Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-417…

Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-4173 #サーフィン #サーフショップ #イエローマーケット #yellowmatrket #楽天 #ヤフオク #京王線 #久我山 #芦花公園 #amazon #仙川 #クリエイチャー

最近の記事

【甲州法度之次第発布】1547年6月1日

【甲州法度之次第発布】1547年6月1日 甲斐武田家の分国法「甲州法度之次第(信玄家法)」が発布される。初め55ヶ条の基本法からなっていたが、天文23年(1554年)に2条追加されて57ヶ条となった。別本として26ヶ条の抄録本(保坂本)もある。この中で有名なのが喧嘩両成敗、孔子や孟子、老子などの中国の古典の引用から生活全般の刑法民法を規定した。また領国内の被官階級の秩序や掟、国人や地頭の土地所有や年貢収取を制限し、家臣としての臣従を強制している。最も特徴的なのが法令は信玄本人

    • 1431年5月30日はフランスの英雄として知られるジャンヌ・ダルクが処刑されたという日です。

      1431年5月30日はフランスの英雄として知られるジャンヌ・ダルクが処刑されたという日です。 今回注目したいのは、そもそも彼女が世に知られるキッカケとなった百年戦争。 長きに渡って戦い続けた英国と仏国。当時の欧州はハプスブルク家が各国の王家に影響を与え、英国王はフランスにルーツがありフランスに広大な領地を持つと言う、複雑な関係だった。フランスの王位争いにイギリスが加わりフランス王家は風前の灯火だった。その苦境を救ったのが僅か19歳のジャンヌ、鎧兜姿でフランス国内の英国派と戦い

      • 【宇喜多秀家、権中納言に】1594年5月30日

        【宇喜多秀家、権中納言に】1594年5月30日 宇喜多秀家が権中納言に任ぜられる。戦国三大梟雄宇喜多直家、その息子は10歳で家督相続し母ふくが秀吉側室になった事で、猶子として一門衆になる。聡明で秀吉に寵愛され前田利家娘の豪姫を養子していた秀吉は正室として秀吉政権の柱石とし岡山50万石をあたる #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

        • 【信長が本能寺へ】1582年5月29日

          【信長が本能寺へ】1582年5月29日 織田信長が小姓らを連れ京都四条の本能寺に入る。徳川家康一行は泉州堺に入る。いよいよ本能寺の変のスイッチが入る。この頃の信長は永年苦しめられてきた武田家が無くなり、相当油断していたと思える行動が多い。その際たるものが軍を連れずに京に入る事。京は古来守り辛く攻めやすいと言われ丸腰での入京は油断以外ない #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

        【甲州法度之次第発布】1547年6月1日

          【立花道雪が娘に家督を譲る】1575年5月28日

          【立花道雪が娘に家督を譲る】1575年5月28日 男子のない大友家臣の立花道雪が、娘の誾千代(ぎんちよ)に立花家の家督を譲る。江戸時代以前は女性の家督相続は普通でした。つまり現代女性が最も社会的地位が低いのです。父道雪は雷に撃たれても不死身で、いつも目は血走っている鬼武者でした。主君宗麟は政治文化に造詣が深い政治家、軍事はもっぱら道雪と高橋紹運の2大巨頭家臣が担当し、連戦連勝で九州を席巻する大勢力でした。立花家は高橋紹運から婿を取り、立花宗茂となる二人のDNAを持った西国一の

          【立花道雪が娘に家督を譲る】1575年5月28日

          【光秀、愛宕山に参詣/景勝、越中から帰国】1582年5月27日

          【光秀、愛宕山に参詣/景勝、越中から帰国】1582年5月27日 明智光秀が愛宕山に参詣して籤(くじ)を引く。一方、織田信長家臣の森長可が上杉景勝の留守に乗じ信濃から越後境を侵す。上杉景勝は越後春日山城危機の報に接し、越中から陣を払い帰国する。戦国最大事件の本能寺の変へのカウントダウン。「時は今雨のしたしる五月かな」旧暦なので実際は1か月後なので梅雨だった。武田家と上杉家は僅か数か月の差で、滅亡と生き残りの運命に #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

          【光秀、愛宕山に参詣/景勝、越中から帰国】1582年5月27日

          【村上義清が越後に亡命】1551年5月26日

          【村上義清が越後に亡命】1551年5月26日 武田方の真田幸隆の謀略により、信濃戸石城が落城。村上義清は越後に亡命する。信玄の宿敵、2度も完勝しているのは義清だけ。周到な信玄に取って勢いで押しまくる猛将と言うのは不得手だったのかもしれない。孫子「窮寇には追ることなかれ」が信条の信玄だが、信濃制覇と越後から日本海に出る、と言う悲願成就に焦ったのか、村上氏を追い込み過ぎたのかもしれない。しかし完敗の2か月後に謀略で村上滅亡に追い込む真田幸隆の知略はもの凄い #どうする家康 #大河

          【村上義清が越後に亡命】1551年5月26日

          【大内義隆が失意の帰陣】1543年5月25日

          【大内義隆が失意の帰陣】1543年5月25日 尼子晴久の月山富田城攻めに出た大内義隆が敗れ、意気消沈して山口に帰陣する。この頃の義隆はまだ京に上り天下に号令をかける事を目指していた。ただ御曹司の甘さからか、挙兵から出雲までの動きが鈍く、謀将尼子氏にあらゆる準備をさせてしまった。古来、大軍に策無しと言うがあらゆる策謀にハマり5倍以上の兵力差を生かせなかった #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

