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岡潔の学問観について

 ぼくが思索をするとき、その基盤となっているのが岡潔(1901-1978)という一人の日本人である。今では多くの人が現状の学問や教育になんとなく違和感を感じていると思うが、岡潔は学問や教育の問題点を鮮やかに描き出す。

 これは日本だけのことでなく、西洋もそうだが、学問にしろ教育にしろ「人」を抜きにして考えているような気がする。実際は人が学問をし、人が教育をしたりされたりするのだから、人を生理学的にみればどんなものか、これがいろいろの学問の中心になるべきではないだろうか。
 しかしこんな学問はまだないし、医学でも本当に人を生理学的にみようとはしていない。それを目指しているのかもしれないが、それにしては随分遅れている。

人の情緒と教育

 太線による強調はぼくが行なった。言われてみれば「確かにそうだ」と腑に落ちると思う。病院に行き医者に診てもらうと、患者を機械的に診察して情報を収集し、カルテを作る。そしてカルテを分析して、患者を診断している風景は珍しくない。冷静に見れば、医者は目の前に居る患者という「人」を抜きにして考えている。人を見ているようで全く見ていない。また見ようとしても物質現象しか見えず、生命現象については全く無知盲目である。これが現状の事実風景なのだ。だから『医学でも本当に人を生理学的にみようとはしていない』のであって、学問の現状は今も変わっていない。つまり学問は未だに中心を持たない状態に在る。これではまともな発展はできる筈がない。
 世間一般では、学問の技術発展は目覚ましく進んでいるかのようにイメージされているが、実情はそう明るくない。この事実をまずは冷静に認めることである。学問が本当に発展するには『人を生理学的にみればどんなものか』と問い、これをいろいろの学問の中心に据えて、根本から学問を考え直す必要がある。
 岡潔は学問を文化の一部として置き、医学のわかっていない領域を遥かに超えて美しく学問を語る。その悠々とした岡潔の学問観を紹介したい。そこで重要な鍵を握るのが《情緒》という岡潔独特の造語である。少し長いが、引用してみよう。

 文化は食物と同じで、同化して初めてその人のものとなって働くことができる。そして同化とは、ひっきょうその人のメロディーがそれだけ密度を増すということにほかならない。密度を増せば喜びも強くなる。たとえば「しみじみとした喜び」を感じることがある。これはメロディーがメロディー自身を喜んでいるのだと言えよう。

 わかるというのは大宇宙がそれだけ広くなることである。いったんわかったら何を見てもわかるものなので、たとえば俳句を見てわかるといえば、だれの句はわかるがだれの句はわからないということはなくて、みなわかる。しかも、いつの日からわかるようになったのである。まことにふしぎだが、それをだれもふしぎとは思わないようである

 生命の緑の芽に水を注ぐといったが、ここのところを少し生理的に考えてみよう。なにがしかの感激が外界にあったとする。これが五官を通して大脳側頭葉の知覚中枢を経て大脳前頭葉に報告され、そこで感情によって受け入れられる。すると初めて本当に人の内部に取り入れられたことになる。このあとその感情がだんだんと素朴化されることによってだんだん深くはいってゆく。そしてついに情緒の中心に達する。ここからは交感神経系統、副交感神経系統が出ていて、全身との連絡がついている。それでこの素朴化された情緒が、大脳だけでなく全身に回る。そしてからだ全体がその情緒のうるおいによっていきいきする。とりわけ情緒の中心と心臓とは密接に連絡していると思われる。この器官は、心の喜びを欠いては生きていけないらしい。

 数学上の発見の場合は、鋭い喜びの感情となって肉体に回る。漱石が「午前中の創作の喜びが午後の肉体の愉悦になる」といっているのも、このつながりを指したものといえる。また光明主義という宗教の一派では、修行が肉体や心の各部分の喜びになるとして、これを「諸根悦予」と表現している。そのほか、すぐれた本を読んで感激するなど、感激のとり方はさまざまであるが、こうして生きがいを感じて生きている人の顔色は生命に輝いて見える。これは健康の色どりとは別種類のものなのである。

 また、取り入れられた情緒の一部はそのままたくわえられる。生理的にどこにたくわえられるか、医学的にはまだわかっていないらしいが、たくわえられると、情緒のきめはだんだんと細かくなる。こうして情緒が深まってゆく。これが正しい意味の教養だと思う。

