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愛を込めて創った、あの夜の

 君はあの日を覚えているだろうか。
 その手紙の冒頭は、そう書き始められていた。
 君はあの日を覚えているだろうか。今では奇跡のように思える、あの頃の俺たちには当たり前だった日々のことを。
 カルロッタ・コルティノーヴィスは、何度も読み返したその手紙を静かに二つ折りに畳む。その手紙は時の経過とカルロッタの指紋や涙によって、くしゃくしゃになっていた。あまりに長く生き過ぎて死とさえ友人のようになってしまった老婆のように。
 その紙の上の文字は、カルロッタに何度も何度もたったひとつの狂ったメッセージを強要する。
 決して、忘れるな。決して。
 カルロッタは自分が歯科治療を終えたばかりの奥歯のように、神経過敏になっていることを自覚する。波のざわめき。車の通る音。厭になるほど青い空。太陽の光を砕き、その輝きを人々に売り歩く白波の宝石商。美しい景色が灰色の部屋に、そっと這入り込む。そうしてカルロッタの耳元で囁くのだ。生臭く熱い吐息混じりに。
 忘れるな。決して、忘れるな。
 
 ベルトルド・アンマニーティは前歯で、薄い唇のささくれを噛み千切る。口の端に出来たヘルペスの痛みが、ビタミンの不足を知らせていた。
 いや。ベルトルドは鋭い視線を商品棚に向けて、考える。俺に不足しているのは、ビタミンなんかじゃない。
 仕事は日常を演出してくれる。売れた商品、売れ残った商品、納品書。十五時に本社の人間。フェア。バーゲン。冷房の利いた店内は寒いくらいで、多くの食品の腐敗への速度を緩やかにしてくれる。生鮮食品コーナーには、屍肉が並んでいる。魂を失った肉は、世界から完全に消滅しようと凄い速度で腐敗していく。道行きを急いでいる、うっかりものの兎のように。
 待ってくれ、連れていかないでくれ。
 数日前まで、この世界にいたのに。ずっといると思っていたのに。ベルトルドは白昼夢の中、しきりに叫ぶ。
 いまや、オレステ・アンマニーティは世界から消滅しようとしている。あの冷たい墓所の中で。一人、小さな身体を横たえたまま。ベルトルドが経営するスーパーマーケットに並ぶ、生鮮食品たちのように。この肉片たちも、誰かの家族だったのだろうか。それとも家族の存在など知らされず、食用の肉片になる為だけに育った生き物だったのだろうか。
 どちらが幸せだろう。ベルトルドは乾いて痺れた唇を、しきりに舐める。愛を知らず生きる目的もわからないまま、生鮮食品コーナーへ辿り着くのと、愛を知って与えられ、そして奪われ、聞き入れられない懇願を運命に願い続けるのとでは。
 
 花束のように色鮮やかで、甘く匂い立ち、世界の全てから愛される。カルロッタはそうした女だった。彼女が微笑めば老いや哀しみも羞じらい、頬を染め、死神でさえ彼女の永遠の命を願った。
 カルロッタの細い足が酸素を蹴り、その花びらのようなスカートがはためく度に、世界は神への感謝を口にした。素晴らしい贈り物への終わりない感謝の祈りを。
 ベルトルドは、他の多くの人々と同じようにカルロッタの全てを愛していた。ベルトルドの話を訊く時に、眉をあげて大きな目を更に大きくするところを筆頭にして。長い睫毛、涼しい鼻筋、美しい唇から覗く、スランプに陥った画家の真っ白なキャンバスたち。
 カルロッタは自分に贈られた様々な愛の告白を、その文句たちを思い出す。それらは宝石店のショーウインドウのように、全てが美しく輝き、そしてその中からたったひとつだけを選ぶように迫っていた。ベルトルドの告白は、その中でも冴えないもののひとつだった。けれど誠実で堅実に、小粒ながらも中身がぎっしりと詰まって見えた。
 あの時の選択が、間違っていたのかしら。
 カルロッタは自分の莫迦げた想いを、振り払うように頭を振る。
 「あの人の求婚は本物の宝石だった。ベルトルドの愛もさることながら、何よりもあの宝石は私たちに最高のギフトを、オレステを与えてくださった」
  カルロッタの痩せて細くなった薬指で、結婚指輪がくるくると廻る。彼らを翻弄する運命のように。
 夕方、五時の鐘が街に響く。カルロッタは椅子から立ち上がった。オレステがもう帰ってくる時間だわ。彼女はキッチンに行き、シンクの前ではた、と立ち止まる。オレステはもう帰ってこない。二度と。どこにいったのかしら。どこにいったのか、カルロッタにはわからない。けれど、どこかに行ってしまった。オレステはカルロッタの手の届かないところへ、永遠に旅だってしまった。
 昼間はよく晴れていたので、部屋の電気は点けていなかった。徐々に夕暮れが近づいて、赤黒くなった部屋の中、カルロッタは一人佇んでいる。どこかにいっても、電気をつけてもいいのだが、彼女は動けずにそこにずっと佇んでいる。思い出と思考と哀しみと胸の痛みが混在する、薄暗い一瞬の永遠の中に、彼女は閉じ込められてしまった。
 波のざわめき。車の通る音。厭になるほど青い空。太陽の光を砕き、その輝きを人々に売り歩く白波の宝石商。
 何度も思い出して来たイメージたちが、一度濡れて乾いた写真のように歪んで身体に貼り付く。あの日オレステの身体に貼り付いていた、様々な海藻やゴミたちのように。
 愛しい人がいない、ということをカルロッタは理解できない。事実を受け取ることが出来ない。その手はたった一行の文章さえ、掴むことが出来なくなってしまった。それも仕方ないことだ、と思う。オレステがこの家を去ってから、彼女の身体は食べ物をほとんど欲しなくなってしまったから。
 光を失った闇の中では、人はどのように生きていけば良いのだろう。

