空想に要する経費
A1.
バルナベは誰とも知り合わない。
相手がバルナベを知っていても、バルナベは相手を知ろうとしない。例え知ったとしても名前と顔程度で、それ以外の情報は必要としない。バルナベは誰とも知り合わない。
誰とも関わらずに生きていくことは不可能だが、誰とも知り合わずに生きることは可能だ。
バルナベは細身の白猫と、週五日の静かで淡々と続く仕事、そして父から譲られたペンと共に生きている。休日はコンクリートの壁を前にして、考え事をする。言葉は必ずしも誰かとの会話の時だけに必要なものとは限らないと、バルナベはこの生活で初めて思い至った。誰のものでもない言葉たちがバルナベの心で、幾重にも層を作る。子供の時にどこかで目にしたローム層のように。
いつかバルナベは積もった思考の崖から世界を見下ろそうと思っている。青空を背にしたバルナベ、高層マンションのような思考のミルフィーユ、糖分に群がる蟻のように地上を黒く埋め尽くす差別と貧困と怒号。
今は誰もが他人に干渉しすぎていて、なのに誰も他人の気持ちを想像しない。両側から力が加えられて、お互いを圧迫していく万力だ。万力ひとつでも大きな問題なのに、人々は文明の英知を使い、より多くの万力を複雑に絡み合わせようしている。知恵のない知恵の輪。バルナベは、そっと溜め息を下唇の上に滑らせた。
猫が身体を擦り寄せる。ささやかな都会の一室で、バルナベは誰とも知り合わない。
B1.
ナタリーは、極度の潔癖性だ。
一日に何十回も手を洗い、風呂に入る。ただし、浴槽には浸からない。排水溝に潜む菌のことをよく知っているから。
当然外食もしないし、外にはほとんど出ない。出る時には薄手のビニール手袋とマスク、長袖のシャツに足首までのロングスカートと洗濯の出来る帽子をつける。消毒用のアルコールスプレーと、ガーゼを箱ごと鞄に入れて。
元々ナタリーは潔癖性の気があったが、つい最近までその症状は、こんなに酷くはなかった。昔は大学にも通えていたし、少し前までは普通に働いてもいたのだ。
彼女の症状が酷くなったのは、半年ほど前に、大学で同期だったギャエルに街で偶然会ってからだ。
ギャエルという男は再会の瞬間(ナタリーにとってはほぼ初対面に近かったが)から馴れ馴れしかった。
「やあ、大学で一緒だったよね」という挨拶の後は、自分は今では有名人の誰それと知り合いだとか、いまどれほど重要な役職に就いているかとか、ナタリーには無関係な自慢話だけが延々と続いた。その間もナタリーは、肩を抱いている手を離して欲しいとだけ、願っていた。神に縋るように。
ギャエルのあの日の目つきと、口元のだらしなさが、いつまでもナタリーの肩を抱いて離れてくれない。安酒の底にこびりつくいがらっぽい嫌味に似て。その不快感のせいで、酔いもたちまちに酷い頭痛へと変貌してしまう。
こめかみを抑えて、ナタリーはよろめく。鎖骨の浮き出た細い身体を、同じく細い手首で支えてから、ナタリーはもう一度手を洗う。水飛沫が跳ねないように、ゆっくりと蛇口をひねって。
C1.
