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自分を、ほんの少しでも丁寧に扱う

『自分を大切にする』、などというと大層なことに聞こえるけれど、要は自分の心と体に気を遣うってことなんだろう。

 皆、自分にとっては大切なものは丁寧に扱う。お気に入りのポットは割れないようにそうっと慎重に持ち上げるし、店でとても悩んで買った観葉植物には、きちんと水をやって、お日さまをあてて、葉の乾燥具合とか、ちらと顔を見せる新葉のことに気を配ったりする。

 多分、自分のこともそのように扱うべきなのだろうな。自分という存在がなければ、そもそも好きなものを大切にはできやしない。ましてや自分の好きなひとに心を砕いたり、熱中したりすることすらできないのである。

 とは言え、自分を大切なものたちと同列に見なすのは難しい。私たちは、つい自分のことを無下にしがちである。難しい人間関係や──自分が我慢すれば事は丸くおさまる、などと言ったこと──仕事の業務などはもちろん、つい食事を適当に済ませたり、髪の毛を荒っぽく乾かしたり、身体や心の乾燥を放ったらかしにしたり……。枚挙にいとまがない。

 そう考えると、自分のことをほんの少しでも丁寧に扱おうと〝意識〟することは、言うほど難しいことでもないのかもしれない。

 なぜなら、私たちは自分のことよりも他人のことで頭を悩ましているから。他人の心ない発言、他人の無礼とも見える振る舞い、他人の本来愛すべき点が自分の劣等感を刺激して手に負えなくなったり、他人と比較すると何とも乏しい自身の才能に苛立ったり。

 そもそも、立ち止まって自分をやさしく見つめることすらできていないのだ。

 例えば、伸びっぱなしの爪を切ってきれいに整えるとか、香り豊かな紅茶をすすりながら、しんと静かに、自身の内側の波紋を見定めるとか。
 何かとびっきり素敵なことで自分を労るのではなく──それも大変素敵なことだけれど、お金と手間がかかる──、些細な瞬間でもいいから、自分のことだけに注意を払う瞬間をつくること。そんな切り分けたケーキのような瞬間を積み重ねてゆくことで、少しは大切にする、という意識が湧いてきそうな気もする。

 自分を大切にできているかどうかは、恋愛をしているとよくわかる。
 自分を粗雑に処理しているときは、大抵相手からも同じように処理される。相手のことばかり気にかけ、相手のために何かしてあげようなどと思案すればするほど、自分が疎かになる。そうなると、相手は疎かになった私を見るわけで……。くたびれたものはそれ相応の扱いをされてしまうわけである。

 だからこそ、日頃からお気に入りのポットを持ち上げるときのように、自分を慎重に注意深く、そしてやさしく扱っておく方が良いのだろうなと思う。
 それが難しければ、自分だけを見つめられる瞬間、そしてそのための手法を確立しておくことが肝要になる。
 私にとってはそれが文字を書くことだったりするけれど、お料理とか、絵を描くとか、お掃除とか。なんでもいいんだと思う。大層なことじゃなくて、静かで少し控えめなこと。それなりに心地好く自分を見つめることが、滋味深い料理のように、自分の内にそっと染みてくる。

 そうは言ったものの、私も全く実践できてはいない。
 ぼんやりとスマートフォンの画面を眺めて時間をふいにしてしまったり、理解しがたい振る舞いをする職場の上司や、恋人とのあれこれに自分を奪われ、まさに心ここに在らず、といった状態のことばかりである。

 けれど、こんなことを書いた手前、そんな曖昧な憂鬱の波に襲われそうになったときは、うんと気持ちを張りつめて、何かもっと甘やかで心地よく、適度にうっとりとできること──異国の街並みのことや、好きな小説のこと、あるいはもっと現実的な、未来に起こり得る仄かに素敵なことについて──を頭の中で列挙するようにしている。少しは効果が出ているのか、苛立ちが軽減されたような気もする。
 他にも、食事を少しだけゆっくりとったり、何もせずに自分のことについてし思索に耽る時間を一分でもとろうとつとめてはいる。

 とは言え、忙しければなかなか自分のことに手は回らないし、自分の姿は姿見などでしか見えないけれど、人のことは顔を上げれば視界に入ってしまうのだから、自分のことに集中するってなかなか難儀なことなのである。

 そういえば、内外ともに美しい人は往々にして自己肯定感が高いというイメージだけれども、それは自分に対して十分に手をかけているからかもしれないな、などと思ったのだった。諸説あり。

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