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創作と想像と書く行為

【エッセイ】想像について

ロールシャッハといったら有名なアレだが、想像も近しい色味を持っていると予測する。
想像の世界ってのは単に『願望の投射』のみならず、見ざるを得ないモノもあるだろう。思い出したくもない過去とか。

私はおそらく無意識的に、爆発的に、瞬間的に想像が発生している。頑張って『詩』などの形式に押し込めるが、大体30%ぐらいしか落とし込めてない。

何もない所からは創作できない。必ず頭の中の想像に掠っている。
創作を繰り返し、想像と文字列の一致の厳密性が高まればきっと、満足度アップでし。

五感による経験も重要だろう。
その材料は世界であり物語であり芸術であり――が、あるからこそ精度が上がる。

たとえば『エビフライ』を頭の暗闇に出現させる。油の香ばしさと尻尾の🟥と衣の薄茶色、ひと口噛んだ時の感触や香りの広がり……が、同時多発的に発生。
これらは経験があるからこそ成せるワザ🍤

だいぶ以前に書いたが、私は想像を文字化するのが苦手で、文字から想像するのは得意。これは長い読書経験の賜物だろう。
でも創作者の立場になれば話は別。想像をなんらかの形式に変換できなければならない。

今まで通り偶然の想像に任せてもいいが、ちょっとはコントロールしたい――の為には【継続】だよなぁ。

継続はいいモノだ。継続してるからこそ、微細な変化も感知できる。微細であれば一般的な共感は得られ難いだろうが、それがなんなのか。
で、書く行為の継続は容易だ。これに『意識的な想像』を加える。

私は『その場で思いついたような適当ごと』だけは避けたいと思っている。以前の記事……コレだ🔻

コーヒーは多数のプロセスを経てコーヒーになる。
対して『適当ごと』は、実っている豆をそのまま差し出すような行為。アダムとイヴなら喜ぶだろうが、文明の発達した現代でソレは通用しない。

【生存】には無関係だが、【生命】にとって有益。そんな文章を書けたらいいな。つまり、とことんまで『無意図で無意味』にならなければ。

矛盾しているが、そうなのだ。

適当ごとではない 且つ 無意味

『あっそ』で終わらず、思わず読んだ人の思考を中断させ、足を止めさせるような。静かな侵食。
常に私の書いたコトが頭の隅にあるような……ふふ。

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