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音階と透明な歌声、それから美しさについて

さても、不思議なことだ。
透明な歌声は、空を見上げてそう言った。身体にあっているのに、不思議と窮屈そうじゃないスーツに身を包んでいる。誰もいないのに跫がするじゃないか。
ぼくは昏がりに目を凝らした。確かに誰もいない。透明な歌声はそちらをじいっと見て、眉毛を下げて小さな息を吐いた。野良猫がさっと横切って、またどこかの庭に入っていく影。

アスファルトはひどく昏く冷たい。夜の闇に陰影を孕まさせられた躑躅たちがこちらを見て揺れているけれど、同情する時間も余裕もあいにく僕にも透明な歌声にもないのだ。なにしろ読むべき本はやまほどあるし、作りたいものも山積み、なのにその全てを読んで作ったとしてもぼくらは死んで、いずれは全てが過去になって朽ちて塵となるわけなのだから。
だからぼくらは急いで狂ったひとのように、夜の闇の中を駆けずり回っているというわけだ。

水を口に含むと、なんだか自分まで青く透明になった気にならないか。
実際はそう言ったわけじゃない。透明な歌声は水を口に含んでいたのだから。
首がかさかさと荒れている理由は見当たらなくて、明日の朝も早いというのにぼくは透明な歌声から目を離せない。彼は酒を飲んでいないのに、いつだって水しか飲まないのに、ウヰスキーそのものみたいな顔をしている。

段差に爪を立てて、指を滑らせる。かたっと音がした。歯を磨きたいけれど、この後に本当に何も食べないという確信が生まれないと。きみは慎重だねえ。透明な歌声は勢いでささっと歯を磨いて、その後で華麗にカレーを一皿ぺろりと食べてしまったりする。そのカレーを掬って口に運ぶ仕草がまた、とても美しいのだ。泣きたいのは、いつかぼくらが死んでしまうからかな。

こういうのって鬱陶しい? ぼくが聞いても、透明な歌声は首をかしげるばかりだ。
僕らふたりが似た者同士でわからないだけなのかな。ぼくらはいけないのだろうか。ぼくらは問題だらけで歪んでいて悲劇に浸っているのだろうか。そんなことはどうでもいいじゃないか、と透明な歌声は歌うようにそう言って、軽やかに星空にペン先をつけてさらさらと楽譜を書き始めた。楽譜は手紙なのだとそう言った彼女の唇の動きをやけに妙な生々しさで覚えている。ぼくだけ、かな。いや、ぼくもだよ。透明な歌声はつま先を数回鳴らして、機嫌がよさそうにしている。工具をふりふり、音符のかたちを変えながら。

時が溶けていく、ぼくたちの創作の上に。まるでナチョスに大量にかけられたチーズのようだ。孤独を理解しようなんて、愚かな試みさ。やつは孤独にさせておけばいい、音階を組み立てて宇宙と地球を繋ぐことの方が先、先。沈丁花の花の馨りがそれはそれは濃密で、指先にも満たない虫が道を移動していく。足を少し動かすだけで死んでしまう命を前に、ぼくは愛おしさをひたひたと胸に。
解明されない悲しみが平日の昼から喫茶店に入り浸る職業不明の常連客のように、ぼくのなかに沈殿している。遠い目の先には薄花色のやけにぼやけた歩道橋。闇夜の中でぽっかりと浮いていて、その陰鬱さといえばあのほっとするで有名なコーンポタージュさんでさえ飛び降り自殺しそうなほど。

さて、できたぞ。
透明な歌声はそう言うと、立派な音階が黒い空まで繋がっているのを見上げる。きみは黒だ黒だというけれどね、熟練の刑事みたいな口調でさ、あれは碧だよ。透明な歌声の憤りは、いつもひっくり返ったポケットみたいに素っ頓狂だ。あれは勝色ってものだ。もしくは煮詰めた花紺青。怒りと一緒でね、碧が深すぎると暗く見えるものさ。怒りだって悲しみが深く煮詰められたものだろう?
プライドって一体、何なのさ? 味気なく笑った聲が不誠実の証に見えただろうか、ぼくにとってはそれは優しさと名をつけたものなのだけれど。誰もが何かを求めていて、世間はやけにかしましい。

白木蓮の花の下で、両足を放り出して座った。手のすぐ横を小さな蟻が歩いていく。
クロモジの花は、とても楚々としていて可愛いんだけれど、見たことがある? 透明な歌声はそう言って、また空を見上げた。まるでそこにクロモジの花が咲いているかのように。音階は朝になったら溶けて消えてしまうかもしれないから、録音して残しておくことにした。
誰からも見られない美しさは、寂しい? 透明な歌声が録音ボタンを押しながら聞く。寂しいと思う、と答える。なぜだか胸の内側からパロサントの甘い匂いがして、喋るのが億劫だ。寂しくない? どうかな、わからない。透明な歌声は、ポケットから一枚のセージを出してライターで火をつけた。

録音された音階が空に近いところから一段ずつ、さらさらと光の粒子になって消えていく。燃えゆく音階のせいで、夜はすっかり白夜の様相だ。ぼくらは並んでその景色を見ていた。
なぜ、わからないんだい。
わからないよ。誰にも見られなくとも、美しさは美しさだ。ただそこにあって朽ちていくだけとしてもね。けれどそれじゃ何の役にも立たないじゃないか。何かの役に立つ必要が? 生まれてきたんだ、何かの、誰かの役に立ちたいじゃないか。
役にたっているさ。誰にも見られなくとも、誰も知らなくとも、その美しさは美しいままでそこにあるんだ。そして時を経て朽ちて、滅んでいく。それは誰にも見られなかったかもしれないが、確かに宇宙の一部だったんだ。この広大な宇宙の。
宇宙の全てには、意味がある。たとえ塵芥の一粒にしても。そうは思わない?

透明な歌声の泣き声は、引っ張って細く伸ばしたチューインガムのようだった。なんだか触りたいのに、触ったら切れてしまう。触ったからどうだということもない。
朝がやってきた。音階は全て録音されて、小さな黒い円盤の中だ。ごくごく小さな身丈で穏やかな宇宙人がふたりはいったら、ぱんぱんになってしまいそうな。
僕らは円盤の中身を確認して、全ての音階が収められていることに満足した。そして透明な歌声はその円盤をポケットに仕舞った。
きみは誰にも知られなかった美しさを、知っているの? ぼくは透明な歌声に聞いた。彼女が泣いていた理由を知りたかったから。彼女はにっこりと笑って、それから目だけ悲しそうに曲がった。
「そんなものばっかりだよ」
朝焼けは夕焼けとよく似ていて、けれど黄金成分が少しだけ多い。きらきらしたそれが新緑を照らして、もうすぐ僕らのもとには睡気がやってくる。

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