、明州(現在の寧波(ニンポー)市)で送別の宴が催された時に詠まれたのが、万葉集にも載っている有名な句です。

 学校で学んだ記憶があるでしょう。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出(い)でし月かも

 天を見ると美しい月が昇っている。あの月は、遠い昔、遣唐使に出かける時に祈りを捧げた春日大社のある三笠山に昇っているのと同じ月なのだ。ようやく帰れるのだ。

 仲麻呂が懐かしんだ春日大社の周辺は、今も奈良一番の観光名所です。三笠山は春日大社の後方にある標高283mの山の名前です。万葉の舞台としても知られます。

 送別の宴が行われ、753年(天平勝宝5)11月、藤原清河(ふじわらのきよかわ)、阿倍仲麻呂らを乗せ、蘇州から阿児奈波島へ向けて出帆した帰国船は暴風にあいます。

 南方へ流され安南(あんなん)に漂着しました。結局、2人は辛苦のすえ帰唐し、望郷の念を抱きつつも生涯唐朝に仕えたのは有名なエピソードです。

 結局、帰国が叶わないまま中国で54年暮らした仲麻呂は、72歳でその生涯を閉じます。逝去した時は、あの中国の大詩人・李白も悲しみ、「晁卿衡(ちょうけいこう。仲麿のこと)を哭す」という詩を作っています。

 ちなみに仲麻呂は日中合作映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』に重要人物として描かれています。阿部寛が演じました。これは2017年に公開された歴史ファンタジーミステリーです。

 弘法大師としても知られる真言宗の開祖で、遣唐使として中国に渡った若き日の空海を主役に描く、日中合作の歴史ファンタジーミステリーです。

 夢枕獏の小説「沙門空海唐の国にて鬼と宴す」を原作に、「さらば、わが愛 覇王別姫」「始皇帝暗殺」の名匠チェン・カイコーがメガホンをとり、主人公の空海を海外作品初挑戦となる染谷将太が演じたました。

 8世紀、遣唐使として日本から唐へやってきた若き僧侶の空海が、詩人・白楽天とともに首都・長安を揺るがす巨大な謎に迫っていきます。

 空海の相棒となる白楽天を中国の人気俳優ホアン・シュアン、物語の鍵を握る楊貴妃を台湾出身のチャン・ロンロンが演じるほか、日本から阿部寛のほか、松坂慶子らが参加しました。

 ただしこれとは全く違う仲麻呂の人生に関する話も伝わっているようです。

 それが記されているのが、12世紀初期に記された『江談抄』や江戸時代に成立した『阿倍仲麻呂入唐記』などである。そこでは、何と仲麻呂が34歳の頃、唐の重臣に妬まれて幽閉されたまま亡くなってしまったというのだ。しかも、その最期が、実に異様であった。

 それによると、そもそも仲麻呂が遣唐使に選ばれたのは、唐の玄宗皇帝から天地陰陽(てんちいんよう)の理を記した『金鳥玉兎集』を借り受けることが目的であったとか。

 それにもかかわらず、仲麻呂が唐に到着後、皇帝に重用されて帰国できず、当初の目的を達成できなかったという。

 興味深いのは、この仲麻呂の出世を妬んだのが、かの楊貴妃(ようきひ)の兄・楊国忠と玄宗皇帝の臣下・安禄山だったという点だ。

 二人が示し合わせて仲麻呂に酒を飲ませて酔わせた挙句、高楼に幽閉してしまったというからユニークである。これに憤慨した仲麻呂が断食して、ついには憤死してしまったという。さらには、その後仲麻呂が鬼になってしまったとまで記されている。

 その頃日本では、仲麻呂が唐に渡ったまま帰国せず、唐の高位高官になってしまったことで、勅命に逆らったとして逆臣扱い。代わって派遣されてきたのが、吉備真備だった…という何とも興味深い展開が続くのである。

 唐に渡った真備は、唐人から難題をふっかけられて苦境に立たされることになるが、それを救ったのが、赤鬼となった仲麻呂であったという。ここでは少々出来過ぎとも思えるお話が繰り広げられているのだ。もちろん、とても史実とは思い難いが、唐における仲麻呂の活躍ぶりを彷彿とさせるものだけに、思わず耳を傾けたくなってしまうのである。

https://www.rekishijin.com/25706

 こちらの方が劇的で、人間のドロドロが満ちています。

よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!