永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないという聖書的根拠
いきなり、センセーショナルというか、前代未聞のタイトルになってしまいましたが、このテー マは、キリスト教として知られる信仰の基本中の基本とも言うべきもので、ある牧師の言葉を借 りれば、「キリスト教(新約聖書)は「永遠の命」の宗教です。
キリスト教の救いとは「永遠の命」を得ることです。キリスト教における信仰者の究極的目的は「永遠の命」です。」と表現されるく らいで、これを外したら、キリスト教は成り立たないと言われています。
しかし、(様々な宗派があるにせよ)ほとんどのキリスト教会の教えは、基本的に霊魂不滅説を採用しており、「永遠の命を得る」イコール「死んだら天国に行く」ことであり、そこは安住の地で (いや、安住の天で)であり、なぜ、どんな目的のために神はその人を天国に召されるのか、そこでどんな仕事(働き)をするのかについては、無関心なのか、不思議なほど、ほとんど何も語られないのが現状です。
しかし、聖書が述べる天の神の国は、目的を持った機能体* ( 欄外の脚注をご覧下さい ) であり、それは、 最初の人間に罪が入ったのをすべて解決するための手段であり、具体的には、アブラハムとの契約によって明らかにされた、人類救済の取り決めに関わるものです。
《地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。》 創世記 22:18
これは、神からの祝福が「諸国民すべて」に及ぶという約束です。 つまりアブラハムの子孫は祝福の経路となるということです。
そして、その胤(子孫)の主要な方がキリストであり、神に召されて天国に入る人はその約束の胤として呼ばれるのであり、天国において果たすべき責任があり、仕事があるのです。 決してのんびりと未来永劫に余生を過ごすためではありません。
《あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。》ガラテア 3:29
クリスチャンは言わばアブラハムの霊的な「養子」とされて、その子孫として、「祝福の基となる」という約束を相続することになります。
そして、キリストが弟子たちに度々繰り返されているように、彼らはその目的のゆえに「天で、王また祭司となる」 という役職があたえられます。
そして「祭司」としてはキリストの贖いを通して「諸国民すべて」の執り成しをし、「王」として治めることになります。
そうです、天国に召されるとは、言わば、地上からの「支配者募集」にあずかることなのです。 もうこの点だけでも、「クリスチャンになれば、死んでから地獄ではなく天国に行ける」と教わっ てきた人々は、????でしょう。
ですから、「永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しない」というタイトルは、 これまでのキリスト教神学からはことごとくかけ離れた、もしくは甚だしく逸脱した論議と受け 止められる事でしょう。
しかし聖書を注意深く読めば、誰でも確認できることです。
さて、やっとここからが本題ですが、まず「永遠の命」に関する次の聖句を考慮しましょう。
《一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 イエスは言われた。「・・もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。
まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。》マタイ 19:16‐24
ルカの方の記述ではこうなっています。
《「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。》ルカ 10:25‐28
「そうすれば命が得られる」ここでイエスは「永遠の命が」とは述べておられませんが、そもそも、どうすれば「永遠の命を受け継げるか」という質問に対する答えですから、ここで明確に「永遠の命」を得る条件を示しておられるということです。
このことから分かるのは、そのための条件は「おきて(殺人、姦淫、盗み、偽証をせず、 父母を敬い、隣人を愛する、など)を絶えず守り行う」ことである とイエスは述べておられます。
そして付け加えて、「もし完全になりたいのなら」と述べて、今度はイエスの方から「完全」という別の条件を出されて、そのために持ち物を後にしてキリストの「追随者」になるよう勧めましたが、青年は悲嘆して去ります。彼は「追随者になる」機会を逸しましたが、それによって、すでに保証した「永遠の命を得る」ということが無効にされたことを示すものはどこにもありません。
それに対するイエスの言葉は、富んだ人が「永遠の命を得られない」と述べたのではなく、「天の 神の王国に入る」事の困難さを示しておられます。
ですから、「永遠の命を得る」 条件とは別の「完全な者=天国に入る」ための条件を示して「クリスチャンになる」よう励ましていることが 分かります。それがこの時代の、ユダヤ人を含む全ての人々に対する神のご意志だったから です。
これらの出来事を見ていた弟子たちは、次のように尋ねます。
《すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。
(そして)わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。》マタイ 19:27‐29
(この翻訳では、29節の頭にある原語の「カイ そして」を省いていますので( )で付け加えておきました。)
弟子たちは、先の金持ちの青年と違い、「キリストに従ってきた」者ですから、彼ら(追随者)に対する報いとして「12の座」に着き、イスラエルの12部族を裁く事(王国の王と しての立場)が約束されます。
