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死刑台のボタンと人々のしごと 〜責任の希薄化のくふう


たまには毒のあるタイトルと、毒のある内容で。


命を奪う責任の分散

先日のニュースで、大阪拘置所の死刑執行ボタンが5つあることを知った。てっきりそれは3つだと思っていたので調べたら、新しい拘置所だと3つ、古いと5つなのだという。
それ以前は、刑場の横にあるレバー(誰ひとりボタンを押せない状況に備え、今も残されているそうだが)を倒す仕組みだったそうで、その責任の重さから少しでも刑務官を解放するために考えられた装置だと思われる。


その責任とボタンの個数nの関係を考えていたら、実は今の日本(に限らないが)の社会もこれと同じような仕組みなんじゃないかということに思い至る。nを限りなく増やす工夫がされているだけで。
刑務官と違うのは、そのボタンが人の死に直結していることを明確には知らされず、その結果を見ることも、またそうする責任もないということだろうか。

無邪気にボタンを押させ、それが自らの利益を増やしつつ、その結果による死者の存在に気付かせないので、ボタン押し職人は人気就職先になり、その結果として死体も増える。
nを増やして、ホメオパシーにおける飴玉のようにその責任を薄めれば、もはやそれは毒ではないと偽装できる。濃縮すればそれはしっかりと毒に戻るのだけどね。


かくて無邪気な死刑執行人の出来上がり。

できれば新人くんをここに配置して鍛えるのがいいね、若いみなさんは何かと入り用だし、これから頑張ってたくさんのボタンを押すだろうから。
我々は彼らの労働の上前を跳ねていれば左団扇だよ、はっはっは。

これが、現代のハローワークがお取り扱いの求人票の中身である。そしてこれ、各業界向けに色々なバージョンがあります。

そして、今はネットの普及でnは限りなく無限大に、その伝達速度は光速に近づいている。メリーゴーランドから降りることすら、これでは困難かもしれない。

ちなみにボブ・マーリイはこの仕組みを「バビロンシステム」と呼んだ。この言語化力よ。

Babylon system is the vampire, yea! (vampire)
Suckin' the children day by day, yeah!

 


住まいと生命保険というツール

建築の仕事も、たとえば新築の住まいについては、住宅ローンが団体信用保険と結びついた時から、実はその性格を帯びることになっている。生命保険はときに、人の命を換金するための仕組みになるからだ。

もともとはローンの支払い債務を、大黒柱を失った家族が避けるための、優しさから生まれた仕組みなのかもしれないが、結果として「旦那、死んじゃえばいいのに」などと呪いの言葉をつぶやく動機になってしまった。

そして、契約から一年経ってさえいれば、自殺でも免責にならず保険が下りる。なので旦那の方も不測の事態で職を失ったり、働けなくなったとき、自ら命を絶てば、少なくとも家族に家は残せる、という誘惑に駆られ、この世から去っていく。
この自殺免責がずっと有効ならばいいのでは?とも思ったが、それなら遺書もなく不慮の事故を装い死ぬだけだろう、覚悟を決めた人なら。それでは遺族としては状況は変わらないか、より悪い。

そして、先にこれはやさしさから生まれたのではと書いたが、古くは住宅金融公庫にはじまる公的ローンが団信の利用を義務付けている。要は官僚と金融機関が、債権取りっぱぐれリスクを最小化した仕組みを構築したに過ぎない、ともとれる。値踏み能力の不足の代わりに、人の命を質入れすることで。

イスラム金融とモラル

ここで違う概念を引っ張ってくる。

イスラムの世界では、基本的に商売は良いが利子は悪いという概念がある。そもそも預言者になったムハンマド氏が商人、てか嫁さん実家が豪商だし。

要は貸金に単に利子をつけて回収するような不労所得はモラルに反する、とした。これ、同じ神を持つユダヤ教に対する違いとして生まれた面もあるそうな。また、反道徳的な事業への出資も戒めて、社会の不安定化を加速しないタガを嵌めている。

