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さみしい秋の夜長に、私が願うこと

 息を吸うのが苦手だ。

 本人も知らぬうちに息を止めてしまっていることがあり、はっと気づいて深く吸う、を繰り返している。しかし、それでも上手く吸えている感じはせず、胸は重いまま、私はもう一度こりずに息を吸う。そして、何かを諦めるように吐く。
 

 日毎に秋が近付いてきて、人々の装いもどこか落ち着いた色調の、シックなものに変わりつつある。同僚が吸い込まれるような深い紺色のジャケットを、軽やかなレモンイエローのシャツの上に羽織っているのを目にしたとき、秋のしるしをひとつ、見つけたような気がした。

 秋のしるしをひとつ、ふたつ、と見つけるたび、言い様のない何かがひたと寄せてくる。それは夏のように快活なものではなく、どこかうす淋しく、それでいて透徹なもの。

 肌寒さと淋しさはおそらく比例しており、だからこそ人肌が恋しくなる、と言った言葉が生まれたのだろう。私も例に漏れず、しっとりとした秋の最中で、迫りくる淋しさをひしと感じている。冷静に、けれどわずかに感傷的な心持ちで。
  


 月に一度、元彼とスタバに行く。
 彼は同じ職場で働いているので、週に三度は顔を合わせる。けれど、実際に話すことは多くないので、月に一度、近況報告をかねて会う。

 どうしてスタバなのか、と問われると、立地などの観点から単純に具合がいいから、と答える。

 ただ、思案してみると、ひとつの考えに行き当たった。

 私たちにとっては、まだ困難なのかもしれない。
 ともにご飯を食べる、というその行為が。

 テーブルを挟んで、差し向かいで食事をとる。それは二人の関係性の象徴とも言える行為だった。
  私は彼の家で、彼の手によって作られた料理を口にし、彼もまた私の目の前で同じものを食した。彼は大口を開けて、私とは比べものにならないくらいの量を豪快に食べる。グリーンカレー、トマトソースのパスタ、豚キムチ、牛丼。
  彼は手つきは粗雑ながらも、きれいに盛り付けられた方を私に差し出してくれた。
  かつての私にとって、食事は愛の証左だったのかもしれない。

 このことを考えているとき、作家の田辺聖子さんのこの言葉が頭に浮かんだ。

「私は小説の中に、わりにたべるシーンをよく入れるが、これは「ただごと」小説では食事は重要な要素だからである。たべものは人の心と心をむすびつけ、愛を交すに大きい力をもつ。」

上機嫌な言葉366日 / 田辺聖子(文藝春秋)

 食事を共にする。あるいは手料理を食べる、というのは、それにしかない魔力のようなものがある気がする。
 だから私たちはいつもスタバで、コーヒーを片手にとりとめもない話をするばかり。「あそこのラーメン屋行こう」「家の近くの韓国料理屋行ってみたいねん」と口約束ばかりで、テーブルを挟んで食事をすることは、まだかなわない。
 

 もう彼と付き合いたいなどと希ってはいないけれど、彼といるとどこか浮ついてしまう事実を私は否定しない。皮膚がまだ彼のことを好ましく思っているから。日が暮れてもなお空の裾に溜まる光のように、私の中でまだきらめくものがある。けれど、それに水を注ぐことはしない。私は彼を、できるだけ自然な形で、少し遠目から愛していきたい。触れられないけれど、心が微かに交わるほどの距離で。
 


 島本理生さんの『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』(幻冬舎)のあとがきに、このような言葉が綴られていた。

「誰かと楽しく食事をすること、旅をすること。どちらも意外とハードルの高い行為だと、個人的には思います。
自分と他者は違う人間だということ。それを認めた上で、受け入れたり、時には主張しながら、協調していくこと。
食と旅には究極、そんな側面があるように感じます」

 彼との食事は楽しかったけれど、息が詰まることもあった。旅に関しては、隣に居るのが誰であろうとも、どこか心が休まらない。

 だからこそ、ものさみしい秋の夜長、私はひとり静かに願う。

 いつか思いを寄せる人と旅に出て、その土地のものを食べられますように。そうして、ふたりで思わず破顔して、その美味しさに感動できますように。いつまでも忘れたくないと思えるような、そんな旅を誰かとしたい。


 料理も誰かとの旅も。そして、息を吸うことも苦手な私が願うこと。

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