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四十四丁目の星屑たち

 真っ暗な空間。女性の形をした影が言った。
 「あなたもわたしも、細かな粒子の集合体なのよ。知ってる?」
 遠くにある星が役目を終えて、膨張し、やがては爆発する。星は細かな、もしくは大きな欠片となって漆黒の空間の中を漂う。
 あれは。アサギは横目で星の爆発を捉えて考える。星屑だ。星屑が暗闇の中を彷徨い、出会い、群集し、また新たなひとつの生命になる瞬間たちだ。
 女性の形をした影が微笑み、アサギの手を握る。アサギを形成している輪郭はぼやけ、女性の形をした影と溶け合う。二人は握られた手を接続端子にして、お互いを知る。
 群集した星屑たちは人や動物、魚の形になって、それぞれどこかへ行ってしまった。
 あれは? アサギが影に訊ねると、影は声に出さずに手を伝って答えた。
 「あれは私たちのはじまり」
 「僕たちのはじまり? 僕たちは星屑なの?」
 影はもう何も言わずに、その胸と腹と肩をアサギの身体にぴったりとくっつけた。影とアサギを隔てる部位は、もはや頭部と脛だけとなった。

 そもそもの始まりは、サロモーネの一言だった。
 サロモーネはイタリア系の色男で、その浅黒い肌と白い歯で女たちを夢中にさせる。そのかわり飽き症で残酷でもあったが、それでも彼は持ち前の無邪気さでその欠点をカバーしていた。
 だからこそ、堅物のアサギでも彼の友人でいられるのだ。
 「四十四丁目の女たちは最高だ。昼飯どきになると、職場から出てくるのさ。ぞろぞろと、俺たちに出会いにな」
 「昼飯を食いに出掛けてくるんだろう」
 「そう、欲望を満たしにくるんだ」
 呆れるアサギの横で、サロモーネは自慢の美しい歯を見せて笑う。爽やかで、可愛らしいえくぼがあり、その上どことなく淫靡さも兼ね備えた笑顔で。
 「そこで俺たちはそこに出向いていって、昼食さながらに彼女たちの中に這入り込んで、ごそごそ探るってわけだ」
 「彼女たちは午後の仕事はどうするんだ?」
 「仕事と恋、どっちが大事だ? 日本人はそんなことすらわからないんだからな」
 サロモーネが呆れるように首をふり、その冗談にアサギは人種差別だぞ、とブラックジョークで返す。
 「エコノミック・アニマルよ、急げ。若さと美しさの女神は足早で、鈍間と老人を毛嫌いしてる」

 薄曇りの四十四丁目には、漆黒色の窓のない建物が何十棟も並んでいる。ドアもドアノブも、玄関前の階段も、全てが黒く、それぞれ全く違う形をしていた。四角い建物で、ドアが菱形のもの。幾何学的な造形のドアノブのもの。ひっくり返ったハート型。窓が元々ないものや、窓があったであろう場所が黒く分厚い金属で覆われているもの。
 様々な形状の建物たちは、ぎっしりと四十四丁目に佇んでいる。建物と建物の間の小道をアサギが歩いていくと、様々な声が聞こえる。早口、高い声、低い声、大きな笑い声やひそひそと囁かれる誰かの悪口。
 暗い小道は、様々な花の薫りで充満していた。アサギはその薄暗く濃厚な花弁の薫りの満ち溢れた小道を、静かに一人で歩いている。多少の羞じらい、それからそれとほぼ同量の期待を胸に抱いて。
 すると、漆黒の建物群の中に、ひとつだけやけに目につく建物を発見した。一見、他の建物と同じ漆黒で窓のない建物だが、アサギにとってはその建物はとても愛おしく特別に思えた。その壁の輪郭も、ドアの造形の美しさも、窓のない哀しみの深さも。
 アサギはその建物の前まで歩いていき、漆黒で重厚なドアを、おそるおそるノックした。最初に沈黙、そのあとにアサギをじろじろとチェックするような視線を感じて、それからゆっくりとドアが開いた。
 アサギは真っ暗な家の中に、胸を高鳴らせながら入っていった。