近江商人の三方よし理論が、これに近いか。要は節度の話である。

そのイスラム金融の仕組みは、出資家に必ずリスクを負わせる。いわば今でいうエンジェル投資の類である。
貸すときに元本が返ってこないリスクを判断させ、それでも成立するように条件を決めさせる。成功すればプラス、失敗したらマイナス、元本保証なしということになるので、投資家は寝ているだけではなく、事業の成功を目指していろいろ支援することになる。そうなると、これは利を得ても不労所得ではなくなる。
言い換えれば、失敗したら死んで払ってね、という突き放しを認めず、成功したいならパートナーになって投資側も事業の成功のために汗をかかなくてはならないのだ。

要は、人の命を積極的に換金するような仕組みを避けている、イスラム金融の理念はこう捉えることができる。

先の話で行くと、官僚や銀行は住宅ローンを負った国民を殺したほうが責任を回避できる。全額回収できるから。そして生活が苦しくなった国民を生かして、債務の減免等となる方が失敗側ということになる。全額回収できないので。現状の仕組みとしてはこうなる。
さて、彼らのインセンティブは果たしてどちらに働いているのか。


頂き女子やホスト沼

その点から見ると、その真逆の存在がこれだろうか。

最近話題の、水商売(インディーズ含む)におけるトラブルは一対一対応が多く、まだ因果関係がすっきりしている。そしてその原因と結果は、そのとき当事者にしっかり届く。刃としてだが。

水商売は突き詰めると、客の性欲と孤独を埋める代わりに、その命を換金する商売だ。

以前はそれが利用者との二方よし、細く長くの、今でいう持続可能モデルだったのだが、現代のビジネスは効率が大切になる。

なので売春で使い倒したり全財産を貢がせる、持続不可能なシステム、回転効率重視のモデルに転換されただけの話なのだと思う。

なので、現代の有能なホスト君にしてみれば、たくさんのボトルを入れてくれて、そのために風俗で働けなくなるまで働いて、病んで歌舞伎町のビルから何も言わずに身を投げる女の子が最上の客だろう。
そしてそんな彼も実は鵜に過ぎず、親会社や、そこを賃貸している不動産屋などの鵜飼がひたすら太っているだけなのだが。

それを我々は批判したり、揶揄したりするのは簡単だ。


だが、その我々のやっていることは、彼らとどう違うのだろう。むしろ罪悪感を持たないように設計されている仕組みに乗っているとしたら、社会として考えたときには個人の良心という、儚いタガも効かないだけにより悪い。

たとえば疫病から命を救うという触れ込みの薬剤を処方した医療職や、それを理由にして生活の糧となる仕事を奪っていった人々は、そこにボタンがあった可能性がある答え合わせの未来(現在かもしれない)を、正視する勇気があるのだろうか。そしてその姿を子どもたちはどう眺めるのだろうか。


ボタンを見つめる責任

そう考えると、我々が生きている社会と、その構成員のほとんどは、頂き女子を批判する資格などないように見える。意識しないとそのボタンは見えないし、むしろ見たくない人の方が多そうだ。そして、それを押さない選択肢が自らにはないことに、薄々気づいている方もいるだろう。

だが、そのボタンは、ある日誰かがあなたの足元の穴を突然ひらくボタンでもある。

そこから離れられないのなら、せめてその自覚、誰かの命を奪っているという自覚を持って生きるのが、大人の嗜みだと最近は理解するようになった。それを続けるのか、違う道を探るのかという判断の必要性が、そこで生まれるからだ。それはその結果を引き受けるということでもある。

たぶん、復員してきた世代のおじいさんたちの、優しいが物言わぬ態度には、そういう理由もあったのだろうな。


そして若い頃、無邪気にそのボタンを押した人間として、若い人たちにそれとは違うボタンを少しは準備したいな、と思って仕事をしているのだが、なかなか社員を雇うほどの余裕もないのが実情である。力不足極まりない。

でも、こうして次の世代にそのボタンの存在を告げることが、彼らの身の振り方に何らかのヒントとなるのであればいいなと、投げっぱなしジャーマンみたいで申し訳ないが、心から思うのだ。


※参考文献


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