誰かの宇宙にふれる
行動範囲が広がらない
便利な街に住んでいる。
だいたいのことは近所で片づくので、わざわざ離れたところに出かけていくことはない。もともと出不精で、自分の部屋が世界でいちばん素敵な場所だと思っている。と、そんなことを雑談で話したら「行動範囲が広がらないね」と言われたことを思いだした。
当時は虚を突かれたようで「そうですねえ」と応じることしかできなかった。まず、行動範囲の狭さについて考えたことがなかった。
身体に閉じこめられる
14歳までバレエを習っていた。お世辞にも上手いとはいえなかった。東日本大震災で練習のスケジュールがすべて飛んだことをきっかけに、情熱が一気に冷めてそのままやめてしまった。
踊りがド下手クソなのとは対照的に、ものすごく優秀とはいかないまでも、学校の勉強を苦にしたことはない。現代文の授業がとくに大好きだった。ちなみに体育は大嫌いだった。
勉強をすんなりできる自分と、思うように身体を動かせない自分のあいだに葛藤を感じていた。振りかえってみると、バレエを踊っているときに自由だったことはない。むしろ、身体に閉じこめられていた。それでもバレエを好きだと思っていたのが不思議だ。
その後、私は文芸創作ができる学部に進み、小説を書くようになった。踊りとくらべると、創作ではかなり自由を感じることができる。大学を出たとたんに文筆活動じたいができなくなったのだが、さいきんはまた書きはじめている。とはいえ小説を書けそうな気配はないので、しばらくはエッセイの人としてやっていくかもしれない。
踏破できるということ
地球を一周する、世界を旅する、世界を見るということの価値が、私には薄く感じられる。それを尊いと思う人を否定するつもりはない。豚に真珠なのである。
東洋人の女性として、私は身長が高いほうだ。といっても平均より10センチ上回っているだけの話で、所詮は手の長さも脚の長さもたかが知れている。ゾウやキリンとくらべたら、どんな人間もちっぽけで弱々しい。
現実的な障害をクリアすれば、地球を踏破することはできる。でも、私は興味をもてない。行動範囲を広げることに興味をもてない理由も同じところにあるのだと思う。
どんなに遠い国へ行こうが、どんな人と出会おうが、私は私だ。寝不足だとしんどく、空腹で機嫌を損ねる。身体は有限で地球も有限だから。
他人のなかにある宇宙
たむらしげるの「ファンタスマゴリア」という作品が大好きだ。幼いころに観て夢中になり、DVDを持っている。配信で見づらいので、他人に勧めることはあまりない(宮沢賢治が好きな方にはハマるんじゃないかと当て推量しているが、当の私は宮沢賢治そうでもない派である)。
ファンタスマゴリアという名の惑星が舞台で、さまざまな土地の生活や人生を追う連作短編集といったところだ。1話につき5分くらいの尺で、絵本の読み聞かせのような構成になっており、ナレーションのなかにセリフが織り込まれている。
いまにして思えば、よくもこんなに静かで地味なアニメを子どもが夢中になって観たものだ、と感心するが、おそらく、他人のなかにある宇宙にふれた最初の体験だったのだと思う。
私は、人の心には宇宙があると信じていて(もちろん私のなかにも)、その宇宙を覗きみることに興味があったのだろうと、このごろになって気づいた。
私が勝手に宇宙と呼んでいるだけなので、人によって捉え方や名づけはちがうだろう。でも、宇宙があると信じている人、あって当たり前と思っている人、あるいは私が「この人には宇宙がある」と思った人が、友人として周りに残っているように思う。
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