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フリーター書店員、家計簿をつける。

 転職活動を一旦休止することにしたので、家計簿をつけることにした。お金の管理のためである。
 飽き性の自分がどうしてこのようなことを始めたのかというと、有り体に言えば、何かをまた始めたかったのである。

 私は書店員歴四年目のアラサー。アルバイトでの勤務であるため、給与は雀の涙ほどしかない。
 書店員というのはあらゆるバイトの中でも常に最低賃金をさまよっている上、アルバイトを何年続けようが昇給、正社員登用などはめったにない。それでも続けているのはひとえに「本が好きだから」なのだが、これについては後日何かしら書こうと思っているので割愛する。

 本を好み、現状にある程度満足していた私だったが、元彼に振られ、マッチングアプリでは散々な結果に終わり、挙句の果てに元彼から「どうせ何も変わらなさそう」と侮辱の特大ホームランを受けたため、転職を決意した。
 そうして八月末からとにかく奔走し、内定まで獲得したのである。

 けれど、途端に足が止まってしまった。
 夢にまで出てくるくらい真剣に考えた。恥を忍んで、出来る限り多くの人に相談した。しかし、どうしてだろう。行く方向に足が向かなかった。
 条件は悪くなかったし、立地も悪くなかった。人も比較的良さそうな予感はしたし、ここでなら頑張ってみるのもありかもしれない。そう思った瞬間さえあった。
 それでも「行きたくない」という切実な心の叫びが勝った。哀感と諦念が入り交じった、何とも奇妙な感情だった。私は自身のその感情について何も理解できないまま、辞退のメールを打った。
 
 そうして、時計の針がくるくると巻きもどるかのように、振り出しに戻ってしまったのである。

 ぼんやりと布張りの椅子に腰かけ、テーブルの上のぬいぐるみを眺める。四肢を投げだすようにベッドに倒れ込み、とりとめもない空想にふける。
 すると、水槽に水が注がれていくかのように、暗澹とした暗闇が寄せてくる。私はどうにか起き上がり、何かを始めなければと、家計簿のようなものをつけることにした。

 青色の素っ気ないキャンパスノートを開き、上段に日付を記入する。そうして、籐のかごからホッチキスを取り出し、ページの左側にレシートを止める。空いた右側には合計や詳細を書く。レシートを貰い忘れたものなども、この時点で付け足しておく。

 ただ、それだけだとページの半分以上が余ってしまうので、日記も同時につけることにした。

 とは言っても、代わり映えのない日々であるので、これと言って書くことはない。揺蕩う舟のごとく気の向くままに筆を動かしてゆく。

「しんどい」「つかれた」「何もしたくない」

 何を書こうにも、転職活動で疲弊した心はすっかり乾いてしまった土地のようで、平坦な言葉しか出てこない。

 そんな言葉をとりあえず並べていると、ふと左側のレシートが目に留まった。

「NLショクモツセンイ3.5gゴマフウサラタ
エビトメンタイコノクリームスープパスタ」

 何だか呪文みたいである。
 一枚めくって、他のレシートも見てみる。

「ミュージアム2 方眼ノー
ブルーロック フォトカード」

 こう眺めていると、存外面白いことに気づく。
 普段、まじまじとレシートを眺めることはないだろう。たとえ注視したとしても、値段を確認する程度。ましてや商品名を熱心に見つめる、なんてことをするはずがない。例え商品名を記憶していたとしても、それは他と区別するための記号としてたまたま記憶していたのであって、それがどういう名称で販売されているのか、どういう風にレシートに印字されているのか、をわざわざ気にかけることなどないだろう。

 だからこそ、それを熱心に見ている瞬間がとても不思議で、どこかうれしくもあった。絨毯の上に寝そべって、光のゆらめきをじっと見つめていた子どもの頃の自分を思い出す。もしかすると、子どもというのは毎日このような気持ちで生きているのだろうか。

 子どもと言えば、先日、Xで子どもたちの綴った詩が流れてきた。波紋のように美しい言葉の刺繍を目にしたとき、心にすっと風が吹き抜けていった。子どもたちの内側の世界の豊かさ、きらめき、詩情。私は静かにその言葉たちを抱きしめた。私たちには失われているものたち。舌の上で静かに溶けてゆくキャラメルのような優しさや、当たり前のことを当たり前で片付けない鋭さ。
 
 内定辞退のメールを送り、どこか悶々としたまま仕事をしていると、職場の先輩がお菓子をくれた。お土産らしい。長方形の袋に沢山入った個包装の煎餅を見て、私は思わず子どもみたいに破顔した。節約しようと思っていた矢先にお菓子をもらったので、いつも以上に喜びを感じたのだろう。帰路につき、リュックの中でかさこそと揺れている煎餅を思い出して、私は笑みがこぼれた。

 自分のお金に限りがあることがわかると、分相応というか、節度ある暮らしをしようという意識が生まれる。私が日々手にするもの、何気なく買っていたもの、食べずに捨てたお菓子、大して着ないまま捨てた服、読まないまま売ってしまった本。いかに自分が物に対して、無頓着で不誠実な振る舞いをしていたかが、明瞭に見えてくる。

 私は実家暮しで、貯金も全然せず、能天気な癖に自分が不幸であると思い込みながら、愚鈍に生きてきた。無垢で朗らかな子どもみたいに、ではなく、愚かで盲目的な子どもみたいに生きてきた。

 転職活動は停滞し、結局フリーター書店員のままである。何か変われたのかはわからない。相変わらずいつまでも子どもみたいである。

 それでも同じ子どもなら、小さな変化に瞠目し、小さなことで心底喜べる。そんな子どもでいたいと思う。
 
 
 

 

 
 

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