大学の同期のナタリーをちょっとした野暮用で訪ねた折りに、彼女が思わず口を滑らせた話。リディアはその内容を繰り返し、そのカールのかかった美しい金髪の内側で反芻する。
ナタリーは酷く痩せていて、どこからどう見ても病人に見えた。彼女はリディアに触れられることにも怯えていたし、リディアが帰るまでの一時間で五十八回は手を洗った。それも、しっかり石鹸をつけてごしごしと。
リディアがしつこく問い質すと、ナタリーも最初は口ごもっていたが、徐々に少しずつ事情を話しだした。その細い身体を震わせ、長く美しい睫毛に涙の粒を宿らせて。それはリディアが子供の頃によく雨宿りした宝石店の軒先とよく似ていた。水滴が屋根にしがみついている点や、その奥に美しい宝石が陳列されているという点に於いて。
ギャエル・ヴェルデッキオ。白い歯と爽やかな笑顔。頭蓋骨の中の脳の皺が足りなかろうと、知性的な顔面と引き締まった身体があれば女たちに愛されるには足りる。リディアは大学時代の彼を思い出す。彼はかつて美しい男だった。
リディアは泣きながら、ギャエルに暴行された日のことを話した。自慢話、口説き文句、ナタリーの断りの後の恫喝、泣いて謝り帰りたがるナタリーの手首を掴んだ、不躾で無礼な握力などについて。
ナタリーはもう忘れたい、と言っていた。けれどリディアは忘れさせるわけにはいかない、と思っている。それは義憤のようでもあったし、ゴシップやスキャンダルを楽しむ感情と似ているようでもあった。
何事もなく、そんなことが赦されて良い筈はないわ。
リディアがナタリーにそう言った時の、ナタリーのあの顔。泣き出しそうな、不安そうな、それでも光が差したような、複雑な顔。眉毛は八の字になり、目は充血して、唇は少しだけ開いて震えていた。かさついたナタリーの唇から覗く白い歯、
彼女ってそこそこ綺麗だけど、いくらなんでも痩せ過ぎ。
可哀想なナタリーを救ってあげる自分を想像して、リディアはにっこりと微笑む。コーヒーマシンが湯気と匂いを、朝の部屋に撒き散らした。美しくて優しいあたしって女神様だわ。
D1.
人はみな、家の中では美しくない。あの女優も、アイドルも、大学教授も、医者も。眠って起きれば目ヤニがついていて、寝癖で髪はぼさぼさだ。仕事に集中している間は身なりに気を使わず、適当な服を着て大量の資料や出てこないアイディアと悪戦苦闘する。
それが、生きるということだ。
だからこそ、嘘が必要なのだ。
映画スターだってそうだろう。彼らはオフシーズンには食いたいものを食い、酒に溺れ、おおいに太り、沢山のトラブルを抱えている。けれど撮影となれば、紀元前からずっと変わらず自分は美しかったという顔をして、バッチリのメイクと衣装で取り澄ます。その人生には何一つ問題がない、といった風情。
嘘はギャエルにとっても、自分の美しさを守る鎧だ。
ギャエルは高級なスーツに身を包んで、社交場に出る。有名人と撮った写真、人が羨むようなエピソード、リッチに見える立ち居振る舞いを彼はポケットぱんぱんに詰め込んでいた。
その日のパーティでは大学の同期の女に出逢った。リディアという女で、濃い化粧ときつすぎる香水、高笑いなどが高級デパートの一階にある化粧品売り場を思い出させる。
化粧品売り場女は、ギャエルの名を呼んで近づいて来た。ギャエルが彼女の素性を思い出す前に、「大学の同期」と耳打ちされた。
化粧品売り場女はその真っ赤な唇をめくり、ナタリーのことなんだけど、と笑った。ギャエルはスーツの中にうっすらと汗をかく。
ナタリーって、どのナタリー?
私たちと同じ大学の出身で細身で、あんたに強姦されたナタリー。
知らないな、とギャエルは嘘をついた。
強姦? なんだいそれ。どこにそんな証拠が?
ナタリーを知らない筈ないでしょ。大学の同期なのに。
大学の同期といっても、我が母校は大きいからね。君もご存知の通り。顔も名前も知らない同期も多く存在するだろう。
化粧品売り場女は、真っ赤な唇を更に歪ませて、笑った。怒っていたのかもしれないが、ギャエルには笑ったように見えた。
あら、おかしいわね。じゃあなんでナタリーは、あんたに強姦されたなんて言ったのかしら?
世の中には、色々な人がいる。その中にはありもしないことを、さもあったかのようにでっちあげて、わあわあと喚く厄介な人々もいるさ。
あの女はどこか病的だった。痩せぎすだったし、気も弱そうだった。どこかの誰かに手酷く傷つけられて、心を壊してしまったのだろう。だからそんなわけのわからないことを他人に吹聴するのだ。ギャエルはそう、自分にすら嘘をついた。ナタリーの細い手首や、行為の最中の小さく呻くような嗚咽と横顔を思い出しながら。
C2.