 アサギの母は敬虔なクリスチアン、父は厳格な数学者だった。アサギの育った家の中はぬいぐるみやテレビゲームの代わりに、数式と聖書が積まれていた。そのシリアスで重厚な遊び道具たちは、その存在と同じようにシリアスで重厚な自戒の念をアサギに齎した。
 アサギが七歳の頃。母が法事の為、実家のある遠い国へ帰ってしまった。少しの間、家にはアサギと父だけで暮らした。
 アサギは母を恋しく思う気持ちから、母の箪笥から母の洋服や下着を引っ張りだしてそれに埋もれて眠った。
 母の衣類には母の香水の甘く上品な匂いが染み付いていて、アサギはその薫りの中で眠った。それは確かに母を恋しく思う子供の純粋無垢な慕情だった。だが、アサギは心の奥が疼くのも感じていた。母の香水の薫りが、アサギの心の奥の、複雑怪奇で、理解し難い感情を揺さぶったのを。
 その時は、その怪物は目を覚まさなかった。重そうな瞼をゆっくりと持ち上げて、すぐに目を閉じた。後になってわかったことだが、その怪物は慕情とは共に行動をしない為、母を恋しくてしくしくと泣くアサギを見てもう一度眠ることにしたのだった。
 父は母の衣類に埋もれて眠るアサギを見て、なんと言ったのだったか。𠮟られはしなかったと思う。だが、一瞬。ほんの一瞬だけ、嫌悪の感情を彼がその冷たい目に宿したのがアサギにはわかった。
 アサギは羞恥の念に駆られた。それは慕情の奥で怪物が少しだけ瞼をあげたことと関係があった。その怪物は醜く、起こしてしまえば飼いならすことは難しそうで、そうしてとても恥ずかしく思えるものだったのだ。
 それにこんなこともあった。あれもアサギが十歳頃のことだった。アサギは叔母の住む家を、家族と共に訪ねた。父と母と叔母夫婦はリビングで葡萄酒を飲み、くつろいで会話を楽しんでいた。アサギは退屈で、家の中を歩き回った。叔母夫婦は裕福で、家は大きく、冒険のし甲斐があったから。
 古い時計、埃のかぶったモニュメント、レトロで魅惑的なスーツやハットたち。叔母夫婦の歴史を刻んだそれらの物品は、何に使うものなのかアサギには用途がよくわからなかった。なのでそれらは、海賊が持つ宝物に、または教会の奥深くに隠されている聖杯や聖剣のように見えた。
 アリスの落ちた穴の中のような、神秘の宮殿を歩いているうちにアサギはなんだか恍惚とした気分になってきた。ライラック色のイベリスが、花瓶の中で静かにアサギを誘惑している。写真立ての中で笑う若い頃の叔父と叔母。両親と叔母夫婦の笑い声。
 アサギは部屋の隅に行って、自分の足の付根をぐいと掌で押した。なんだかそこがむずむずしたのだ。自分が興奮したり、恍惚となるといつも起こる症状だった。そういった時は、いつもこうして部屋の隅に隠れて、そこを掌でぐいぐいと押すのだ。衝動を自分の中に、もう一度押し込むようにして。
 「何しているの!」
 叔母の声が、背中に突き刺さった。アサギが振り向くと叔母は戦慄しているといってもいい表情で、アサギを睨みつけていた。
 「内股が痒かったんだ。恥ずかしくて、壁際で隠して掻いてたんだよ」
 アサギがそう嘘をつくと、叔母はほっとした顔をした。それから、そう、と言って漸くアサギに近寄ってきた。
 「叔母さん、吃驚しちゃったわ。人前であまりそこらへんを、触ったらいけませんよ」
 アサギは不思議そうな表情を作りながら、内心は羞恥の渦に飲み込まれて溺れかけていた。なぜなら怪物は、まだ目を覚ましていないにしろ、片目をあけてこちらをじいと見ていたのだから。
 アサギは足の付根に不吉なものを飼っていて、そしてそれを飼いならすことも、屠殺することも出来ないでいた。