          【大内義隆が失意の帰陣】1543年5月25日

          寛永13年(1636年)5月24日は伊達政宗が亡くなった日。

          寛永13年(1636年)5月24日は伊達政宗が亡くなった日。 戦国一のキャラ特濃大名として知られ、様々な面白エピソードで今なお我々を楽しませてくれる御方です。が……。 その一方で、どの話が事実で、何が創作なのか、困ってしまうのもこの方の特徴。 天下を狙っていた!なんてことも言われたりしますが、果たしてどこまで本当なのか。 史実でも十分過ぎるほど楽しい。秀吉に3度謀反の嫌疑を掛けられその都度危機を脱出した。有名な物は死装束で謝罪し、その奇天烈振りを称賛された。さすが秀吉もなかな

          寛永13年(1636年)5月24日は伊達政宗が亡くなった日。

          【大友宗麟死去】1587年5月23日

          【大友宗麟死去】1587年5月23日 大友宗麟が豊後海部郡津久見館で病歿。享年58歳。鎌倉時代から続く名門の御曹司年生まれ、骨肉の権力闘争で親兄弟も殺害し当主となった。その激しい戦いで九州最大勢力となったが、その反動か?!キリスト教にのめりこんだ。当初は南蛮貿易の利益と引き換えの布教であったが、自身も洗礼を受け日向をキリシタン国にしようと、島津との無理な戦いに進み最後は追い込まれた #どうする家康 #坂の上の雲

          【大友宗麟死去】1587年5月23日

          正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。

          正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。 と、滅亡とは簡単に言いますが、一体どんな流れで滅びたのか? 北条家サイドから見て注目は北条高時(14代執権)でしょう。彼の治世が影響して滅亡に追いやられたと考えられます。 最期は一族を引き連れ「腹切りやぐら」で切腹します。後醍醐天皇の蜂起で畿内の混乱を平定しに関東軍が西進、鎮圧したが北条への不満は収まらない。隠岐を脱出した天皇に呼応し足利尊氏も蜂起、関東では新田義貞も蜂起し僅か1か月で鎌倉陥落150年

          正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡しました。

          【信玄、富士参詣者から銭を徴収】1554年5月21日

          【信玄、富士参詣者から銭を徴収】1554年5月21日 武田信玄が西念寺の造営費用として富士参詣の道者から銭を徴収させる。竹取物語にも出る信仰の山富士山は、戦国期の不安な庶民からも信仰され参詣者が絶えなかった。荒廃していた西念寺を整備し庶民の歓心を買う事にも腐心した、信玄の細かい治世が見える。後には富士講と言われる一大民衆信仰に発展、始祖の長谷川角行の即身仏は、今だに富士山中腹にあると言われる。 #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

          【信玄、富士参詣者から銭を徴収】1554年5月21日

          【日野富子死去】1496年5月20日

          【日野富子死去】1496年5月20日 室町幕府第八代将軍足利義政の妻で九代将軍義尚の母・日野富子が病歿。享年57歳。日本三大悪女と言われる。そこに共通するのは政治に口出しした女性と言う事。明治以降の価値観で言われる事であって、中世以前の女性は男性と同等の地位が有った。古今東西揉め事に多い世襲問題、富子と将軍義政には子が無く、弟美視を早々に後継指名した、がここで実子が生まれ富子は将軍継嗣にするべく暗躍し始める。これに大名の後継問題も乗っかり応仁の乱へと突っ込む。京を戦場に東西1

          【日野富子死去】1496年5月20日

          明治2年(1869年)の5月18日は戊辰戦争が終了した日です。

          明治2年(1869年)の5月18日は戊辰戦争が終了した日です。 箱館戦争を持って終結となり、すぐに明治維新に目が向くため、無視されがちですが、実は国内に多くの悲劇をもたらした内戦です。 そもそも武力倒幕は薩摩藩も岩倉具視も敬遠していた。しかしこれを強硬に進めたのは西郷と大久保でした。幕府交渉の最前線に居た二人は、その強かさを身をもって感じており、徳川慶喜討伐は必須との考えに傾く。東日本を進む維新の軍隊は、以下のような行いもしておりました。 ・民を軍夫として徴発 ・敵軍を誘

          明治2年(1869年)の5月18日は戊辰戦争が終了した日です。

          【信長・家康連合軍が長篠へ】1575年5月18日

          【信長・家康連合軍が長篠へ】1575年5月18日 三河長篠城救援のため、織田信長・徳川家康連合軍三万が極楽寺山・高松山に着陣する。戦国史の戦闘を変えたと言われる長篠の戦が始まる。信玄死後弱体化したと思わされている武田家、実は勝頼の頃が最強でした。領土も1.5倍180-200万石、東は上野西は美濃までの広大な範囲だった。この戦い、信長の鉄砲三段撃ちで武田最強騎馬隊が木端微塵にされたと言うが近年の発掘調査で、鉛玉はほとんど出土せず、それは嘘だったと学説は変わっている #どうする家

          【信長・家康連合軍が長篠へ】1575年5月18日

          【信長、光秀に中国出陣を命令】1582年5月17日

          【信長、光秀に中国出陣を命令】1582年5月17日 織田信長が明智光秀に、徳川家康の接待役を解き中国出陣を命じる。ここからの1っか月で何が有って光秀は本能寺を襲撃したのか?今だに戦国最大のミステリーと言われています。譜代家臣では光秀が家中第一の出世を遂げ、最高の信任を受けていたはずだったのが突然の謀反。信長と言う革命家で無ければ生まれなかった光秀や秀吉と言った逸材を輝かせたのは間違えなく信長。しかし日本社会は変革期に現れる破壊者を、ヤケクソで受け入れるが一定期間過ぎると、また

          【信長、光秀に中国出陣を命令】1582年5月17日