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忘れられた北朝鮮版「東京ローズ」

 朝鮮戦争が休戦となって今年で70年となる。あくまで休戦であり、見えない緊張が続いている。

 朝鮮戦争を巡るさまざまなエピソードの1つに、ソウルシテイ・スーの存在がある。朝鮮戦争中に対米プロパガンダ放送をした米国人女性のことだ。

 日本にも同じような女性がいた。第2次戦争中の東京ローズだ。東京ローズとは、日本のラジオ放送を通じてアメリカの兵士に向けて厭戦プロパガンダを行った女性ラジオパーソナリティの通称だ。複数の女性がこの名前で放送を行ったとされる。

 アメリカ兵士に対して日本軍側からのメッセージを送り、彼らの士気を低下させることを意図していた。

戦後、複数の女性が東京ローズの名前で当時のことを告白し、有罪判決を受けたが、その中には無実の者もいましたとされる。プロパガンダ放送は強制的に行われたことも分かっており、遅かったとはいえ、彼女たちの名誉は回復されている。

北朝鮮版「東京ローズ」の存在は、韓国では有名だ。そのアメリカ人女性は「ソウルシティス(Seoul City Sue)と呼ばれた。


Anna Wallis Suhが本名で1900年にアメリカのアーカンソー州ローレンス郡で生れた。6人の姉妹の末っ子だった彼女は、オクラホマサウスイースタン師範大学(Southeastern State Teachers College)を卒業した後、テネシー州ナッシュビルにある宣教学校に入った。

1930年、彼女は宣教師の資格で朝鮮に入国し、宣教活動をした。そんな中、1938年に日米関係が悪化し、朝鮮総督府は彼女の宣教活動に制裁をかけ始めた。

彼女は結局上海に渡り、国際学校で英語教師として勤務した。彼女はそこで徐奎哲(ソ・ギュチョル)に会ったが、誠実な彼の姿を見て恋に落ち、結婚した。太平洋戦争が終わり、彼女は夫ソ・ギュチョルに従ってソウルに戻った。

アナは自分のアメリカ国籍を回復するために米国大使館を訪れたが、パスポートの発行には失敗した。

しかたなく彼女は、ソウル駐在外交官の子供たちを教える家庭教師として働いた。この時、夫のソ・ギュチョルは新聞記者として活動したが、左翼的な行動が発覚し、新聞社を解雇された。

翌年1950年6月25日、韓国戦争が勃発した。アナとソ・ギュチョルは避難しなかった。開戦3日後にソウルに進軍した北朝鮮軍は7月10日、ソウルに残っていた知識人たちを集めて北朝鮮労働党への忠誠誓いをさせた。この時ソ・ギュチョルも含まれていた。アナも夫に従って北朝鮮に忠誠を誓った。

7月18日、北朝鮮軍は彼女をソウル放送局に連れてきた。そして彼女は毎朝9時30分から午後10時15分まで放送室に座って北朝鮮側が与える台本を読むよう教育された。台本は高麗大英文科の教授が書いてくれたという。

「ラジオソウル(Radio Seoul)」と命名されたこの放送は、米軍をターゲットにしていた。彼女が語ったのは、ほとんど「早く故郷の家に戻ってアイスクリームや買いなさい」のような内容だった。

捕虜となった米軍捕虜たちの名前を発表したり、北朝鮮の沖合で哨戒する米海軍軍艦たちに歓迎挨拶をして、戦闘員として徴集され始めた黒人たちに「人種差別に立ち向かえ」とけしかけた。

米軍側はこの女性がアメリカ人であると確信した。なぜなら彼女は英語を非常に正確に発音したからだった。米軍は当時流行していたカントリーソンである「Sioux City Sue」になぞらえ、 彼女を 「ソウルシティ・スー(Seoul City Sue)」と呼び始めた。