 自分の食べる分より、少しだけ少なく料理を注文する。
 ベルトルドは無意識にそうしてから、もうその必要がないことに気付く。愛おしいオレステの食べ残しは、もう二度とベルトルドの胃を圧迫することがなくなったのだから。
 レストランを出ると、こぎれいな格好をした男がげえげえと路地裏で吐いている。酒を飲み過ぎたのだろう。ベルトルドは彼を羨ましく思う。彼の日常は破壊されていない。いや、もしかしたら破壊されてしまったのかもしれない。だから飲み過ぎたのかも。哀しみの露呈の仕方は、人それぞれだ。
 ベルトルドはあの日から、酒を飲めなくなってしまった。あの日、ベルトルドは少ない量とはいえ、ひっかけていたのだ。それ以来、彼は一滴も酒を口にしていない。自分の脳がリラックスしている間に、また大切な何かを奪われるのではないか、という恐怖に駆られて。
 更に彼は、上手に眠ることもできなくなってしまった。瞼の裏に現れるオレステの笑顔と、寝ている間に何かを奪われるのではないかという恐怖。そのどちらを見ればいいのか、ベルトルドにはわからないのだ。毎晩、途方に暮れているうちに、意識を失うように寝ている。そして、また迎える。オレステのいない朝を。
 ベルトルドはオレステの葬儀を終えたあと、家を全てピンク一色に塗り替えた。家の中が暗くて、暗くて、遣り切れなかったのだ。けれど壁がピンクになっても、居間の電気を五個増やそうと、家の中の暗さに変化はなかった。家の中は相変わらず灰色で、夕方になると真っ赤に染まった。一枚板のダイニングテーブルや高価だった揃いの椅子は堅く、全く温度というものを感じられなかった。
 本棚には徐々に哲学書や宗教書が増え(以前は読まなかった、小難しい文章の整然とした配列)、ベルトルドは酒の代わりに煙草を吸うようになった。癌になってしまえばいい、と思いながら。
 自殺は出来ない。なぜなら天国のオレステに逢えなくなってしまうし、オレステに逢えたところでなんと言えば良い?
 「お前に会いたくて、パパは首を吊ってしまったよ」か?
 幼く美しく、両親より先に天国へ逝ってしまった寂しがりやの息子へ、ベルトルドはそんなことを言うつもりはなかった。
 けれど、煙草なら言い訳が利く。
 「パパは煙草を吸って病気になったんだよ。やっと逢えたね」
 ベルトルドは思い出す。オレステが生きている頃を。
 カルロッタが、眉間に皺を寄せて耳打ちをする。あの時オレステは自分の部屋にいた筈だ。ベルトルドは仕事からへとへとになって帰り(店を出したばかりだったのだ)、暖色の照明の下、カルロッタの作った食事に舌鼓を打っていた。
 「オレステが、パパは? と言ったんです。食事中に」
 「仕事が忙しいんだ。わかるだろう? 店が軌道に乗るまでは」
 「わかります。わかりますけれど、あなたの店と同じくらい、いえ、それよりももっと深くオレステはあなたを必要としています」
 ベルトルドはナイフとフォークを皿に置く。目頭を抑え、今月のスケジュールを思い出す。細部まで細かく。どこか。どこかの隙間で、息子と遊ぶ時間がとれないだろうか。
 ……無理だ。ベルトルドのスーパーマーケットは、開店して間もなかった。人間の子供も生まれてすぐは親の目が常時必要なように、店舗も店主の細かな気配りと運転が必要なのだ。タイヤは廻りだせば独りでに廻るが、廻りだすまではずっと押していなければいけない。
 「ご自分でオレステにお伝えくださいね。私は可哀想で、とても言えませんわ」
 カルロッタはそう言って、キッチンへ洗い物をしにいった。静かになった部屋で、ベルトルドは冷めてしまった料理をつつく。自分に言い訳をしながら。
 カルロッタやオレステを養うためだ。この家族を守る為だ。
 
