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イマジナリーフレンドの効能【漢方薬】🧉

『心の親友』が現れる以前の私の脳内には何が展開していたか❓ じっくり思い出してみようかな。

イチバン多いのがきっと『イヤな過去の反芻』だと思う。繰り返し、繰り返し……何度も味わうのだ。そして理由を考えるのだが、どうしても『私は悪くない』とならず、ああ、きっとあの人にも相応の理由があってあのような言動をしたのだろうと、加害者を庇うような思考になっていました。今は大丈夫。
『いーや、お前が悪いね❗️』とはっきり思えます。

次は『未来への不安』だろうか。明日、またイヤな事が起きるかもしれない、行きたくない、胃が痛い、頭が痛い、やる気がない、身体が動かない、こわい、こんな自分が嫌い。
でも明日は確実にやってくる。なら自分が変わらなきゃと願っても、実態が全然追い付かずまた自責。
クズ、ゴミ、役立たず、なんで私ばっかり……で、次第に、この期に及んで『他人』に期待をする。

『この人なら、もしかしたら私を変えてくれるかもしれない……環境も良くなるかもしれない』

ダメだよ、そんな考え。不確定極まりない。
他人への依存は、有効な思考の材料にならない。しかも相手の精神にダメージを与えてしまう。人間に期待するなと言ってるのではなく、過度な依存をやめなさいって事です。当たり前か。

あとは……そうだな。
頭の中で音楽を鳴らして気を紛らわせたり、自分は大丈夫だと言い聞かせて無理矢理身体を動かしたり、自己啓発書に頼ったり、意味なさげなメソッドを信じたり、新しい趣味で現実を忘れようと努めたり。
ここには、『創作的な理念』が不在である。全てが他人と偶然頼り。新しい趣味ですら私の中では『受動的なモノ』として処理される。この趣味はこうやるモノだから、私もこうする……みたいに。自分で考えて身体を動かしているようで、実は違う。まあこの辺は人それぞれなんだろうけど。

全てが孤独だよ。全部ひとりでできること。
だって、こんな私と行動を共にする人など居ないって決め込んでいたから。迷惑にすらなると思っていたから。
そう思いつつも他人に寄りかかる矛盾。助かりたかったんだろうな、どうしても。


そんな中、私は地味で慎ましい生活を繰り返した。
確実にやってたのは『毎日読書すること』ぐらいか。これだって、穿った見方をすれば『他人が自分を救ってくれるかも』という期待なのかな。あるいは、圧倒的な情報量でイヤな思考を押し流したかったとか。

まあ結局押し流されず、全てひっくるめて頭の中を漂っていた。イヤな事、少しのいい事、期待、不安、物語、本の知識諸々……次第にソレらは速度を増し、轟音と共に脳内をかき乱した。

『頭が重い、苦しい、思考ができない』

そしてその正体を知りたくて、メモアプリにこんなフォルダを作った。

これは『脳内に渦巻くナニカを文字化し、頭を軽くしたい』という願いから作った。千葉雅也という日本の哲学者が居るのだが、彼の対談本の内容を使い、とめどなく書いてみようとしたのだ。
結果はまちまちだった。少しスッキリする日もあるし、逆効果の日も。私は結果を確実なモノにしたくて、更に研究を続けた。
『頭の中の話し声』に関する本がKindleのオススメに出てきて、運命を感じ読んだ。

その本の内容を実践していると、まあ以前にも書いたが、メモの内容がいつからか『対話形式』に変化していた。
掘り進めると、対話の相手が『小さい頃の自分』だと判明した。イマジナリーフレンド獲得の瞬間である🎊



そこからは毎日が楽しい。
変にイライラする日もあるが、大体大丈夫。今の私の頭の中は楽しい事で埋められており、イヤな反芻とかが入る余地はない。それでもイヤな事は起こるが、どこか冷めたような自分がそれを認知しているような感覚がある(たまにドツボにハマるけど)

他人への期待が消滅したワケじゃないが、主に自分への期待が高まっており、正に漢方薬のように毎日ジワジワ効いてくるのだ。

創作意欲も明らかに高まっている。
そもそも、イマジナリーフレンドとの対話自体が創作チックであり、『よし、創作するか』とイチイチ思わなくても既に境界が曖昧になっている。創作という素晴らしい行為を日常に引き戻したって感じかな。小僧寿しが寿司の高級路線に終止符を打ったように。

あとそれと、心のどこかで『安定した話し相手』が欲しかったんだろうなぁ。


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