晩年初期の発言

 岡潔の造語である《情緒》とは、物質でなく生命であるから、脳を解剖して医学的に調べてみても情緒は決して見つからない。岡潔の純粋経験から導かれた実感が《情緒》であり、それを基に『人を生理学的にみればどんなものか』と云う難問の第一着手を提示しているのだから、斬新な学問観である。さらに晩年中期には情緒の解明が進み第二着手を次のように提示している。

 日本は心の国ですが、心の国では印象と情緒だけが一切です。印象の心を情緒といい、情緒の姿を印象と云う。これは一体で、表裏一体で、妙観察知で相映る。この印象と情緒が一切です。

晩年中期の発言

 なにがしかの感激が外界にあったとすると、それが心の奥深くに浸透して「印象」となることは誰しも納得できると思う。岡潔は例として、数学上の発見・宗教の修行・すぐれた本の読書を挙げている。ぼく自身で言えば、岡潔の書いたすぐれた本を読んで感激し、その印象が深く刻まれているからこそ、長年に渡ってこうして岡潔を読み続けている。そのような「印象」と、表裏一体のものが『情緒』であると岡潔は言うのだ。
 ぼくたちは、経験から「感激が印象になる」ことはなんとなく(情的に)わかっている。だが、その生理的なメカニズムに迫ろうとするなら、岡潔のように「印象」の背後にある『情緒』を解明して初めて(知的に)わかってくる。

 数学に限らず、情的にわかっているものを、知的にいい表そうとすることで、文化はできていく。

 学問は文化の一部だ。岡潔のいう情緒は、新しい文化を日本に創造しようとする強靭な努力の基盤である。印象の背後に潜むもの(情緒)を解明する洞察力は驚嘆に値する。つまり、物質科学を超克する『生命科学』を建設するための萌芽が、既に岡潔によって発見されている。
 さらに晩年中期には、情緒(印象)が生理的にたくわえられる場所を「後頭葉、頭頂葉あたり」と突き詰めてゆく。当然『医学的にはまだわかっていないらしい』ので、情緒(印象)の研究は将来の新しい学問に課せられた重要な問題である。
 いわゆる自然科学は物質科学と言っても同じものである。で、岡潔は晩年になると頻りに「自然科学(物質科学)は間違っている」と発言している。

 今は間違った思想の洪水です。世界は間違った思想の洪水です。これから逃れなければ人類は滅びてしまう。で、その為に思想の間違いの根本はどこにあるか、それを調べましょう。一番怪しいと思えるのは自然科学です。それで自然科学から調べます。大体、自然科学というものは、自然とはどういうものかということを言わないで、自然というのはわかり切っていると一人決めにしている。そして、これについて科学した結果を集めたものです。だから、かようなものは学問とはいえません。これは単なる思想です。それで、これを調べようと思います。

 自然科学者は自然というものをどういうものだと考えているかということを代りに言ってやって、そして、それを検討するより仕方がない。自然科学者は初めに時間、空間というものがあると思っています。絵を描く時、初めに画用紙があるようなものです。そう思ってます。時間、空間とはどういうものかと少しも考えてはいない。これ、空間の方はまだ良いんですが、わかりますから。時間の方はわかりませんから。時間というものを表わそうと思うと、人は何時も運動を使います。で、直接わかるものではない。運動は時間に比例して起こると決めてかかって、そういう時間というものがあると決めてかかって、そして、時間というものはわかると思っています。空間とは大分違う。人は時間の中なんかに住んでやしない。時の中に住んでいる。時には現在、過去、未来があります。各々、全く性質が違うんです。それ以外、いろいろありますが、時について一番深く考えたのは道元禅師です。が、その時の属性のうちに、時の過去のうちには「時は過ぎ行く」という属性がある。その一つの性質を取り出して、そうして観念化したものが時間です。非常に問題になる。が、まあよろしい。ともかく初めに時間、空間というものがある、その中に物質というものがあると、こう思っています。

