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テクノロジーとアートの交差点は今もあるのだろうか?とBALMUDA Phoneを見て思うなど

昨日発表されたBALMUDA Phoneと、それに付帯する議論を一通り見て思うこと(10万円じゃなくて5万円だったらこの記事も書く必要なかった…)。

まず大前提として、どんなメーカーであれ、何かを作り出すことは非常に尊いことだと思う。とくに電気が通るハードウェアは非常に多くの時間がかかる。BALMUDA Phoneも2年は掛かっているから、もし自分が今から始めたとしても27歳まで世の中に発表できない。そんなチャレンジ自分は怖くてできない。0から何かを生み出している人には感謝しかない。

2年間であれ、2日であれ、ものを生み出すなかで洗練される思考、盲目的になる思考、両方ある。それは手を動かしてみないと分からないことだ。しかし、何かを作ることが誰かの選択肢を拡げていることは、あまり受け取り手には実感されにくい。それが作り手のジレンマだろう。家電では良かったかもしれないが、今回はとくにそれが理解されるに及ばなかった。

スマホは価格のレンジが狭い。ライカが100万円でカメラを売ることと、BALMUDAが10万円で2年前のプロセッサのスマホを売ることの違いは何だろうと考ると、本質的にはあんまり変わらないと思う。もちろんコスト構造の違いはあるかもしれないけど、作りたい人が作って、買いたい人が買って、それが健全に持続的に回っていればそれ以上のことはない。しかしそれでさえ片付けられない「Android OSを搭載したスマホ」としての矛盾が、理解されない原因だったかもしれない。

同じフォームファクタやプラットフォーム(OS)を共有することは、そこに経済的合理性ととカルチャーを生み出すことを意味する。社長をこれを画一化していると言いたかったのかもしれない。けど、それを解決するのはインダストリアルデザインではなかったし、(少なくとも僕のTwitter上の)カルチャーには受け入れられなかった。そもそもフォームファクタやプラットフォームを共有した世界ではアプリケーションが重要である。なのでハードウェアが画一化して当たり前だろう。それはメタバースのハードウェアもそうだろうし、デジタル時代の今は人間工学を除きほぼ画一化していくだろう。Andy Rubinのアンビエントコンピューティングのように、テクノロジーと身体性の本質に迫ると、もはやそれはスマホではなくなる。GEMは期待してたけど、あれはもうスマホではない何かだった。

これからも「アート」と「機能」が交差することはないかもしれない。と、BALMUDA Phoneを見て思う。「合理性より芸術性」というけど、それがスマホの形をしている時点で、「その芸術性はそれなりの合理性を持ってますよ」とは思う。芸術性でさえも合理性に昇華され、合理性のなかで評価されるのは、プラットフォームを共有したこの時代の宿命なのだろう。インダストリアルのなかでも芸術性を生むためには、もはやそれではない何かになる必要がある。そんなことを考えたBALMUDA Phoneとアートの話。

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