#エッセイ『まずはお医者さんに行ってみました!3』(今日から入院です!)

 そしてとうとう入院をする日が翌日にまで迫ってきました。その日は入院前日のコロナの陽性検査を受けて、その心配はありませんでした。このコロナの検査ですが、今まで街角でやっていた唾液をチョロチョロと出す検査と違い、今回は鼻の奥まで細い棒を突っ込む方法の検査です。よくニュース等で見ていた検査方法で実は今回この方法で検査を受けるのは初めてです。病院の中の感染予防ですからそれはそれで素直に受けるのですが、その検査をする先生が思いの外すごい恰好をして現れたのは少し驚きを隠せませんでした。院内のスタッフは医師を含めてみんな通常のマスクをしているだけなのですが、その検査をする先生だけは全身をブルーの防護シートで覆い、専用のマスクはもちろんゴーグルまでした出で立ちで何とも大袈裟で少し滑稽すら見えるのです。緊急事態宣言中にテレビでよく見たあの姿です。“いまの時分に何もそんな恰好しなくても”と思うのですが、まぁ、それはそれとして早速検査です。鼻の奥に細い棒を突っ込むのですが、それがまた飛び上がるほど痛いのです。ニュース映像で子供がジタバタしているその気持ちは本当によく分かりました。もちろん僕もその瞬間には『イデッ!』と一声上げさせていただいております。その後、翌日の入院の受付の時にも、検査結果に関して何も言われなかったのでおそらくは陰性だったのでしょう。“結果くらい教えてくれよ”と思い、チョッと不思議な感じがしましたが・・。
 そしてその翌日は手術前日の入院です。昼前に、本二冊と携帯に着替えを持ち物として、それに一応お小遣い二千円ほどを握りしめて人生初の入院です。あれだけ手術を嫌がっていたのですが、いざ入院するとなれば何となく落ち着いた気持ちで病室に入ることが出来ました。初日はやる事が特にないので、ジャージに着替えてとりあえずベットの上で本を読みながらゴロゴロしてました。二時間ほど経ったころ院内のアナウンスで昼食を知らせる放送がありました。何もしなくても腹はちゃんと減るのです。“メシだ!メシだ!”とチョッとウキウキしながら昼食を取りに行きます。するとどうでしょう。お盆にのった食事を渡されるのですが、そのお盆の半分がやたら熱く、もう半分は冷えているという変わったものを渡されるのです。それを持ってイソイソと自分も病室に戻ります。食器にかかった蓋を開けてさぁ食事です。で、そのお味は・・・、予想通りというか、申し訳ないのですが当然のごとく美味しくはありません。よく“空きっ腹に不味いもん無し”なんて言いなすが、本当に言いにくいのですが、そんな言葉も通じないくらいに不味いんです。一言で云えば、味が薄いというのと、何となくチョッと安めの既製品の味がするのですね。旨いもんを食べに来たわけでは無いのでそこは我慢と思いながら、それでもペロリと平らげました。まぁ、そんな文句が言えるのも健康のうちなのでしょう。
 夕方になってベットの上でゴロゴロしていると明日の執刀医の先生が病室にやってきました。そして先生は右手に持っている黒のマジックで僕のお腹の右側に丸を書いてその中に×しるしを入れていました。
『セ、センセ・・・、何してはるんですか・・・?』と問いかければ
『ん!明日の手術で右と左を間違えないようにしてるんです。』と答えてくれました。
それは間違えられたら大変だ!と思い、どんな仕事にも間違えはつきものだから色々なチェック方法があるもんだと感心してしまいました。
 久しぶりに何もやる事がない一日を過ごしたのですが、それでもあっという間に時は経ち、今度は夕食です。これもまたお昼と変わらない凄い味です。入院すると食べる事くらいしか楽しみが無いので“またあの食事か”と思うとショゲテしまいますが仕方ありません。不満を持ちながらもペロリとちゃんと完食し、食後三十分ほどしてから、看護師さんが薬を持ってきました。その袋には“とんぷく”と書いてありましたが、どうやら説明を聞いたらそれは下剤と言っていました。まぁ、明日の手術で麻酔で寝ている最中に無意識に“お通じ”があれば大変だから“これも大切!大切!”と思ってその場でゴクリと飲み干しました。
 その日は何もしていないし、昼寝までしていたので夜は中々寝付けませんでした。寝れないというのも辛いもんで、考え事をしながらゴロゴロロとベットで横になっていたのですが、その間はやはり色々と考えてしまうのです。 
 明日はいよいよ手術です。世の中では多くの人が手術を受けてきているのでしょうが、その患者さんたちはみんなどんな気持ちでその日を迎えるのだろうかと考えてしまいました。基本的には誰もが健康を取り戻す為に受けるのですが、その人の病状や体力そして年齢、その後の人生などを考えると思う事はそれぞれなのでしょう。こうやって僕のように健康を損ねると、人はきっと誰もが健康が一番と考えるのではないでしょうか。お金がある、社会的地位や名誉がある、それらは多くの人が望むことでしょうが、でも健康でなければどうしようもありません。当たり前の事ですが、現生で多くの物を手に入れてもあの世には持っていけません。そして多くの人は普段の日常で健康に過ごしているから健康の有難みはあまり意識はしないと思うのです。普段の僕も当然“今の時分が健康で幸せだ!”とは考えません。健康であるという事をかくも当たり前のこととして意識すらしていないです。そしていつもの事ですが、体のどこかを悪くしたときに初めて健康の有難みを感じます。今の瞬間体のどこも痛くありません。それでも体の中に不具合を抱えているから明日の手術を受けるのです。そして一見健康に思える状態で病院のベットに横たわっているとやはり自然と死についても考えてしまいます。今自分がいる場所が場所なだけに、この先いつか迎える死というものに、この先どうやって向き合うのだろうかと漠然と考えてしまうのです。そうすると次に、でもなぜ死というものが怖いのかとぼんやりと考えてみたのです。こんな事を人と話し合ったことは無いのですが、僕の中では死に対する恐怖とは、やはり多くの人と物との離別という事が一番最初に浮かびます。自分だけが慣れ親しんだ世界から引き離され、分からない闇の世界に引きずられるような感覚とでもいうのでしょうか、そしてその時に自分の意識がどこに飛ぶのだろうかと考えてしまうのです。それを言い換えれば、死という事は自分にとって大切な人たちやお気に入りの物との触れ合いが出来なくなるという寂しさなのでしょうか、人によっては志し半ばの事に対する執着もあるのでしょうか、それは一言では言い表せないと思うのです。また、その瞬間を迎える恐怖という事もセットで死に対する恐れは考えられるのではないでしょうか。かつてテレビで観たドラマ『白い巨塔』で、主人公の財前教授がその死の瞬間に『死とはこういう事か・・』と言って息絶えているシーンがありました。あれはドラマではありますが、でもその瞬間が自分にもいつか来ると思ったことを覚えています。それとは真逆に、現生に対する大きな絶望を感じていたりすれば、その死という事が解放という感覚になる人もいるのかもしれません。私たちの国では年間に約三万人ほどが自ら命を絶っているそうです。そういった人たちがみんな安らぎや解放を求めているとは思えないのですが、苦しくてもやはり生きるという道は選んでもらいたいです。
 今回は大したことのない病状で大騒ぎをして入院をしました。でもそのおかげで普段考えない事を考える事が出来たのは僕にとっては良かったのかもしれません。こんな時は、いやこんな時だからこそ自分の人生にとって何が大切なのかという事を見つめるいい時間になったと思いその日は眠りにつきました。

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