あらゆるものが“つながる”世界で――「波物語」の炎上騒動から

先月愛知で開催されたHIPHOPイベント「波物語」の乱痴気騒ぎが波紋を呼んでいる。コロナ禍において多くのイベントが自粛を迫られるなか、思わずギョッとするほどの密集っぷりと騒ぎっぷりがSNSで拡散されたわけである。が、私はいまさら運営の不備やらについて言及するつもりはない。考えてみたいのは、アフターコロナのヤンキー文化についてである。

HIPHOPの根本態度は反抗であり、その基本的手法はパロディーである。パロディーというのは単なるパクリではなく、権威あるものの文脈を置き換えることで、その位置づけを変容させることを意味する。ざっくり言えば「VIP車」である。既存の社会体系にあって「高級」とされているものを、下品に改造してその権威を失墜させる、みたいな話である。

必然的に、HIPHOPはその発生地盤として「権威的なものに反抗するローカル・コミュニティ」を必要とする。このようなコミュニティの担い手として、既存の社会制度・教育制度において周縁化された存在としてのヤンキーがいる。車高短フルスモのVIP車で2PACを爆音で垂れ流すわけである。クソカッコいい。

基本的に、ヤンキーのコミュニティにおいては「外部」が想定されていない。偏見に満ちた言い方をすれば、周りの迷惑などお構いなしに振る舞うわけである。コミュニティ内の人間に対しては強い連帯意識を持つけれども、外部の人間はすべて(敵対コミュニティを除き)、世間としての「モブ」として認識される。

こうした傾向は、そもそも彼らのコミュニティが社会から周縁化されることによって形成されていることに起因する。自らを「はみ出し者」扱いした社会のことなど、なぜ気にする必要があるだろう。

さて、波物語に話を戻そう。当然、「波物語の参加者はヤンキーである」などと主張したいわけではない。とはいえHIPHOPの性質上、そのカルチャーの担い手として、反抗的・逸脱的な性向をもつ層が多くなる、ということは指摘できるだろう。私もHIPHOPは好きだし、人生でもっとも潔癖だった頃(すなわち社会のあらゆる物事に納得がいかなかった頃)には改造車で「Me Against the World」を垂れ流したりもしていた。

反抗的だからといって、モラルを欠いているわけではない。むしろヤンキーであればあるほど、コミュニティ内の規範には厳格だったりする。おそらく、これが一人のアーティストのライブであれば、あのような事態にはならなかったのだろう。同じHIPHOPとはいえ、数多くのアーティストが参加するイベントであったがゆえに、性質の異なるコミュニティが混交し、「誰がどうなろうが構わない」雰囲気が醸成されたのではないか。これは完全に想像でしかないが。

ともあれ注目したいのは、ライブの様子が参加者によって普通にSNSにアップされていることである。この状況で、あのような乱痴気騒ぎを世間に晒せばどうなるか、想像できないはずはない……と思ってしまいそうなところだが、決してそうとも限らないわけである。アップした者はおそらく、その映像が「コミュニティの内部」で完結するものと考えていたはずだ。仲間内から「ヤバ」「上がるわ~」「フェス行きて~」的なリアクションがあって、それで終わりだと思っていたのではないか。

あるいはもしかすると、「自分たちのコミュニティは、これだけのことができる」という示威行為だったのかもしれない。VIP車が集まって公道を封鎖し、記念写真を撮ってSNSにアップする、的なヤツである。

いずれにせよ、間違いないのは「外部」が想定されていないということである。「モブ」が自分のことを見ている可能性など、いわんやモブが自分に文句を言ってくる可能性など、微塵も考慮していないのだ。

先の「公道封鎖」によって炎上した輩は数多くいるけれども、最初のリアクションはだいたい決まっていて、「は?何急に?関係ないんですけど?」的な反応をしてしまう。さもありなん、である。

そろそろ本題に入りたい。「外部を想定していないからヤンキーはクソだ」と言いたいわけではない。「異端」を周縁化する構造がある以上、周縁化されたコミュニティの人間が「外部=世間」を想定できない、というのはある程度必然的に生じうる事態である。これは個人のモラルの話ではなくて、構造上の問題だ。

SNSとコロナがなければ、それである程度、棲み分けができていたところもあるのだろう。基本的にヤンキーはモブに手を出さないし、私たちはヤンキーからそっと目を背けて生きる。夜中の爆音が迷惑だったりもするけれど、一時的なことだし、「そんなアホもいるか」と思って済ませるのが一番だ。

「そんなやつもいるか」で済まされないのが、コロナ後のSNS社会である。SNSが普及した時点で、ヤンキー的なものは「観察対象」および「炎上祭りのオモチャ」にされてきた節がある。周縁化されていたものが、「世間に共有される価値」の俎上に載せられてしまったわけである。

そこにきてコロナだ。精神的に隔たっていても、物理的な距離でもって感染してしまう。見知らぬ他人と、「モブ同士」としてすれ違うだけで感染するリスクがあるわけである。ヤンキーと私たちは、別の世界にいるわけではなくなった

コロナはある意味で、異なる背景のうちに生きてきた「他人」を、暴力的な仕方で結びつけてしまった。「感染の可能性」という地平で、私たちはつながってしまったのだ。

あらゆる行為は、いまや同じ価値の俎上で断罪されうるものになった。ヤヴァイ。周縁化を許さない価値体系。その先にあるのはたぶん、価値の分断からなる対立構造だけだ。その兆候は随所に表れているのではないか。どうすればいいのだろう。わからない。考えなければいけない。

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