見出し画像

吸血師Dr.千水の憂鬱⑲山のトリセツ「やマニュアル」

前回の話

第19話   山のトリセツ「やマニュアル」

 ビバーク訓練は、実際の遭難時に連携を取る関係上、航空自衛隊も一緒に参加する事になっていた。新人達が手分けして持参させられた食材や酒で、夜はさながら宴会のように盛り上がり、同じ救助活動でも、山岳警備隊と航空自衛隊ではそれぞれにやり方が違っていて、それぞれの良さがあるのだということを知る事も、とてもいい勉強になった。二日目も色々小さなハプニングはあったが、おおむねスムーズに進み、今回の夏山訓練は脱落者を出すことなく幕を閉じようとしていた。

 しかし、ビバーク訓練から戻ってきたばかりの新人らは今、センター前のゴールで訓練後恒例の洗礼を受けていた。
 古き良き?いや、古き悪しき伝統「峰堂ダービー」はさすがになくなったものの、センター前に着いた直後、ザックを下ろしてからその場で腕立て、腹筋、スクワット100回ずつの筋トレが待っていた。たった今3時間近くかかる道のりを35キロのザックを背負い、2時間半という早いペースで戻ってきたばかりのところに、筋トレ100で、さすがの新人達も最後のスクワットをやる頃には、かなり苦しそうに歯を食いしばっていた。

たのもしい新人達は、若干疲れた表情を見せつつも使った機材の汚れをきれいに洗い落し、倉庫の物干し竿に掛けたり吊るしたりして後片付けし、その後は全員で念入りにストレッチをした。夏山訓練は明日で終わるが、訓練から戻った直後も警備隊としての通常勤務が待っている為、新人達は休む間もなく、それぞれの持ち場に散る。

竹内は事務所でデータ入力をしていた。

ロープ、テントなどの各種道具に精通すること、悪条件の中で人を運べるほどの強靭な肉体づくり、天候の読み方、雪結晶の分析・・・山の安全を守る警察として、身につけなくてはいけない術は本当に山積みだ。

 しかし、それらの技術や智慧もさることながら、一番大事な事は、その山の色んな登山ルートを地図上だけではなく、身体で覚えるほど、常日頃から歩き尽くしているという事だ。

ト山山岳警備隊には隊の発足以来、歴代の先輩が記録し続けてきた各ルート上の弱点や危険箇所など事細かに綴られたデータが今に至るまで、いや、今なお現在進行形で更新され続けている、その名も「やマニュアル」が脈々と受け継がれていた。

「やマニュアル」・・・言わずと知れた「山マニュアル」を田舎のオヤジ達がイケてると勘違いしてつけたベタな名前だったが、過去のデータを残したままどう変化したか、何が原因でそうなったか、と言う事まで刻銘に記された貴重な資料だった。

やマニュアルは、警備隊員一人一人が自分の足で歩いて築き上げた詳細なマップであり、辞典であり、取扱説明書であった。

ちなみに、昔はもちろんそれぞれの手記に手書きで綴られていたものだが、少しずつデータ化されつつあった。ボロボロに擦り切れている上に、色んなクセのある決して達筆ではない文字を読み解きながら、データ入力するのも、新人達の大切な仕事の一つだった。

山の中では悪天候も電波の妨げになる事がある。
やマニュアルは、データベース化して各隊員のタブレットでオフラインで見られる資料として重要な役割を果たす事が期待されていた。

しかし、山岳警備隊は仕事も山積み、常日頃からのトレーニングも欠かせない。事件が起これば普通に夜通し、なんて事もあったから、任務が終わると新人達は皆燃え尽きたようにベッドに崩れ落ちた。それほどの激務であった。夜に酒盛りしている先輩達が、とても人間離れして見えた。

 その為、こうした事務仕事は火急の任務ではない分、どうしても後回しにされがちだった。だからただの入力業務にも関わらず、先輩達が後回しにしてきたツケが、今年の新人達にまで回って来ていたのだった。

新人達四人の中では、高卒の竹内が一番下っ端にあたるので、こうした事務仕事は自然と竹内が買って出る事になった。竹内はこうした地味な単純作業は嫌いではない。
 それに、やり始めてみると、色んなわからない言葉が出てくるのをその場で先輩に聞けることがとても面白かった。

竹内は文字だけでなく、手書きの図解などもスキャナーを駆使し、時にはわかり易く新たに書き直したりして、やマニュアルを完成に近づけて行った。
 
 高卒とは言え、今どきの若者なだけあって小学校からタブレットやパソコンに触る機会が多い分、入力のスピードは抜群に早く、これまで何年も遅々として完成しなかった「やマニュアル」完全データ化の実現がここに来てようやく実を結ぶ目鼻立ちがつくところまで来ていた。

続く

サポートしていただけるとありがたいです。