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🎼3.あの日とあの子とわたしたち

能登半島地震により被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。
皆様の安全と、1日も早い復旧、復興を心よりお祈りいたします。


もう少し早く書こうと思っていましたが、
年末年始にインフルエンザにやられてしまい、そして地震が発生し、
この話をいつ書こうか、書けるだろうかと考えておりました。

富山に住む大事な友人からほぼ通常生活に戻れたという知らせ以降は、自分の心のために少し報道を避けるようにしていました。

✴︎

阪神淡路大震災から29年、
あの日わたしは、ずっと入院してた生後4ヶ月の弟とようやく一緒に暮らし始め、大阪で、いつもと変わらぬ朝が来ると思って眠っていました。

家具が倒れることはなかったけど、
気付いたときには枕元、わたしの左頬のすぐ横にカセットテープが5〜6本入ってた缶ケースが落ちてました。

ちょうど家事手伝いで来ていた父方の祖母が
「家歪むと開かなくなるんよ!!」とすぐに裏口と玄関の扉を開け、これがおばあちゃんの知恵袋なのかと思ったことも覚えてます。

前日に父の厄年で石清水八幡宮にお参りに行っていたこと、
(ししおどしのミニチュアが欲しかったけど高くて諦めたこと)

7時すぎの余震で、まだ若かった宮根さんが「おは朝」のデスクに必死に掴まりながら揺れを伝えていたこと、

揺れを言い訳にして当時嫌いだったお味噌汁を残したこと、

とりあえず小学校へ行ったら(家の裏にある)2つの登校班しか来てなかったこと、

年始からインフルで休んでた友達とやっと遊べるはずだったのに…と早々に帰宅したこと、

全てが報道と変わり、なかなか鎮火しない火災をただテレビで呆然と見るしか出来なかったこと、

ネットもなければ、留守電もろくに普及してない時代(我が家は黒電話でした)
被災で犠牲になった方々のお名前がテレビとラジオで淡々と読み上げられる毎日、

直撃してはいなくても、全部鮮明に覚えています。

✴︎

震災から1年ほど経った頃でしょうか。
1つのニュースに目が留まりました。

神戸で被災した両親と3人のお子さんのご家族。
1番下の子だけ亡くなってしまい、上の2人が悲しんで、その子のお地蔵さんを作ったとのことでした。

亡くなった子は、弟と同じ9月生まれの生後4ヶ月、
名前も漢字も同じでした。
苗字がうちの従姉妹の家と同じで、それもまたびっくりしました。

3きょうだい、上2人はうちと違う構成だけど、
こんなに共通点のある子が亡くなってしまうなんてというショックと、
1歳になった弟は大きな手術を受けたばかりで、

そのときなんとなく…
本当に勝手だけれど
ああ、弟はあの子の分まで生きようとしてるんだ…そう思いました。

弟の障害が重くなったり、
発作や薬の副作用、度々の発熱を繰り返しても
頑張って生きようと、笑顔を見せてくれる弟を見ていると、いつもあの子のことを思い出します。

母も一緒にニュースを見ていたので、毎年この時期になると、あのご家族は元気に過ごせてるだろうかと、そんな話がよく上がります。

あの子は空から見てくれているのかな?
とてもとても勝手なのはわかってるけど、
でも、力をくれてる気がするの。ありがとうね。

✴︎

東日本大震災の時も、わたしたちは千葉に住んでいました。
特別支援学校から放課後デイサービスに向かってるはずの弟の行方がわからなくなり、
ようやく電話も繋がって帰ってきたけど、マンションのエレベーターが止まってしまったので、姉がおんぶして母と後ろから支えながら階段を上がりました。

坂の上に家があったのが幸いで、坂の下、東京湾にほど近いところは液状化現象と断水が続き、
友人宅へ水を届けに行くこともありました。


やたらと寒い時期に揺れるのはどうしてなんでしょう…
もっと、避難所の整備などに力を入れてほしいと切に願います。


わたしは去年辺りから防災グッズを見直して、
今は玄関にリュックを置いています。
あまり地震を体験したことのない方もおそらくいらっしゃると思いますが、備えは本当に大事です。

そして改めてですが、一刻も早く健やかで安全な日々に戻りますように。

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