 あの時、私や彼は本当にオレステのことを考えていたのかしら。
 カルロッタはすっかり暗くなったキッチンで、一人分の食事の準備をしながら考える。ベルトルドは外で食べてくる、と今朝言っていたから。ベルトルドとカルロッタはあの日以来、食卓を共にしなくなった。二人で食卓を囲むと、どうしてもそこに欠けている存在のことを思い出してしまう。
 たったひとつの事象が、世界を一変させてしまうことがある。あの日からカルロッタとベルトルドには出来ないことが、とても増えてしまった。
 悪いことばかり、思い出す。あの子をきつく𠮟ってしまったこと(なぜママの言うことが聞けないの)。自分が忙しいからとあの子を粗雑に扱ってしまったこと(今、ママは忙しいの。後にしてくれるかしら)。わからないことをうやむやにしてしまったこと(さぁ、わからないわ。パパに聞いてごらんなさい)。
 私たちはあの子に、真っ正面から向き合っていたかしら。なぜ私たちは、いつも失って気付くのかしら。なぜ、この手の中にあるうちに、大切に出来ないのかしら。
 カルロッタは悪いことばかり、思い出す。なのにカルロッタが思い出すオレステの姿は、笑顔の姿ばかりだった。それがより不憫で、苦しくて、カルロッタの胸はずきずきと酷く痛んだ。
 此処にオレステがいてくれればいいのに。そんなことないよ、ママ。ぼく、大切にされていたよ。と言ってくれればいいのに。
 ほら、まただわ。気付けばカルロッタは嗚咽している。
 また私は自分のことばかり。自分が救われることばかり、考えている。オレステ、オレステ、オレステ。ママを赦して。ママを助けて。ママのそばにきて。
 作った食事をキッチンに起きっ放しにして、カルロッタはダイニングテーブルに突っ伏す。悲痛な泣き声が、カルロッタの細い喉をこじ開けて、世界に悲劇を知らしめた。それは泣き声というより、うめき声に近かった。獣が死の間際に、自分の命を奮い立たせる為に放つ咆哮のような泣き方。

