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日中をつないだ日本語テキスト

取材で生かせなかった日本語教科書の話を書いておきます。

これは光村図書出版から聞いた話です。このテキストが日中関係の一部分を築いたといえるでしょう。

中国で圧倒的な支持を得ている日本語教科書「標準日本語」が発行されるまでの経緯をお教えください。



1970 年代後半に当時の教科書協会代表団の一員として光村図書の関係者が訪中したことを契機に交流が始まっていましたが、1985(S60)年に人教社から「中国の一般社会人向けの日本語テキストの共同編集」の提案があり、同年に「日本語読本」(のちの「標準日本語」)として合作がスタートしました。

1972(S47)の日中国交正常化以降、中国国内における日本語学習者の増加に伴って日本語テキスト開発の必要性が高まる中、光村図書に協力が求められたものと理解しています。

合作に当たっては日中双方に編集委員会が設けられましたが、当時の編集体制としては画期的であったと言われています。日本側は、国語教育、中国語教育、日本語教育の専門家を招聘して主にテキストの原案(本文、コラムなど)や図版等の作成を、中国側は人教社の日本語編集室が中心となって原案の審査と翻訳などを分担し、印刷・製本および普及促進は人教社の主導で行われました。そして、合作の第 1 弾となる『中日交流標準日本語 初級上下』(旧版初級)は 1988(S63)年に、第 2 弾の『中日交流標準日本語 中級 上下』(旧版中級)は 1990(H2)に完成し、完成後は「旧版初級」も「旧版中級」もともに中国中央電視台の日本語講座のテキストとして採用されました。

このことは、「標準日本語」の中国国内での普及促進に大きく影響し、今現在も「標準日本語」が確固たる地位を得られている大きな要因と考えています。



累計どれほど発行され、どう活用されていますか。


1988(S63)年の「旧版初級」以降現在までの発行状況は後掲の表のとおりですが、日本語を独習する中国人の 80%以上に愛用され,累計利用者数は 1000 万人を超えているとも言われています。ちなみに、No.1~No.3 は旧版シリーズ、No.4~No.9 は新版シリーズと位置づけています。

No 書名 略称 発行年
1 中日交流 標準日本語 初級 上下 旧版初級 1988(S63)
2 中日交流 標準日本語 中級 上下 旧版中級 1990(H 2)
3 中日交流 標準日本語 会話編 会話編 2002(H14)
4 新版 中日交流 標準日本語 初級 上下 新版初級 2005(H17)
5 新版 中日交流 標準日本語 中級 上下 新版中級 2008(H20)
6 新版 中日交流 標準日本語 高級 上下 新版高級 2012(H24)
7 新版 中日交流 標準日本語 初級 上下 第二版 新版初級 2 2014(H26)
8 新版 中日交流 標準日本語 中級 上下 第二版 新版中級 2 2015(H27)
9 新版 中日交流 標準日本語 高級 上下 第二版 新版高級 2 2018(H30)
※表中の略称は便宜的なもの。

「標準日本語」は、中国語を母語とする一般社会人向けの独習用日本語テキストとして開発されたため、「旧版初級」発行当初は中央電視台のテレビ講座で日本語を学習する個人ユーザーを中心に普及していったようです。しかし、その後、一部の日本語学校や企業などでも「標準日本語」を利用するところが増えていったと聞いています。

また最近では、高級中学の日本語課程で「標準日本語」が採用される傾向があるという報告を受けています。これは、「高考」で日本語を選択する可能性に備えて日本語課程を新設する高級中学が増えているのに伴い、ゼロベースから日本語を履修する生徒が多い学校では、独習用の「標準日本語」が好適であると認められたからだと考えられます。

中国側との協力がうまくいったそうですが、障害はありませんでしたか

前述のように、合作に際しては役割分担を明確にし、各々の担当に集中して作業を行ったことで効率的に編集を進められたと思っています。そして、原案を日本側が作成し、内容の審査は中国側が行い、中国側が翻訳したものを日本側が校閲するという過程を経ることで、双方の理解のズレを修正する機会を確保することもできていたように思います。

障害というのとは違うと思いますが、「旧版初級」の編集当時はまだ、現在のようにメールはもちろんファックスも一般化しておらず、また宅配便の普及以前ということもあり、通信手段の主体は手紙と電話でした。

ただ、電話にしても人教社の担当部署への直通回線はなく、代表電話にかけてから取り次いでもらうという状況で、迅速なコミュニケーションという点ではとても難儀していたように思います。

内容について注意した点はありますか。内容はどう改訂されてきましたか?

