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コミュニケーション手段が減ることでのすれ違い


知り合いに聴覚障がいの方がいます。

近年の科学、AI技術の発展で私たちの暮らしは本当に便利になりました。
ですが日常生活の様々な部分で、細かい所まで配慮が行き届いておらず、痒いところに手が届かない状況も多々あります。

まだまだ本当の意味で「バリアフリー」への道は長そうです。

例えをあげたらキリがありません。
メジャーな例で言えば、エレベーターの非常通話は文字通り電話しか出来ません。耳が聞こえないと電話の声が聞こえません。自分の状況を説明出来ないし、
いまエレベーターがどんな状態なのか?情報が得られず、どうして良いか分かりません。


聴者として日々を過ごしていると痛感するのが「自分の当たり前は他人にとって当たり前ではない」ということ。

ろう者と1日を過ごすと「そうか、こういうシーンではこういう事になるのか。」と気付くこと。

人間は言語が異なると文化が変わります。
その人の持つ価値観が変わります。

ろう者との交流は、まさに異文化を目の当たりにします。

彼らと共に過ごすと様々なことを考えさせられるのと同時に「こういう背景を考えさせる機会が少ないという、社会のあり方が当たり前になっているんだ」と恐ろしくなります。

小学校の道徳?の授業で車椅子を押したり、もう者、ろう者と交流した記憶がありますが、手話うたを披露して終わった気がします。

(今の子供たちの学びはもっと深いのかもしれませんが)日常生活で困っている方を見つけた時の対応方法とか、最低限の基礎的な手話を学ぶ方が、よっぽどお互いの為になるはずです。

特にろう者と会話をしたことがない人へ誤解させてしまうポイントは「日本生まれで日本に住んでいる」ことで「文化が違う」と気付きにくいこと。

口話の日本語と日本手話は文法も異なりますし、独自の歴史があります。顔の表情も手話表現です。

たとえば先日、知り合いの聴者が人生で初めて、手話講習会に参加しました。
その講習会では、手話講師のろう者がしっかり教えてくださる内容だったそうです。(ネイティブから英語を学べるようなもんです。私からするととても羨ましい。)

参加した彼女に感想を聞くと「心が折れた、むりかも…」と言って悲しそうに話しました。手話難しいもんなぁ、なんて思っていたのですが、よくよく伺うと実は違っていました。

彼女曰く、講師のろう者の先生の表情が怖かった(目を見開く手話表現のことを彼女は、睨まれた、怒られたと思ったそう)。独特の顔の動きに気圧された。
と話していました。

私は必死に、それは誤解だよ、手話表現で顔の表情はとても大切なんだ。怒っているのとは違うんだよと説明しても、よっぽどショックだったのか「人にあんなグワっと正面から見られたの初めてで…。もう怖くて…。自分も同じように出来ると思えない…。」とすっかり萎んでいました。

この彼女が、例えば学生時代に手話の基礎を知っていたら、こんなに心が打ち砕かれる事はなかったんじゃないか?
せっかくの新しいチャレンジがこういう形で終わってしまうのは、なんと勿体無いことか。講師の努力も考えると、なんともいえず悔しい思いをしました。


今度は別の目線ですが、これもまたデリケートな内容。

健聴の家族の中で自分だけろう、という男性がポツポツと話してくれたエピソードです。

家族という人生で一番身近なコミュニティーで自分だけが聞こえないということに、彼はすごくすごくコンプレックスを感じていました。
兄は聞こえるのに、なんで俺だけが。兄は歩いて数分の学校に通うのに、自分だけバスで時間をかけて聾学校へ行くのはなんで。なんで自分だけ。なんで。

母がとても気にかけてくれますが、それが余計にツラかった。でも、次第にそれが当たり前になっていきます。甘えていればラクだから、体調悪いと言えば許されるんだ。母は代わりに何でもやってくれたと話していました。

兄も自分を気遣ってくれて、優しくしてくれて、俺がいじめられても守ってくれたと。

彼は子供ながらに「自分は甘やかされて良い特別な存在なのだ」という意識が芽生えていました。そして次第に他人から感心を持たれていないと不安になります。

彼の価値観は「他人から感心を持たれて注目されること」に執着していきます。

やがて彼は成長し恋をしました。
彼は決まって、健聴者の恋人しか作らなかったそうです。

初めは彼女の感心を得ようと、あの手この手で彼女を笑わせようとするのですが、ふいに面倒くさくなるのだと言いました。

「俺だけが笑わせているなんておかしい、本来なら自分が笑わせてもらう側だ。何笑ってんだよ、頭にくる」と感じてくるそうです。

彼は彼女のことを細かくいじるようになります。
2人で笑いあっているシーンでも、ふと、わざとしらけされる事を言って空気をぶち壊し、場を沈黙させます。彼女が一緒になって笑っているのが悔しいそうです。

恋人を泣かせたり困らせて、自分に感心を持ってくれているか確認して安心します。どんどん八つ当たりのような事を言うようになったそうです。

フラれて、また恋人を作っても同じ結果になるそうです。

一度カッとなって「お前は聞こえてるんだから、いいだろ。俺は聞こえないから仕方ない。本当だったらこんなはずじゃなかった。聞こえていたら、お前よりいい女と付き合えたんだ。」と言って泣かせた事もあると話していました。


私は彼の話を聞いていて、あぁ彼の中に自分を守る城があるんだなと感じました。

自分の生まれもった身体への納得感を持たなくてはという葛藤。

母親への罪悪感。

社会での不自由さ。

家族間で育まれた、彼は自分は守られる存在。愛されるべき。可愛がられるべき。という無意識の感覚。

シンプルに誰かを愛したい気持ち。

自分の不器用さがコントロール出来ないもどかしさ。

自分の家族を作りたい(安心する場所がほしい)気持ち。


様々な感情や無意識が混同しているのが分かります。

例えば彼の行動はいわゆるDV的で、行いは改めるべきです。

ただ彼の背景を知ると知らぬでは受け取り方がぐっと変わります。簡単には裁けない問題だし、今の社会は、こういう歪みに溜まった水もすっかり綺麗に淀みなく掬い上げてくれるのでしょうか?

社会生活をしているとベルトコンベアに乗った価値観が多いですよね。その方が組織に馴染むし余計な争いもありません。

ですがそれを自分の人生観とごちゃ混ぜにしないで、もっとのびのび生きてほしいなと私は願うのです。

自分の情報不足で他者との意志疎通を阻むことの恐ろしさ。

もう一歩、相手を理解しようという踏み込み力。

自分から知識を得ないことの愚かさ。

彼や手話講座で挫けた彼女の中に育った思い込みはいつか融けるのでしょうか。


分かりあおうという姿勢が足りないから戦争が起こるのではないでしょうか。(急に飛躍~~)


神代の時代ですから、今こそ見えないものへ意識を向けたいところです。

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