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掌編小説 まちに根づく

痛っ――指を切ってしまった。

朝、店でランチの仕込みをしているときだった。小さなカフェをひとりで立ち上げたばかりなので、こんなことになる。狭い厨房で、品数や内容を工夫しようとして、きりきりしているから。

切り落としたのは、左の小指の、爪の先から3ミリほどだ。肉片をつまみあげ、傷口に押し当てる。肉片がやけに弾力的で、元に戻るのを拒んでいるようだった。

ひとまず、その状態で止血をした。ガーゼを替えても、替えても、真っ赤に染まった。厨房にうずくまっていると、汗が噴き出してくる。今日はもう店を開けられない。「臨時休業」の貼り紙をした。まだなじみのない町で、どの病院に行ったらいいかわからない。探すのも億劫だった。そのまま帰宅した。

翌日、店に出て指先を確認した。傷口は生々しく広がっているが、膿んではいない。肉片のほうもまだ血が通っていそうに見えたが、どうもつきそうにない。生ゴミ入れに放った。

しばらくすると、肉片がふくらんでいることに気づいた。水気を吸ってふやけているのか。じっと眺めていると、それはかすかに身をふるわせたように見えた。なんだかこわくなった。ポリ袋をかぶせ、口をきっちりしばって蓋つきのゴミ箱に捨てた。

作業中、傷ついた指先が熱くて、むずがゆかった。消毒をしようと包帯を外した。指先を切り落とした跡から、透きとおった緑色の小さな芽が頭をもたげようとしていた。引っ張っても抜けない。肉や皮がつられて動くだけだ。おまけに痛い。

だが、何日も店を閉めるわけにはいかない。巻いた包帯を薄手のゴム手袋で隠し、仕込みをして、料理を盛りつけ、接客し、皿を洗った。誰にも何も気づかれずにすんだ。

閉店後、一日のゴミをまとめて表に出た。店先にタバコの吸い殻が落ちていたので、一緒に捨てようと袋を開いた。捨てた肉片が目についた。閉じ込めたはずのポリ袋からいつの間にか出て蠢いている。大きさも倍になったのではないか。

突然、何かがぶつかってきて、尻餅をついてしまった。ゴミ袋がぐしゃっと派手な音を立てた。黒い塊が夕闇のなかに走り去っていく。店の前の公園に住む黒猫だ。散らかった中身をかき集めた。かの肉片がない。猫がくわえてもっていったのだ。わたしの指だったものを食べるのか。虫かなにかと間違えたのか。なんとも言えない気持ちだったが、自分で対処しなくてよくなったことに少しほっとした。

一方、指先の新芽はわたし自身を養分にして見る間に育っていった。そのうち隠しがたくなってきて、隠すことをやめた。今時めずらしいことではないのか、誰にも、何も言われなかった。だが、支障がないわけではない。腕の長さに左右差が出て、ひとつひとつの作業がしづらかった。あやうく、コンロで枝を燃やしかけたこともある。枝ぶりが立派になるにつれ、バランスもとりにくくなった。何より体力が続かない。

わたしのからだは徐々に傾いで、やがて大きな音を立てて床に倒れた。遠のく意識のなかで、「お客さんがいないときでよかった」とほっとしていた。明かりをつけっぱなしだ。だけど、動けない。まぶたが開けられない。床が硬くて痛い。冷えて全身がこわばってくる。

公園のほうから足音が近づいてきて、抱き起こされた。その腕を、よく知っているように感じた。

気がつくと、わたしは大きな陶製の植木鉢に居場所を得て、店内を眺めていた。そこには『わたし』がいた。いつか、切り落とした指先に違いなかった。店をうまく切り回しているように見える。わたしは何も教えていないのに。客数がだいぶ増えた。売り上げも順調に伸びているようだ。取材でカメラが入ることもあった。

『わたし』は毎日、水をくれる。話しかけてくれる。だが、それに返そうとしても、わたしの声は声にならない。葉が、さらさらゆれるだけだ。

『わたし』がやってきてつぶやく。

「わたしねえ、このまちが大好き」

植木鉢、小さくなってきたみたいね。地植えのほうがいいかな。『わたし』はつづけ、窓から公園を見やる。


※ひとが樹になる、そんな世でのお話です。よろしければ、こちらもぜひ。


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