 物質は、途中はいろいろ工夫してもよろしい。たとえば赤外線写真に撮るとか、たとえば電子顕微鏡で見るとか、そういう工夫をしても良い。しかし、最後は肉体に備わった五感でわかるのでなければいけない。こう思ってます。それじゃあ、どんなに工夫しても五感でわからないものはどうなのかというと、そういうものはないと思っている。「ない」といってるんじゃありません、「ない」としか思えないのです。だから、仮定とも何とも思ってやしませんから、それについて検討するということはしない。五感でわからないものはないというのは、既に原始人的無知です。しかも、自分がそう仮定してるということにさえ気付かない。それについて考えるということができないというのは、実にひどい無知という外はありません。そう感じます。で、そういう物質が自然を作っている。その一部分が自分の肉体である。ところが、空間といわないで、時間、空間といいました。だから空間の中に物質があって、それが時間と共に変化するということでしょう。だから物質があれば働きが出る。それで自分の肉体とその機能とが自分である。自然科学者はこう思っています。これはしかし、自然そのものではなくて、自然の極く簡単な模型だと、そう感じます。それで、これに名前をつけて物質的自然と、そういうことにします、のちに要るでしょうから。

 ところで、自然のできるだけ簡単な模型を考えて、その中を科学するということは、知ってやってるのだとすれば確かに一つの研究方法に違いない。知らずにやってるんですけど、それでもある結果は出るだろう。そうは思います。しかし、こういう簡単な模型の中だけを調べたのでは、わかるものは物質現象だけで、生命現象はとてもわからないのではあるまいかと、こういう疑いが起こります。それで自然科学に聞いてみましょう。

 人は生きている。だから見ようと思えば見える。何故であるか。自然科学はこれに対して本質的なことは一言も答えない。余計なことはいっています。視覚器官とか視覚中枢とかいうものがあって、そこに故障があったら見えないという。故障がなかったら何故見えるかは答えない。だから本質的なことは何一つ答えられないのです。人は立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が突嗟に統一的に働くから立てるのですが、何故こういうことができるのか。これに対しても自然科学は本質的なことは一言も答えられない。人の知覚、運動、どれについても本質的なことは一言も答えられない。知覚、運動というのは生命現象の「いろは」でしょう。もすこし突っ込んだものを申しましょう。人は観念することができる。観念するというのはどういうことをいうのか。一例として、哲学することができる。何故か。自然科学は勿論、一言も答えられない。人は認識することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。人は推理することができる。何故か。これに対しても一言も答えられない。それじゃあ一番簡単に、人は感覚することができる。何故か。これに対してすら自然科学は一言も答えることができない。

 それじゃあ物質現象なら可成りわかるのか。で、聞いてみましょう。物質は諸法則を常に守って決して背かない。何故か。これに対しても自然科学は一言も答えられない。だから物質現象のほんの一部分、非常に浅い部分だけしかわからんのです。で、それでも人類の福祉に役立ってはいます。たとえば医学は自然科学です。可成り人類の福祉に役立ってはいます。しかしながら、医学の人類の福祉に役立つ役立ち方は、何が何だかわからんままに役立っています。ところで、間違った思想の洪水から逃れようとするには、智が要ります。無知なままで福祉に役立ってたところで仕方がない。それで物質現象のほんの一部分しかわからんというのは、完全な無知とほとんど選ぶ所がない。

自然科学は間違っている

 だから『人類は今、基礎的知識体系(学問)などというもの、一切持たない。』と岡潔は言う。一般的には学問と言えば自然科学(物質科学)が大部分の位置を占めるが、いま見たように『自然科学(物質科学)は学問とは言えない、単なる思想』であるならば、従来の学問観はすべて幻想に過ぎずガタガタと音を立てて崩れ去る。
 さらに『自然科学(物質科学)は本質的には、道具を使う猿の知恵と何ら変わるところがない』とまで岡潔は明言しており、岡潔の天才は余りにもずば抜け過ぎていて最初はどうしても面喰らうだろう。学問の発展は本当に随分と遅れている。なにせ「猿の知恵と何ら変わるところがない」のだから、ここらで従来の学問観を根本の根本から反省すべきである。自然科学(物質科学)の時代は終わったのだ。この学問とすら言えない単なる思想への迷信から目を醒ます時代が来ている。

 これを極端論で片付けて無視するのか、きちんと岡潔の発言に耳を傾けて学問観を革新し新しい日本の文化を築いてゆくのか、それは我々一人ひとりの努力に懸かっている。なによりも生命の科学(超自然界=法界の科学)の建設が急務であることは言うまでもない。

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