文脈をみますと、28節で、弟子たちに対するペテロの質問の答えは終えています。
そして付け加えて、「そして,わたしの名のために・・・を捨てた者は皆」
「・・は皆」と述べていますので、ここからは、いわ ゆる一般論というか、原則を語っておられます。従って、この後のことばは、必ずしも「追随者」になっ た人に関する限定的なものではないでしょう。
ともかく「キリストの名のために」財産、家族などを後にする人が何を享受す ることになるかを述べているものです。
そしてその報いが「永遠の命」であると約束されています。
この29節がクリスチャンを対象にした言及ではないと言える根拠は、平行記述のルカの記述はからより明確になります。
《・・この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける》ルカ 18:30
「後の世(新改訳、新共同訳)」「来るべき世(他の殆どの日本語訳)」となっています。
天の王国が「後の世」と表現されることは決してありません。「神の王国」 は古い新しいに関係なくそもそも「世」ではないからです。
「後の世」で受ける「永遠の命」という表現は「天の王国で受ける」というより、千年王国の地上の生活者としての報いとして与えられると考えられます。
もちろん、王国を受け継ぐ人も「永遠の命」を得ますが、キリストの名のために「財産、家族な どを後にする人は皆、(そういう人は全員)イスラエルの12部族を裁くようになる、あるいは、 天に召される人々に関連した表現は見えません。なぜなら、そこに神に対する「信仰」とか「キリストに 従う(追随者になる)」という項目が含まれていないからです。
もう一つ、ヨハネの記録から、同様と思える聖句は次の言葉です。ヨハネのこの両者を区別して扱っています。
《自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。
(そして)わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。》ヨハネ 12:25‐26
ここでも26節頭の「そして」が省かれています。
ここでは対象がルカの場合と順番が入れ替わっていますが、まず「すべてを後にした者」つまり「自分の命を憎む人」に対する約束。
そして、「キリストに従ってきた人」つまり「仕えようとする者」に対するみ父に尊重される(ギ語:ティマオ)と約束されます
この句も同様で、自分の命を憎む、つまりキリストの故の何らかの自己犠牲が「永遠の命」を得させることになりますが、さらに積極的に踏み込んで、キリストに仕え、後に従う(追随者になる) 人はキリストのいるところ、つまり天の王国に入る。と述べられ、やはり双方にはそれぞれ別の 条件の違いがあることが読み取れます。
さらに聖書中の「永遠の命」について言及している聖句をずっと拾い上げて読んでゆくと次の事 柄が分かってきます。
基本的に「全ての諸国民」に対して差しのべられている神の祝福は、創造当初の「死ぬことのないの命」 であり、その中の、キリストを認めるようになる人、キリストの故に 自己犠牲を払う人々には、よりその「永遠の命」は確かなものになると言う約束であり、一方、 追随者となる(バプテスマを受けクリスチャンとなる)人々には「天での王国」への招待が約束されてい ると見ることができます。
冒頭で述べたように、全ての人類に対する神の祝福は、本来なら全ての人間が享受していたはず の「(罪を犯す前のアダムの持っていた)死ぬことのない命」を回復することであり、その目的を成就するための備えが、「アブラハムの子孫」なのですから、「全ての国の民」がその祝福を受けるという約束の故に「永遠の命」の約束 があるというのは、旧約を含め聖書全巻の内容からして当然のことと言えます。
というわけで、「永遠の命」という表現は、決して限定された(選ばれた)人々に対してだけというわけではなく、全人類に対する神の目的ですから、永遠の命を得ることはクリスチャンになることに依存しないということです。
「全ての人間に対するものとして約束されていると思える聖句を文末に列挙しておくことにします。
全ての人間に対するものとして約束されていると思える聖句
《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。》ヨハネ 3:16‐19
「世を愛された」「御子によって世が救われる」の「世」とは全人類を指すと捉えてよいでしょう。クリスチャンとは「油注がれた者」という意味であり、世から選び出され「聖別」された者ですから、彼らが「世」と呼ばれることはありません。
ですからこの聖句はクリスチャンの救いや「永遠の命」のことを述べているのではなく、それ以外の人々の救いに関するものです。
《罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。》ローマ 6:23
原罪のゆえに全人類は「死」を罪の報酬として受けねばなりません、ここでは特定のグループを対象にした記述ではなく普遍的な原則がか語られています。
全人類に対する呪いは「死」であり、同様に全人類に対する祝福は「命」であるという対比です
これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。 神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。わたしたちの救い主である神の命令によって、わたしはその宣教をゆだねられたのです。》テトス 1:2‐3
「永遠の命の希望」の約束は、文字通りの「永遠の昔に」与えられてものではありません。それは人が造られた時からです。
「永遠」という同じ単語2度使って「永遠の命」が全人類に対する創造者の普遍的な意図であること示そうとしているように思われます。
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