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命がけで海外に渡った人たち③ ロンドンに留学した夏目漱石

文豪という言葉がぴったりする作家と言えば、何と言っても夏目漱石でしょう。今も愛読者が多い彼は、明治時代に国費でロンドン留学を果たしています。

定期旅客船で向かったので、命がけというほどではなかったかもしれませんが、1か月以上の長い旅路でした。どんな思いで、何を見たのでしょうか?

明治33(1900)年9月8日、漱石は、横浜港からロンドンに向けて出発しました。

日本からロンドン直行便 約14時間半
漱石の船旅 40日間

船の名前は「プロイセン」号でした。東シナ海を南下し、上海、香港、シンガポールを経てナポリに到着しています。


出航から11日後の午後4時ごろ、香港の九龍に寄港しました。 上陸した漱石は日本の味が恋しくなったのか、まず日本人が経営する旅館に直行し和食を食べたそうです。

帰船後に見た香港の夜景はダイヤモンドやルビーをちりばめたような美しさだったと記しています。おお、この印象は今と変わりませんね。

翌日はスターフェリーに乗って香港島へ行き、ピークトラムでビクトリアピークに登頂しています。 香港の眺望を楽しんだあと再び船に乗りロンドンを目指しました。

シンガポールの印象も書き残しています。

 二十五日 昧爽、シンガポール着。頗る熱き処と覚悟せしに非常に涼しくして、東京の九月末位なり。尤も曇天なり。土人丸木をくりたる舟に乗りて船側を徘徊す。船客銭を海中に投ずれば海中に躍入ってこれを拾う。

 土人にて日本語を操る者、日本旅館松尾某の引札を持して至る。命じて馬車二台を二円五十銭ずつにて雇わしめ、植物園に至る。熱帯地方の植物、青々として頗る美事なり。また、虎・蛇・鰐魚を看る。Conservatoryあり。それより博物館を見る。余り立派ならず。

帰途、松島に至り午飯を喫す。此処、日本町と見えて醜業婦街上を徘徊す。
 妙な風なり。午後三時、再び馬車を駆って船に帰る。三時半なり。

(明治33年9月25日 日記 より)

熱帯の気候に戸惑った様子がうかがえます。ここでも結局日本食でしたね。

約40日後、彼は初めてヨーロッパに降り立ちます。当初、漱石は近くのポンペイ遺跡やローマを見学する予定でした。

しかし、パリで万国博覧会が開催中でした。ポンペイやローマ観光はまたできるかもしれないが、パリ万博はこのチャンスを逃せば、機会はないかもしれない。

そう思った漱石はナポリ国立博物館でポンペイ出土品を見るにとどめ、陸路でパリに向かいます。

パリで開催中の万国博覧会を見物し、エッフェル塔にも登りました。

この時の様子を妻に書き送っています。

目的地のロンドンに着いたのは、10月28日の夜でした。漱石は留学先を決めるために11月初めケンブリッジを訪れましたが、国から支給される留学費用では足りないため断念し、ロンドンに戻りました。

当時、ロンドンは物価が高く、年間1,800円の留学費用で暮らしていくのは大変でした。最初の下宿は1日に6円もかかります。このため早々に切り上げて安い下宿に移りました。

今も英国は海外留学先として、最もお金がかかる国でしょう。

ロンドン語学留学・半年間(6ヵ月間)の場合に必要な費用はざっと200万円という試算もあります。あくまで語学留学の場合です。

ロンドン・半年間(6ヵ月間)の合計
1,266,120円(A)+894,000円(B)=2,160,120円
ざっくり、220万程となりました。思ったより高いと感じるか、安いと感じるかは人それぞれかもしれませんが、この費用は他の英語圏であるカナダ・アメリカ・オーストラリア・ニュージーランドでもさほど変わりません。

以下のホームページ

国費留学だった漱石ですが、2年間のロンドン滞在で5回住居を変えています。苦労していたのですね。

 漱石は、ロンドン大学のユニバシティ・カレッジのケア教授の講義を2か月ほど受講しただけでやめてしまいます。翌年1月からはケア教授の紹介でシェイクスピア研究者として著名なクレイグのところで個人教授を受けることにしました。

漱石の留学命令は「英語研究」でしたが、漱石は「英語」ではなく「英文学」を研究課題にしていました。

当時、国から派遣された留学生は、半年に一度留学の状況を文部省に報告する義務がありました。それを申報書といいますが、五高記念館には3通残っています。

最初の申報書は、明治34(1901)年1月に書かれたもので、

「物価高直ニテ生活困難ナリ十五磅ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ大学ノ講義ハ格別入学科授業ヲ払ヒ聴ク価値ナシ」

とあります。個人教授についたことも記されています。

ところが、同年7月の申報書はクレイグに1回5シリングを支払っているということ以外、何も書かれておらず、他は空欄でほぼ「白紙」状態。明治35(1902)年1月と7月に提出されているはずの申報書は現存しません。

 個人教授もやめてひたすら「自修」する日々でした。あれあれ、文豪の留学生活は、意外と孤独で辛いものだったんですね。

文部省に「夏目発狂す」との知らせが届きます。文部省に送った「白紙」の申報書が噂に拍車をかけます。留学期限の1か月前、ドイツに留学していた藤代禎輔に「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」という命令が下ります。

しかし、藤代が実際に漱石に会ってみると心配する状況ではないとして、漱石は藤代より2船遅れて12月5日、帰途につきます。

 ロンドン留学の2年間は、漱石にとっては「不快」な時代でした。金銭面の不如意から精神的にも追い込まれたはずです。

一方で、日本人である自分自身を基準にするしかないという「自己本位」を確立した時代でもあります。

熊本市西区のホームページなどを参考にしました。

ダウンロード可能資料
漱石が見た西洋建築
https://www.meijigakuin.ac.jp/gengobunka/bulletins/archive/pdf/2018/24TakeshiAoki_p36.pdf

現在ダウンロードがうまく行かないようです。
漱石の欧州航路体験
日本クルーズ&フェリー学会
http://cruise-ferry.main.jp › uploads › 2020/04
PDF

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