知恵の実を食べたのだ

言語って便利だ。
『林檎が食べたい』と言えば、相手に林檎が食べたい気持ちが伝わる。
言語無しに林檎が食べたいことを伝える方法ってあるのかな。
ジェスチャー?イラスト?面倒くさい。
言葉ひとつあればこと足りるのに。

言語のない民族が地球のどこかにいるらしい。
なんて不便なところだろうか。
言語には感情や記憶を整理する機能が備わっている。
『今日は林檎が食べたかったけれど、売り切れていた。明日食べよう』
言葉にすれば心に留めるのは簡単である。

赤くい。果実。それをかじる自分。できなかった。高価だ。実現したい。次は。丸い。甘い。おいしい。
こんなふうに概念が散らかったままの思考になる。
(これらの言葉は実際は存在しなくて、概念的に物事を捉えているはずだ。)
名前の無い概念たちの順序を整理することはさぞかし困難だろう。
名前の無い概念たちを覚えていることはさぞかし大変だろう。
その証拠に、言葉を持たない人々は長期記憶が苦手らしい。

苦しかった。悲しかった。痛かった。嫌だった。悔しかった。
負の感情を消化するためには自分の感情にフィットする言葉が必要だと私は思う。
言葉に落とし込んで、ようやく人は納得する。記憶の引き出しにしまうことが出来る。

私はしばしば、思ったことを文章に書き留める。
これはなんかどっかで聞いた心の整理方法だ。

嫌なことに人は執着する。
嫌なことがあって、もしも人間がそれをすぐに忘れる生き物だったら大変だからだ。
失敗や苦い経験は人を成長させたり、危機から守るために記憶にこびりつく。
だけど、紙に書き付けてしまえば不思議と忘れられる。
メモリを脳から紙に移したと、脳が勝手に誤解するからだ。
その紙さえ見返せば何があったのか思い出すことが出来る。
そういう安心の錯覚を頭に与えることで、嫌なことを簡単に忘れられる。

これは言葉がないとなかなか出来ない芸当だ。
自分の感情をコントロールするために言葉はとっても有用なものなのだ。
でも、言葉を持つことって結局良いんだか悪いんだか分からなくないか?
冒頭に書いた、言葉を持たない民族は記憶の保持時間が短い。
きっとメモリがとても小さいのだ。
言葉を持つ我々は幼少期に受けたからかいの言葉を死ぬまで覚えていたりする。
我々は言葉でメモリを拡張している。

メモリなんか小さくて良いのかもしれない。
メモリが小さければ、つまり言葉さえ無ければきっと瑣末な悩み事なんてすぐに消えてなくなる。

進んだ文明は本当に人を幸せにしたのか?

虫になりたい。
虫は馬鹿だから多分鬱にならない。
馬鹿になりたい。

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