「標準日本語」以前の日本語テキストは、ニュートラルな日本語本文を提示する本冊に対して、文法解説等は言語ごとに別冊で用意されているというものが大半でした。

しかし、「標準日本語」では、中国語話者の独習用日本語テキストということで、場面設定や話題など内容面を中国に特化するとともに、課文(本文)の提示と中国語による解説を一体化させて、教師が不在でも確実に学習の積み上げが可能となるよう緩やかな学習進行と配列構成を心がけました。学習項目(言語材料)を課文で再現する。それを例に運用面などを中国語で解説する。用例にも対訳を付す。学習項目(文型等)の基礎練習を繰り返す。応用問題に取り組む。こうした学習の流れによって無理なく学習項目の定着を図るというのが、基本的な構造です。

また、独習用ということから、学習者がそのまま覚えて使用しても問題ない表現等を提示するなど留意しました。例えば、動詞については「辞書形」より前に「ます形」を提出しています。

後に日本語学校などの中国人の日本語指導者からは「ます形」から提出する考え方に異論が寄せられましたが、指導者の存在を前提としない「標準日本語」では、学習者が覚えて実際に運用した際に相手に失礼な感じを与えることがないよう、丁寧な表現である「ます形」から導入することが無難だと判断したものです。

さらに、解説の中では、中国語話者に特化した留意点(中国語話者だから起こりがちな間違いなど)にもできるだけ触れるようにしました。例えば、“我父亲”は「わたしの父」と日本語では「の」が必要なこと、逆に連体修飾の場合「×おいしいの料理」や「×森さんが座るの場所」のように「の」は付けないことなどです。

「標準日本語」の発行状況は前掲の表のとおりですが、旧版シリーズから新版シリーズへの改訂では、シラバス(項目配列等)自体を大きく見直し、単元の概念を導入して 4 課単位でのまとまりを持たせるようにしました。また、新版シリーズでは登場人物の設定を明示し、ストーリー性のある会話課文を展開するようにしました。

新版シリーズでは「第二版」を発行しました。「標準日本語」は「日本語能力試験」(JLPT)に合格することも目標とし、JLPT の出題基準を参考にしてテキストを編集しています。具体的には、テキストの巻末に JLPT の出題基準に応じた「日本語能力試験模擬試験」を設けています。前掲の表の No.4~No.6 については JLPT の旧出題基準(4 級→1 級の 4段階)に基づいていましたが、新出題基準(N5→N1 の 5 段階)への変更に伴って、「日本語能力試験模擬試験」を修正し、「第二版」としました(No.7~9)。

シラバスや単元構成等は変わっていません。また、新版シリーズでは、新たに上級レベル(JLPT の N1 相当)のテキストを開発しました(No.6,9)。

中国の日本語学習熱について感じる面はございますか。

「標準日本語」は、日本企業への就職・転職を目指す社会人を中心に受け入れられてきており、かつてほどではないとしても、その傾向は現在も続いているように思います。また、新しい流れとしては、前述のような「高考」対策で日本語を選択する生徒が増えているという現象もあり、学校教育においても日本語学習熱が高まりつつあることが感じ取れます。

中国以外で、日本語の教科書を出版されていますか。

韓国の時事日本語社から『STANDARD 標準日本語』(全 4 巻)が発行されています。これは、「新版初級」の上下巻を韓国語版にカスタマイズしたもので、2009(H21)年から2010(H22)年の間に段階的に 4 巻が発行されました。

なお、「標準日本語」に関しては、教科書ではなくテキストという呼び方をしています。いわゆる検定教科書との混同を避ける意味合いもあります。

この教科書を使った人からの反響があったら教えてください。

「標準日本語」によって自分の人生が変わったと言う人がいます。その人は、「旧版初級」で初めて日本語に出会い、テレビ講座等を受講しながら日本語の独習を続けてきたそうで、日本への留学経験はなかったようですが、JLPT のレベル認定を取得して、現在は地方の大学で日本語の教鞭を取っているとのことです。

また、反響というのではありませんが、1990 年代に訪中した際の帰りの空港で、「旧版初級」を手にしている警備員を見かけたことがあります。尋ねてみると、仕事をしながら「標準日本語」で日本語を勉強したという人もいました。

光村図書出版は教科書として親しんでいますが、会社の概要をお教えください。


創立は 1949(S26)年で、社員は 227 名(2022 年 4 月現在)です。本社は東京都品川区にあり、全国に 9 支社を置いています。主に小・中・高等学校用の検定教科書および付帯する出版物の編集・発行を行っており、教科は、小学校は国語、書写、生活、英語、道徳、中学校は国語、書写、美術、英語、道徳、高等学校は書道と美術です。小・中学校の一部の教科についてはデジタル教科書も制作しています。

一般書籍や教育書等の編集・発行も行っています。人民教育出版社(人教社)との合作による『中日交流標準日本語』(「標準日本語」)もその一つですが、これは中国語話者を対象とした日本語テキストのため、主に中国国内で販売されています。定期刊行物としては、日本文藝家協会編纂の「ベスト・エッセイ」(年 1 回)や、児童文学総合誌「飛ぶ教室」(年4 回)があります。「飛ぶ教室」は、1981(S56)年に創刊し、10 年間のインターバルを挟み、2005(H17)の復刊後現在(2022 年 7 月)まで、発行は通算で 125 回を数えます。「飛ぶ教室」の連載作品の一部は単行本としても発行されています。このほか、「国語」の教科書に掲載されていた作品をアンソロジー形式で編んだ「光村ライブラリー」(小学校編・中
学校編)もあります。

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