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命がけで海外に渡った人たち⑦ もし嵐に遭っていなければ ジョン万次郎

最近読んだ本の中に、ヒトが長寿になる原因について、こんな下りがありました。

環境要因が七五%、遺伝要因が二五%とも言われています。論拠は双子の寿命に関する研究です。遺伝情報がまったく同じ双子なら、 亡くなる時期も同じはずなのに、四組中三組でそうならないことがわかったのです。遺伝情報より環境のほうが、影響が強いということですね。

「老い方 死に方」養老孟司 
 PHP新書 69p

ここでの話題は寿命ですが、その人がどんな人間になって、何を成し遂げるかも環境がかなり影響しているのでしょう。

この下りを読んで思い出したのがジョン万次郎という人です。

歴史の教科書で彼の名前を知った人もいるはずです。

中浜万次郎とも呼ばれる彼は、1825年に土佐国(現在の高知県)の浦戸で生まれました。1837年、14歳の時に遭難します。この遭難がなかったら、ごく普通の漁師として一生を過ごし、教科書に名前が載ることもなかったはずです。

1837年1月11日でした。土佐国(現在の高知県)浦戸を出発。鰹漁船に乗っていた万次郎たちは、翌12日に暴風雨に遭い、船は転覆してしまいます。

万次郎は仲間と共に必死に海に漂っていました。

その後、万次郎は仲間と共に漂流を続け、1837年5月20日、無人島である鳥島に漂着します。鳥島は周囲約1.5キロメートル、海抜約30メートルの小さな島で、食料や水はほとんどありませんでした。万次郎は、洞窟で生活しながら島でトカゲや貝、野草を採ったり、雨水を飲んだりして、なんとか生き延びました。

決定的なのは火打ち石がなく、火が使えなかったことです。島にいた鳥を捕まえ、肉を天日干しにして食べたそうです。水には特に苦労し、時には自分のおしっこを飲んだと『漂巽紀畧 全現代語訳 (講談社学術文庫)』で回想しています。

鳥島での生活は約5ヶ月間続きました。

台風や高波に襲われたり、島にいた野犬に襲われたこともありました。

しかし、万次郎は希望を捨てずに生き抜き、島での生活を記録するための「漂流記」を書き始めました。

1837年9月20日、アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」が鳥島に上陸し、万次郎は救助されます。万次郎は、船長ウィリアム・ホイットフィールドに親切に扱われ、船上で英語や航海術を学び、船員たちからも信頼されていきます。

彼がアメリカに着くまでには実に6年近くかかっています。

1837年1月11日:土佐国(現在の高知県)浦戸を出発
1837年5月20日:無人島である鳥島に漂着
1837年9月20日:アメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に救助される
1843年5月:アメリカのマサチューセッツ州ニューベッドフォード港に入港

鳥島からニューベッドフォード港までの航海日数は、約5年10ヶ月。
高知からボストン 乗りつぎ含め約16時間 

その後アメリカで7年間生活し、英語や航海術を学びました。優秀な成績だったそうです。

1849年に帰国し、幕府の翻訳官や海防参与として活躍しました。ペリー来航時には通訳を務め、日米修好条約締結にも貢献しました。

ジョン万次郎の生涯から、以下のような教訓を学ぶことができます。

  1. 困難に立ち向かう勇気

ジョン万次郎は、遭難、アメリカでの生活の中で、予想外で困難な状況を乗り越えながら、多くのことを学びました。この経験は、私たちに困難に立ち向かう勇気と、どんな状況でも諦めない強い意志を持つことの大切さを教えてくれます。

  1. 異文化理解の重要性

ジョン万次郎は、アメリカでの生活を通して、異なる文化を持つ人たちと共存することの重要性を学びました。帰国後も、幕府の外交官として、欧米諸国との交渉に尽力しました。

  1. 新しい知識への探求心

ジョン万次郎は、常に新しい知識を学び、自身の視野を広げようとしていました。アメリカでは、英語や航海術だけでなく、様々な学問を学びました。数学、測量、造船、キリスト教、政治、経済、法律、医学など、幅広い分野の知識を身につけていたようです。

彼の行動の特色はこの3つに要約できるでしょう。

あの日の嵐が、少年を別の世界に運びました。環境が、いかに人を成長させるかということでしょう。


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