それは単に彼が感傷的になりすぎているという

他者を審判ジャッジする時だけ
みんなお得意の調子なんだから。

ひとは宗派が違うひとの考え方を
否定しなければ自己崩壊するって信じ込んでる。

玻璃はうつむきがちに言った。
その声には何かを恨んでいるような
強く憎んでいるような調子さえ含まれている。

問題はその厳しい戒律を
ひとに押し付けたい人だって
角度を変えて見れば
同じようなことをしているってことよ。

人間なんて五十歩百歩じゃない。

まあ、それをアイデンティティとも呼ぶのさ。

春琴は開襟シャツを指でつまんで
ぱたぱたと仰ぎながらコーヒーを飲む。
初夏のアイスコーヒーは汗っかきで
濡れた机にいつも手首を泣かされてしまう。

アイデンティティが争いを引き起こしてるって言いたいの?

争いを引き起こしているのは我々だよ。

春琴の疲れた目はもはや光を宿さず
長い首をかしげることで世界を拒絶している。
まだにじゅうも半ばの玻璃は若いオリーブのような
みずみずしい絶望しか知らない黒い瞳で
春琴を睨みつける。
春琴はわかるとおもっていたのに
わかると思ったから話したのに、と言いたげに。

あたしが悪いって言いたいの?

誰も彼もが悪いんだよ。悪いとしたらね。

春琴は烟草に火をつけて
ゆっくりと吸ってから吐いた。
なぜこんな身体にすこしも得にならないものを
自分は月々に結構な金額を割いて買うのか。
指の間に挟んだ劇薬を見つめて
もう何十年もでない答えをまた探している。

玻璃は手首の細い時計のベルトを
人差し指の爪でかりかりとひっかく。
苛立っている時の彼女のくせだ。

悪いとしたら、ってどういう意味?

言葉の通りさ。
悪いとしたら誰もが悪い。
悪くないとしたら、誰も悪くない。
ただ世界はそうなっているってだけだ。

悪くないとしたら、なんてことある?

他者を審判ジャッジする時だけ
みんなお得意の調子なんだよ。

春琴は烟草の煙を吐いた。
ため息に聞こえないように、割と慎重に。
玻璃は黙ってしまった。聡明な子なのだ。
春琴がうんざりしているのは玻璃にではない。
自分にだ。自分と世界の全てに。

春琴の言葉は詭弁だ。
玻璃のまっすぐな言葉があまりに
青々としていて、透明でまっすぐすぎるから。
けれど詭弁が言えるのも年の功だろう。
春琴だって、青々としてまっすぐだった頃はあったのだ。

争いを無くすにはどうすればいいと思う?

違う宗派の人を認めることさ。
たとえこちらの価値観を否定されてもね。

向こうがこちらを否定しているのに
こちらが向こうを認めるの?

きみは
認められたいのかい。
それとも争いをなくしたいのかい。

烟草の火を消した。
やっぱりこんな不味いものを
高い金を払って買い続けているのは
どう考えても間違っている。
間違っているからといってやめられはしない。
もう正しいや間違いで何かを判断するには
春琴は生き過ぎ、くたびれすぎている。

窓の外の景色は美しい。
近くでワインを飲むママ友ふたりが
誰かのことを悪く言っているのが聞こえた。
それは禍々しい極彩色の夢のようだった。

マーくん、やめて。
ママ、やめてっていったよね?
やめて! やめてったら!!

玻璃はちらりとそのママ友たちを一瞥し
それからまた視線を春琴に戻した。

あたしはどう生きたらいいかしら。

さあ? 好きに生きればいいさ。

ただ、ひとつ言えるとしたら、と
春琴は汗っかきのコーヒーをずずずと啜る。
水っぽいコーヒーは春琴の好みではないが
仕方ない。氷は溶けていくものだ。

わたしの母は正しいことが好きだった。
けれど間違ったひとだった。
正しい人なんて、わたしはみたことがない。
世の中間違いだらけだ。だが間違いの何が悪い?
間違いはひとに、いろいろなことを教えてくれる。
間違いは素直なひとたちにとっては良き教師だ。

母は様々なことが許せなかった。
政治の不正や、わたしの姉の男関係。
わたしの生き方もきっと許せなかったろう。
しかし母だってもともとは
結婚して子供もいた父を他のひとから略奪したのだ。
彼女はそこに気付かず、姉を淫売呼ばわりした。
どっちもどっちだがね。
姉が淫売だとしたら、母も女狐だ。
それはどちらも正しい表現とは言い難いけれど。
姉は淫売ではないし
母も女狐ではない。
誰かにとってそう見えたとしてもね。

玻璃は黙って聞いている。
春琴は話の文脈をもとに戻す。
川が氾濫せずに同じ道を辿り続けるように。
彼は正しさによって母を糾弾し虐めたいのではないのだから。

たしかにわたしの母は正しくはなかったけれど
そして時に醜いあやまちと自己擁護を犯したけれど
それをもすべて含めて、美しいひとだった。

ひとはみな美しい。
美しさを愛するものにとってはね。
弱く醜くどいつもこいつも
自分をありとあらゆる食器棚に飾り祀っていて
だが、誰もが強烈に愛おしく美しいじゃないか。
そうは思わないか。

それがわからない者とは
わたしは会話すらしたくないよ。

玻璃はじっとうつむいて
自分の人差し指をした唇に当てている。
その表情を春琴はとても美しいと思う。

ひとびとは罪深く愚かだ。
自分を筆頭に。

春琴は喉元までせりあがってきた
胸焼けに近い絶望をおしとどめて
窓の外の植物たちを見遣る。
植物は美しいが、植物のようになりたいとは
春琴は特には思わない。

業の渦の中で、美しさとは何かを
数式を使って宇宙の真理を解剖しようとする
数学者のように見極めたがっている
愚かで醜い自分でいることが彼は好きなのだ。

それが、あなたの宗教?

玻璃がそう言って
春琴は満足げに笑う。
エクセレント。とてもいい答えだ。

それが、調和の第一歩じゃないか。

自分の腕に染み付いた肉欲と
抗いがたい馬鹿馬鹿しさの呪いを
理解したい、と春琴は思う。
窓から斜めに差し込む夕方を報せる
橙色の太い光の帯が
まるで彼の罪を洗い流すどころか
強く表面化させているようだった。

それは単に彼が
感傷的になりすぎているというだけ
のことなのだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?