 「オレステ、あまり遠くにいかないで」
 カルロッタの声が聞こえる。空は青く、太陽は高い。
 ベルトルドは満たされている。苦心と睡眠不足、妻子を悩ませた甲斐があり、スーパーマーケットの経営は上手くいっていた。
 彼はようやく休みをとって、妻子を海に連れてきたのだ。オレステははしゃぎ、砂浜を駆け回っている。カルロッタの水着姿は瑞々しく、以前より年齢は重ねているが、彼女自身が世界の歓びであることに変わりはなかった。あの瞬間までは。
 あなた、オレステを見なかった?
 カルロッタが不安そうに、そう言った。
 どこかそのへんで遊んでいるんだろう。
 いないのよ。
 きちんと探したのか?
 探したの。岩場の陰も、お手洗いも、木々の裏側も。どこにもいないのよ。
 どこにもいないのか。
 どこにもいないの。
 慌てて立ち上がったベルトルドを見て、オレステはけたけたと笑って木陰から出てくる。
 パパ、ママ。僕はここだよ。焦らないで。
 ああ、良かった。オレステ、遠くにいかないで。
 オレステ、遠くに行っては、駄目だ。
 オレステ。
 ベルトルドの目尻から、哀しみが一筋、耳の方へ滑り落ちる。 真っ暗な部屋。見慣れた天井。いつの間にか、眠っていたようだった。カルロッタがベッドの縁に腰掛けている、甘く幸福の象徴のようだった腰の曲線は、以前よりもその角度を鋭利にしている。彼女はあの日から、まともに食事を摂れていない。頬は痩せこけ、目は窪み、その顔からは美しささえ奪われてしまった。
 あなた、うなされていたわ。
 彼女は静かに、枯れ葉の擦れ合うような小さな音だけを立てて、自分の髪の毛に櫛を通している。
 私が目を離さなければ、良かったのよね。
 その声はぞっとするほどに、かさついている。まるで地獄の深淵から伸びて来た亡者の手のようだ。
 ベルトルドは真っ暗な部屋の中、身体を起こす。もう朝は来ているのに、この家の中にだけは朝が来ない。彼はついにその言葉を口にする。同情や引け目からずっと心にしまって言わなかった言葉を。
 「別れよう」
 カルロッタはこちらを向かない。ただ、枯れ葉が擦れ合うような小さな音を立てて、その髪に櫛を通している。
 「俺はお前に、お前は俺に、あの子を思い出させてしまう」
 カルロッタは泣きたい。だが、もう涙は使い果たしてしまった。あの子の為に。深い深い愛を込めて創った、あの夜の結晶の為に。ベルトルドの為に流す涙は、もうカルロッタの涙袋には残されていなかった。かつては知性にあふれ、カルロッタの微笑みにあわせて、緩く美しい弧を描いた涙袋。そこには今ではくまが幽霊屋敷に這う黴や蔦のように蔓延り、彼女の疲れと恐怖を全身で表現している。
 別れの為に泣けない私たちは、もうそばにはいられないわね。
 仕方ないわ。仕方ない。仕方の無いことだわ。
 カルロッタはベルトルドを愛していた。ベルトルドはカルロッタを愛していた。そしてカルロッタとベルトルドは、お互いを想うよりも深くオレステを愛していた。オレステはカルロッタであり、ベルトルドであり、他の誰でもない、かけがえのないオレステだったから。
 かつて美しい娘がいた。その娘を愛した男がいた。二人は愛し合い、その愛を込めて、ある夜に一人の天使を創った。
 その天使が天国に帰ってしまった今、愛も共に去ってしまった。世界は最初から何事も無かったかのように、素知らぬ顔をしている。ピンクの家の中で、出口を無くした二人の男女のことなど、最初から知らなかったかのように。

 君はあの日を覚えているだろうか。
 別れた後に、一通だけ送られて来た手紙。ベルトルドからの懺悔の手紙。それを何度も何度も、カルロッタは読み返している。
 「俺は君を責めているつもりはなかった。けれど、俺は君を労ることも、慰めることもしなかった。俺も痛手を追っていたんだ。酷く深く、沢山の血が溢れるほどの痛手を」
 カルロッタは、その手紙を眩しそうに読む。今ではもう、カルロッタの涙袋は皺で覆われて、美しさも幽霊屋敷の蔦も何も判別できなくなっている。ベルトルドと別れて数年の後、カルロッタは再婚をした。夫は優しい人で、カルロッタの願い通り生涯子供を欲しがらなかった。
 その夫も、ベルトルドも、今ではオレステのそばにいってしまった。全ては過ぎ去り、老いだけがカルロッタの横で春先の猫のように横たわっている。
 世界がなんといおうと、運命がどんなに素知らぬ顔をしようと、私たちは愛し合ったんだわ。
 カルロッタは窓の外を見る。あの日と同じような、夕焼けが染める赤黒い家の中。
 オレステはいなくなってしまったけれど、確かにいた。
 いた、という事実が何より大事なのね。
 夫も、ベルトルドも、いた。
 父も母も、友人たちも、全ての人々はいた。
 そこには愛があって、愛は無くなったりしない。目に見えないから、時々見失ってしまうけれど。
 あの日、私とベルトルドは愛を見失っていた。私たちの愛が目に見える形で世界に出て来て、そしてそれを奪われてしまったから。
 けれど、愛はなくなっていなかった。そこに確かにあった。
 今ならわかる。私は、愛に囲まれて生きてきたんだわ。
 カルロッタの住むアパルトマンの大家が、眠っているようなカルロッタの遺体を見つけたのは、その夕方から四十時間ほど経ったあとのことだった。
 カルロッタは、確かにそこにいたのだ。
 私はそれを思い出す為に、この文章を書いた。この文章が、カルロッタとその周囲の愛すべき人々、そして私がいたことをいつかまた保証してくれることだろう。

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