彼女は人気があまりなかった。なぜなら彼女の年齢はすでに50代だったからだ。

米軍兵士たちは若い女性の声でもなく、母親世代の女性が読む放送を聞きたくなかった。さらに、バックグラウンドミュージックは退屈で、眠気をよび起こした。

日本の「東京ローズ」が、爽やかな声で最新歌謡を流したのとは対照的だった。

戦局が不利になるとスーは平壌放送局の職員になり、放送を続けた。1951年には一時的に平壌12号収容所に収監された国連軍捕虜を洗脳する役割を担った。その後休戦協定が締結されると、平壌放送局は対米宣伝放送を停止した。

60年代初めまで彼女の顔が載った対南ピラが休戦線付近で発見されている。

その後、1960年代に月北した米軍脱営兵チャールズ・ロバート・ジェンキンス(Charles Robert Jenkins)は、自分が1965年に平壌で彼女と会ったことがあったと証言した。

しかし、後に北朝鮮の管理者に聞いてみると、彼女は1969年スパイ罪で逮捕され、銃殺されたという話を自著に書いている。

以下がその記述である。

北朝鮮では米国人を見かけることはほとんどなかった。外交上の会議やNGO活動のためにやって来る者はもちろんいたと思うが、私はそうした米国人に会ったことはない。百パーセント確実に米国人だと言えるのは、いつもの四人組だけだ。それにスー・アンナだ。

ス―・アンナは北朝鮮では伝説的な人物だ。悪名高いと言うほうが正しいかもしれない。うわさによれば、彼女が北朝鮮に来たいきさつはこうだ。

朝鮮戦争が始まった当時、スー・アンナの夫はソウルのラジオ局に勤めていた。ところが夫が戦争を激しく非難する番組を制作したため、韓国軍兵士に襲われて撃ち殺され、ス―・アンナは北へ逃れた。いったん北朝鮮に落ち着くと、彼女は「東京ローズ」のソウル版、「ソウルのス―」となった。
スー・アンナは朝鮮戦争中、韓国で従軍中の米軍兵士の戦意を失わせようと、母国のガールフレンドが浮気しているはずだと呼びかけてみたり、その日戦死した米兵の名前を淡々と読み上げたりした。彼女が本当に北朝鮮シンパだったのか、あるいは彼女もある意味では拉致被害者で、意思に反して北朝鮮に協力させられたのか、私は真相を知らない。

ス―・アンナは後に、朝鮮中央通信社の英文出版物の責任者になった。私は一九六五年に第二百貨店の外国人専用コーナーへ行ったときにス―・アンナに会った。同店へ行きたいと指導員に言うと「好きにしろ」と言われたので、私一人だった。
さっそく近づいて、「こんにちは、ス―・アンナ先生」と呼びかけた。冬のことで、彼女はとてもきちんとした黒いコートを着ていた。

驚いた様子で振り返って私を見ると、「ああ、最近やって来たという米国人ですね」と言った。私はうなずいたが、彼女が明らかにおどおどしているのがわかった。その後また会う機会があったが、彼女は一刻も早く逃げ出したいという感じだった。申し訳ないが時間がないと言って、ス―・アンナはそそくさと消えた。

次にス―・アンナのことを耳にしたのは一九七三年、士官学校で英語を教えていた頃のことだ。北朝鮮人教師の一人が教科書か何かを取りに朝鮮中央通信社へ行くと言ったので、ドレスノク(北朝鮮にいた別の元米兵)が「スー・アンナによろしくな!」と言った。するとその教師は持っていた資料をどさっと床に取り落とし、「あの死んだクソいまいましいスパイにだって」と叫んだ。

私たちにはわけがわからなかった。その教師によれば、1969年にス—・アンナはスパイ容疑で逮捕された。長年にわたって密かに韓国側に情報を流していたとして、処刑されたのだという。本当の話かどうか全くわからないが、少なくとも私たちはそう聞いた。

告白 リチャード・ジェンキンス著

彼女のものと思われる声が流れるYouTube番組。北朝鮮は、スーのことについて公式にコメントしたことがない。

最近も米国兵が北朝鮮に逃げこむ事件があったが、体制宣伝に利用されたうえ、最後は惨めなことになるのではないか?

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