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何のために働くのか

高校2年生の時、人生で初めて哲学をした。

入学早々の高1の1学期に「志望大学を決めよ」と言われ、早朝テストから通常授業、その後に補講と詰め込み教育を受けた。

2年生になった時、担任の先生に疑問をぶつけた。「先生、僕たちはどうして勉強しなくてはならないのですか」

その先生は答えた。「そんなことは今考えんでいい。大学に行ったらいっぱい考える時間があるから、その時考えたらいいから、いまはとにかく勉強しろ」
当時の私はその答えに納得できなかった。

勉強すること自体に不満はなかった。ただなぜ「一日のほぼすべて」を勉強だけに費やさなくてはならないのか。そんな3年間にどんな意味があるのか。その答えが欲しかったが、親も教師も誰もその答えをもっていなかった。

「とにかくいい大学に行け。そしたらいい会社に入れる」としか言われなかった。


それから私は授業をボイコットするようになった。授業には出席するが、ずっと寝ていた。毎晩夜中ずっとゲームをして、授業中に睡眠するという昼夜逆転生活を始めた。成績はガタガタになった。人生初めてのちっぽけな反抗だった。

あれから36年。

その後に行きたい大学を見つけ一念発起して猛勉強。一浪の後に入学し、卒業後会社で4年働いて脱サラし整体師になった。ありがたいことに人生しり上がりで、特に整体の世界に入ってからは充実した日々を送れている。

なぜ私は競争が激しい、こんな厳しい整体の世界で生き残り充実しているのか。それはずっと自分に問いかけを続けていきたからだと思う。

学生の時は「いまなぜ私はこれを学ぶのか」と自分に問うた。会社員の時は、「なぜいまこの仕事をするのか」と自分に問うた。整体師になってからは「自分はなぜ整体をするのか。なんのために整体をするのか」と日々問うている。

「なぜ勉強するのかだって?そんなこと考えてもしかたないやろ?」「なぜ仕事をするのかって?給料もらわな生きていかれへんやろ?」と多くの人は答えるだろう。考えても仕方がないことは考えない方が良いのだ。少なくとも今の日本ではそういうスタンスが圧倒的多数を占める。

しかし私は思う。勉強や仕事など多大な時間とエネルギーを費やすことに対しては「なぜこれをするべきなのか」「これが本当に私のしたいことか」と問う方が良い。問わないより問う方がずっとよい。むしろ問わなくてはならない。

なぜなら人生を問わないで生きるという事は、自分の半生を活かせていないということだからだ。「これは自分が考えた末にしたいと思ったことだ」と納得して勉強なり仕事をした時、人は心氣充実し本来の力を発揮できる。
だから考えなくてはならない。常に問わなくてはならない。「私が本当にしたいことは何か」と。

答えが簡単に出ないことを考えるのは無意味ではない。答えが出なくても考えて考えて考え続けることにこそ意味がある。そこからしか得られない意味が生まれてくる。これを「哲学」というのです。

三宅弘晃


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