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掌編小説 その先の生

もしも樹になるなら、バイオリンになりたいと願っていた。憧れのあのバイオリンのように。

当時、わたしは学生だった。係累もなく、荷物もお金も、ほとんど何ももたないまま、外国をめぐっていた。

ヨーロッパ滞在中のある日、石畳を歩いていると懐かしい旋律が流れてきた。子どもの頃に教わった唱歌のものだ。口ずさみながら、吸い寄せられるようにたどっていくと、そこには弦楽器の工房があった。前掛けをつけた、製作者と思しき男性がバイオリンを弾いていた。音は天に伸びゆき、地を満たした。体じゅうが音にひたされ、ただそこにいることが心地よかった。わたしはバイオリンの音色に聴き入ると同時に、飴色の胴や滑らかな曲線を描くフォルムに見惚れた。明らかに冷やかしとわかる身なりでいつまでも工房の前にいた。製作者は咎めなかった。

帰国してしばらくすると、首筋が硬くなってきた。木化が始まっていた。診察を受け、松の一種になることを知った。人生でまだ何もなしえていないのに。そう絶望した。だがその樹が、バイオリンの音色を左右する最も重要な表板に用いられるものだと知り、気を持ちなおした。

わたしは、かの製作者に手紙を書いた。あなたの手でバイオリンにしてください、と。バイオリンになれれば、ただ樹になるのではなく、その先がある。あの美しい旋律を奏でられるようになる。

背中から腰にかけて木化が進み、もう諦めかけた数か月後に承諾の返事があった。「初めての試みですがやってみましょう」との内容だった。あの日のバイオリンは、いわゆる名器のひとつで、修復を手掛けていたことも知った。不自由になりつつある手を使ってやりとりを重ね、ゆっくり変化しながら、バイオリンになる日を待った。

すっかり樹になったあと、製作者と再会した。製作者はわたしを見て、叩いて音を確かめた。それから長い旅のなかで、いくつもの手を渡った。乾燥や裁断、研磨。わたしは表板に加工され、f字孔を刻まれた。裏板やネックになる楓、指板になる黒檀などとともに組み立てられ、ニスを塗り重ねられ、弦を張られて、一挺のバイオリンになった。

製作者の手で初めて弓があてられたとき、全身がふるえた。ふるえがそのまま声になって、泣いているようだった。自分の声ではないみたいだった。きっと、慣れていないからだろう、これからはもっと堂々と歌えるようになる。そう思うようにした。

いよいよ舞台で成果が試される日がきた。小さいが歴史のあるホールで、奏者は名の通ったベテランだということだった。

リハーサルで奏者は確かめるようにわたしに触れ、うなずいた。肩と顎に支えられ、弓が触れた。やはり、自分の声ではないと感じた。奏者の指遣いと弓の動きに身をまかせながら、歌えば歌うほど、ずれていく気がした。その感覚は本番でも変わらなかった。

だが、演奏を終えた奏者はにこやかだった。聴衆からは喝采が贈られた。インタビューに対して奏者は「名器に比べても遜色ない」「楽器としてはこちらのほうが好ましいかもしれない」とさえ答えていた。

製作者の「試み」は成功したらしかった。わたしは製作者のもとを離れることになった。少し話題になったせいで、さまざまな人物が弾いた。新進気鋭の演奏家、裕福な好事家。わたしの動きに伴ってまとまったお金が動いているようだった。

時を経て、奏者や環境が変わっても、同じだった。自分の声に対する違和感は続いた。それに、あの日工房で聴いた響きに近づけるとも思えなかった。バイオリンになるときに組み合わされた他の素材のせいだろうか。製作者がどこかで手を抜いたのだろうか。

ある考えがよぎり、はっとする。わたし以外はみんな「本物」ではないか。ああ、そもそも自分自身に素材としての問題があるのだ。これまで好意的に扱われてきたのは、ただのもの珍しさから。バイオリンになりたいだなんて、はなから身のほど知らずの望みだった。消えてしまいたい。もう歌えない。歌いたくない。

わたしは音を出さなくなった。触れてくるものに頑なに抗い、響きを止めた。怪訝そうな顔で叩かれても、その振動さえ飲み込んだ。

音を出さなければ、ただのモノだった。

わたしは故郷からも工房からも遠く離れた北の町で、かつてのわたしのように貧しい学生の手で、裏通りの古道具屋に出された。「音が出ないのでは練習用にもならない」「オブジェにするには風格もなく場所をとりすぎる」 そんなやりとりをだまって聞いていた。それでも店には引き取られたが、手にする者もなく、次第に埃が積もり、弦が錆びた。

やがて古道具屋にも愛想を尽かされた。他の品とともに裏通りに積まれた。曲がった杖のような老婆が通りがかり、興味深そうに弦をはじいて首をひねった。立ち去りかけて、もう一度手にした。だが、埃が払われることもなく、薄暗い部屋の片隅に置かれるままとなった。老婆が立てる音以外はほとんど何も聞こえなかった。

一段と冷え込みの厳しいある晩、わたしは暖炉にくべられた。老婆が、やってきた家族をもてなすために。

炎が舐める。思わずわたしは声を上げた。バイオリンにかたちを変えてから初めて上げた自分の声だった。

食器の触れ合う音にまじって、子どもたちの無邪気な歌声が聞こえてくる。バイオリンになろうと決めた日の、あの曲だった。火の粉がはぜ、下の薪が崩れ落ちた。弦がはじけ、ニスが溶け、木肌がゆっくりと裂けていく。音の饗宴のなか、子どもたちに合わせてひときわ大きな声で歌った。まぎれもない、自分の声だった。こちらをのぞき込む老婆の顔が見えた。頬がほんのりと紅く染まり、深い皺の刻まれた目もとに安堵の色が浮かんでいた。わたしも、音を出すことをやめずに年を重ねれば、違うようになれただろうか。

灰としての生に賭けながら、わたしはゆっくりと炎に身をまかせていった。


※2024年3月追記 「転生」から改題しました。


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ひとが樹になる、そんな世でのお話です。よろしければ、こちらもぜひ。


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