弥生焼酎

幼少の頃

奄美大島で育って

奄美での暮らしは、僕にとってそんなイイものでは無かった。

小学校の友達とも馴染めず。1人で釣りをしているか本を読んでる感じ。

友達は作らなかったのか、できなかったのか今では分からないが、強がって作らなかったことにしている。

そんな孤独の中に居たので、小中学校の時はイジメられていた。まあしょうがない、人と接しないし、今と変わらず歯に衣着せず話す10歳児なんて嫌われてしかりだ。

蔵の仕事を手伝って、必死にお金をためてファミコンやMSXを買って遊んでた。苦労して買った遊び道具も、同級生には酒蔵のぼっちゃんだから買ってもらってると思われていた。そんな奴らが嫌いだった。いつかこの島から出て行ってやる!って思ってた。

そんな孤独少年に、小学校5年生の時の吉岡先生は優しかった。

「伊津部の子」という日記や宅習をやらせるノートがあるのだが、それに学研の「生命のひみつ」だかなんだか生命科学系の本を読んだ感想を書いたら、翌日、高校の理科Iの教科書を貸してくれた。

メンデルの遺伝の法則やら、遺伝と進化の話だった。ダーウィンの種の起源もあったと思う。

それを見てトキメいた。面白い。無気力でファミコンしかしていない自分が初めて何かに興味を持った時だった。

それが、僕が科学者になるって目標ができた日でした。

中1から三太郎塾って所には行っていたが、相変わらずの無気力

中2になって科学者になるためにはどうしよう?って本気で考えてみたときに、このままだと工業高校にしか行けないって成績だったので焦ってきた。

80年代の奄美では不良とバカが大島工業、女の子が奄美高校(商業)、頭がいいか普通の人が大島高校に行っていた。(偏見しかない)

科学者になるなら大学に行かなきゃならない、そのためには普通科の高校に行かなきゃならない。通えるのは大島高校だ。

そこに行こう。目標ができたら人間努力できるよね。必死に勉強したのはこの時くらいだと思う。

1988年冬。サッカーが好きで、高校サッカーで国見が優勝したことを面接で話したことを覚えている。澤登がいた東海大一が負けたんだ。

大島高校に受かり、高校生になれた。

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書いてて気持ち悪い文章だなって思う。いつも日記。おまえのメールは日記みたいだって言われてたのを想い出す。

つづく、かどうか分からない。

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