<第1章:その2>死ぬな、生きて帰ってこい
日本では、江戸時代、一つの家を社会の最小単位としてとらえ、それを基本にコミュニティが形成されていました。それは明治・大正と受け継がれてきたのですが、一挙に変化したのは太平洋戦争に負けて実質的にアメリカ支配が行われるようになった戦後です。
社会も家も分解されて、個というものにバラバラにされてしまいました。戦前があまりにも国家支配の強い社会であったために、その反動もあって、個人を尊重する風潮は社会の隅々にまで行きわたりました。
しかし、何ごとも行きすぎはよくありません。今は本当にみんながバラバラになってしまいました。隣の部屋に住む人がどんな人か知らない、お年寄りがひとりで亡くなっていても誰も知らない、そういう世の中になっています。
かつてはあった人と人のつながり、きずなが薄くなって、なんだか自分のことしか考えない人が増えてきています。敏感な人であればあるほど、この世の中どうなってしまうんだろう、と混沌とした不安感、漠然とした不安な気持ちに襲われています。
未来に対しての希望が見えない状態です。
こういう時こそ、もう一度、家というものに立ち戻るべきではないだろうかと私は考えています。
家はそこから私たちが巣立った場所です。みんなが、立ち戻ることによって、いちばん落ち着く、心のふるさとです。
どのようにして家に心を戻したらよいのか。その家に立ち戻るすべが、お墓参りです。
家族のみんなが一緒に住んでいなくとも、お墓参りをそれぞれがすることによって、お墓というものが、みんなを結び付けてくれるのです。それによって家族のきずなは強くなります。
家族のきずなが強くなることによって、私たちは自分の存在理由(レーゾンデートル)を取り戻し、気持ちが安定するはずです。自分の帰る場所のあることを意識するからです。
また、帰る場所があると思うから、人は外に出て戦うことができるのです。私が一度は所属した自衛隊でも、海外派遣の隊員に対して、
「必ず生きて帰って来い」
と命じます。どんなに危険な任務についても、愛する家族のもとに帰ってくるんだ、死ぬな、ということが、駐屯地司令など上司から言われるのです。
愛する家族がいると思うから帰れるし、どんな遠い場所でひとりで戦って来ることができるのです。つまり、家族というものをきちんと認識して、帰る場所があると思えることが、何年でもひとりで戦える状態をつくるわけです。
お墓参りすることで、そう思うことができます。家族が今いて、それは父・母につながり、祖父・祖母に、そのまた母や父につながっていくと認識することで、連綿とした命のつながり、きずながわかってくるのです。
自分は決してひとりではないのです。
自分を起点にして、父・母、その両親のそれぞれ父・母(祖父・祖母)、その両親のそれぞれ父・母(曾祖父・曾祖母)を一度たどってみてください。ここまでで14人の先祖がいるのです。いま、ここに自分がいることは、どれほど多くの先祖がかかわってきているのか、その気の遠くなるようなつながりが胸に迫ってくるはずです。
私はそれは生きていく上での強さだと思います。
その強さは、墓参りして、墓に対面することでえられるのです。
<前回まで>
・はじめに
・序章
母が伝えたかったこと
母との別れ
崩れていく家
止むことのない弟への暴力
「お母さんに会いたい!」
自衛隊に入ろう
父の店が倒産
無償ではじめたお墓そうじ
お墓は愛する故人そのもの
・第1章
墓碑は命の有限を教えてくれる
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?