 真っ暗な家の中を恐る恐る進んでいくと、生暖かいものにぶつかる。それはお湯のようだった。お湯がシャワーのように、ざあざあと降っているのだ。
 アサギは濡れてしまった服を脱いで、畳んで近くに置いた。服を脱ぐと、少し寒くなってしまったので、彼はお湯に身体を投じた。暖かなお湯と湯気は、アサギの身体を巡る血を暖め、現実の穢れを落とした。
 お湯から出て更に進むと、ふわふわのタオルが落ちていた。アサギはそれで身体を拭く。良い匂いの柔らかな綿のタオル。
 真っ暗な部屋の中を、アサギは更に進む。壁に手をついて、真っすぐ、それから右に曲がって、落ち着いて、乱暴にしないで、椅子にぶつからないで、そこはすこし屈んで、そのあとは左であとは真っすぐ。
 中はとても広く、囁くようなガイドの声が無ければ、もっと悲惨だったろう。けれど美しい声は常にアサギの鼓膜をくすぐり続けてくれた。それは昔、眠る時に母が聖書を読んでくれた声によく似ている気がした。
 囁きに導かれた先には、もうひとつ扉があった。その扉は小さくひっそりと、けれど独特な存在感でそこに佇んでいる。
 「そこに入って。急がないで、ゆっくり」
 アサギは扉をあけて、その狭い扉の中へゆっくりと身体を押し入れる。囁き声の溜め息が聞こえて、アサギは身体を止める。
 「痛かったかな?」
 「ううん、平気。どうぞ、もっと奥へ」
 扉を抜けると、そこは漆黒の空間だったが、前よりはほんの少しだけ明るく、うっすらと部屋の中が見える。そうして、そこに女性の形をした影がいたのだ。
 物語は、冒頭のシーンに戻る。
 少しだけ明るいのは、遠くで神秘を抱えて生きる恒星たちの輝きの所為だった。恒星の周りを巡る惑星たちが、くすくすと笑ってアサギたちの周りも巡る。
 アサギはどんどんと溶けて、影と一体になっていく。速度が増すほどに動悸は落ち着いていき、肉体はくっついて離れてを繰り返して、前より深く更に執拗に接続していく。
 漆黒の部屋、影のいる側の奥に、怪物がいる。アサギはそれを一瞬、自分の怪物かと思うが、よく見るとそれは見慣れたそれとは違う怪物だ。
 その怪物は獰猛で、おそろしく、そして美しかった。不吉なものにも、祝福にもなれる可能性をその牙に秘めて、恒星の輝きに煌めく瞳をアサギに向けている。
 あれは、影の飼っている怪物だ。
 影も、飼いならすことも、屠殺することもできずにいるのだ。
 孤独が薄れていく。それは影と一体となっているからか、影も怪物を飼っているからか、銀河はたった一人の孤独になど興味がないからか。もしくはその全てによってだったか。
 影とアサギは遂に完全にひとつの恒星に戻り、膨張し、そして爆発した。アサギと影の欠片たちが、真っ暗な銀河の中に漂い、そうしてまた様々なものになる。そのひとつが、小さな人の形を為したのを、アサギは目撃した。
 新たな星屑。孤独と怪物を心に飼って、同じ星屑で出来た片割れを探す。出逢えるまで、広い世界を歩き回って。
 彼、もしくは彼女は、様々な哀しみや羞恥、憎しみ、痛みと出逢うだろう。人生に絶望もするだろう。けれど片割れを見つけることを、アサギは願っている。そうして宇宙の中で、ひとつの恒星に戻って、爆発することを。
 地球の季節が宇宙を模して作られているように、全ては巡って、また戻ってくるのだから。
 
 アサギは服を着て、家から出た。もう家は漆黒ではなく、ありふれた、けれど他のどれとも似ていないカラフルな家だった。
 窓から光が差し込んで、少し歪んでいる場所や欠けている場所も見えるが、それすらアサギにとっては愛おしい個性だった。
 ドアから女性が出てくる。もう影ではない。その人は誰かにとっては醜く、誰かにとっては平凡な女だった、
 そうしてアサギにとっては、特別なたったひとりの女だった。
 同じ星から生まれた星屑。同じ孤独を半分ずつ共有する生命。
 彼女はアサギにくちずけをする。アサギは彼女の腰の曲線をゆっくりと撫でて、彼女の細い身体を抱き寄せる。
 まだ二人は知る由もないが、彼女の怪物のすみかには、既に一人の星屑が宿っている。
 彼、もしくは彼女は、様々な哀しみや羞恥、憎しみ、痛みと出逢うだろう。人生に絶望もするだろう。アサギと女は彼、もしくは彼女を愛するだろう。そうして歪めるだろう。
 いつか、彼、もしくは彼女が新たな星屑を生み出し、その星屑が更に星屑を生む頃に、アサギと女は輪郭を失くすだろう。
 そうして、単なる粒子に戻って、銀河へと旅立つのだ。
 けれど、それはまた別のお話。
 サロモーネの白い歯が、アサギを迎える。
 「どうだった?」
 「素晴らしかったよ」
 アサギはにっこりと笑って言った。その行為が恥ずべきことではない事実を、アサギはもう知っているから。

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