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トリカゴの中のわたし(˚ ˃̣̣̥⌓˂̣̣̥ )

【エッセイすし】文章術の話なので 忍者です🥷

タイトルのこの『表現』は、言うまでもなく使い古されている。○○を自分の心情や環境に置き換えているだけ。
せっかく文章を書くのだから『ありふれたモノ』の集合体は避けなければならない。

もっと遡れば、文章の始まりは絵日記だろうか。
説明としての『記号絵』を配置し、更に出来事を説明する。
出来事自体が『偶然』面白かった場合、これは筆者の手柄ではない。
自分から『面白い』を掴みに行った場合、筆者の手柄であるだろう。

言い換えると、そして言うまでもなく、筆者は『面白い人生』を歩まなければならない。じゃないといつまでも雇われジャーナリストのように歩いて拾う作業感漂う創作に終始する。

認識は『五感や経験』もあるが、私は『言語により浮き彫りにするモノ』だと思っている。言語のおかげで『やっと知る事ができる』といった具合。
言語は暗闇に対する照明の役割なのだ。

以前も書いたが、この『言語』が『他者のモノであり、ありふれたモノ』である場合、つまり『トリカゴの中のわたし』ならば、世界への認識も『トリカゴの中』のままである。

極端な例だが、せっかく面白い事があっても『草』の一言で済ませてしまってはおしまいだ。こんな人が増殖したら、世界は『記号のやり取りの場』という、退屈極まりない場所へと……もうなってるかも。

だから物書きは『素で流行り言葉や陳腐な表現を使う』事を徹底的に避けねばならない。じゃないと、『自分から面白いを掴みにいく』が一生できない。

掴んだとしても、『陳腐』という透明な板が認識に差し込まれ、歪む。すごく頑丈だ。デカい鮫が激突してもビクともしない。

……ので、脳内で常に『精査』しよう。
今自分が書いている『言葉』が、どこから来たか。記号や陳腐ではないか。そもそも、伝えたい内容に合致しているかナドナド――と、書いたが、ここに変な現象がある。

・伝えたい内容に『うってつけ』な言葉が『必ずある』のではなく、言語表現を日々してる『からこそ』浮き彫りが可能になる

つまり、言語活動により『自分ですら説明がつかなかった【伝えたい内容】を発見する』事ができる。
この感覚は毎日書かないと実感が難しい。
まあ、書くだけでなく、読書や様々なエンタメや世界に総合的に触れまくるのも大事だ。

それらの継続により『何か』を知る。その為に私は行動している――を阻むのが、受動的な態度や陳腐な言語……なのだ。

『書を捨て、旅に出よ』という格言があるが、私は『捨てんなや❗️』って思います。じゃないと『言語』という重大な認識の一端を放棄するハメになる。

なので……

書を携え
  世界を見よ


……コレに尽きる。



『書く』は世界に対する『還元』だ。

『還元』は『代謝』でもある。

『代謝』は『肉体』に欠かせない。

『肉体』がなければ『書けない』

『書けない』と世界に『還元』できない。

『代謝』は終わり、『世界』は閉じてゆく。

そして『肉体』は腐り、死ぬ。


🔺この理屈は、『どの表現活動』にも置き換えられる。


ぼくにとって最も重要な労働はやはり絵を描く作業です。絵は目的も結果も手段もありません。あるのは「今」という瞬間の行為だけです。

【言葉を離れる】 横尾忠則


『創作をしている❗️』なんて大袈裟な思い違い。
この『労働』という割り切りは素晴らしい。

『歩かないと足跡はつかない』
私はそのように受け取った。
歩くからこそ、『かつて今だったモノ』を知覚する。

だから『よし❗️ 足跡をつける為に歩くぞっ❗️』
なんて気持ちで書いちゃいけないのだ。
ただ、歩く。
ただ、書く。
日々の労働。なんてことはない。

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