ギャエルはあなたのことなんて、知らないって言っていたけれど。
リディアがそう言うと、ナタリーは一瞬、無表情になった。その言葉が理解できないというように憮然として、目線を右下に落とし、少しの間じっと考えていた。
それから火山が噴火する時のように、徐々にゆっくりとナディアの身体は震えはじめた。大きな瞳に涙が浮き上がって、涙袋の上で堪えている。あんな男の為には涙は流さない、とでも言いたげに。
決壊寸前の涙袋の代わりに、ナタリーの薄い唇が緊急放流を開始した。
私、訴えるわ。
あの子から、あんなに強い声と言葉が出てくるなんて。リディアは今でも新鮮な驚きを持って、あの瞬間を回想する。女性用の細い紙巻き煙草から、煙が天井へ向かって昇っていく。リディアは自分のネイルの色と、白い細巻き煙草のコントラストを楽しむ。
美しい枯れ枝から溢れ出る、生命のマグマ。陶酔がリディアの身体を包む。
腕のいい弁護士を紹介するわ。
リディアが煙草の煙越しにそう言うと、ナタリーはついにその辛抱強い涙袋を決壊させて感謝の言葉を口にした。
最初は部屋の中では吸わないで欲しいと頼まれた煙草も、今ではリディアが吸っていてもナタリーは何も言わなくなった。彼女はリディアに心を開いたのだ。それは当然のことのように思えた。なぜならリディアはナタリーにとって救いの女神なのだから。
リディアが飼っている猫が、喉を鳴らして近づいてくる。しっぽをぴんとまっすぐたてたまま。リディアはその滑らかな背中の曲線を、ゆっくりと掌でなぞっていく。
あの弁護士の腕なら、ギャエルからとても膨大な慰謝料をぶんどれるだろう。けれどリディアにとって、お金はそんなに重要な意味を持たない。大切なことは、リディアが有能であり、意義のある美しく高貴な人間だという証明だ。
あの可哀想な潔癖性の痩せぎす女を救うことによって、得られるその黄金は、何者にも代え難い。
リディアは鏡に向かって、口紅をゆっくりとひきなおす。にっこりと笑った肉厚なその唇の上に。
B2.
なぜあんなことを言ったのだろう。
ナタリーの神経は、極限まで研ぎすまされて、今ではもう張りつめすぎて切れる寸前までいっている。
彼女といると、ペースが狂ってしまう。
リディアが灰皿にした皿を、ナタリーはそっとビニール袋に入れる。そうしてそれをゴミに出してから、何度も何度も手を洗う。空気清浄機のパワーを最大にして、シャワーも浴びる。ニコチンとタールが、ナタリーの身体と神聖な室内を燻してしまったから。鶏の燻製を作る小屋のように。
ギャエルを訴える。
私に出来るのだろうか。ナタリーは手を洗いながら、痺れた大脳で考える。潔癖性で外にすらまともに出られない私に、誰かを訴えることなんて。
数日後、リディアの紹介の弁護士と会った。幸いにも彼も神経質そうで、終止革の手袋を外さなかった。
あなたは確かに彼に強姦されたのですね?
ええ。私は確かに彼に強姦されました。
弁護士はこころもち眉間に皺をよせる。まるでナタリーが強姦の加害者であるかのような顔つきだとナタリーは思う。
そうですか。全く酷い話だ。お任せ下さい。必ずや勝訴を勝ち取りますよ。
ええ、お願いします。
弁護士の慰めの言葉は、女たちのダイエットの誓いと同じくらい嘘の匂いに塗れていたが、ナタリーは黙って頭をさげた。
では、弁護士料に関してですが……。
ナタリーはとてもではないが、そんなに高額な弁護士料は払えないと言った。しかしリディアは、今は払えなくともギャエルから奪った慰謝料の中から払えるわよ、と言い、弁護士は黙って頷いた。
弁護士事務所から帰る道すがら、リディアからお茶に誘われた。家の中で自分が管理しているもの以外の、全ての食器に触れられないナタリーは当然断った。リディアはその断りを受け入れてはくれなかったが。
あなたは飲まなくていいわよ。あたしの喉が乾いたの。
久々に入ったカフェは、思い出の中のそれよりも、ざわざわと騒がしかった。顔のないウエイトレスが音もなく近寄ってきて、オーダーを訊いた。
あたしにはワイン、赤。彼女には紅茶を。
リディアにこっそり、私は飲めないわ、と耳打ち。リディアは、いいのよ、全部あたしが飲むの、と笑った。
リディアはそのカフェで、ナタリーに口紅をプレゼントしてくれた。真っ赤で、毒々しい、高価な口紅だった。
あなたって綺麗なのに、お化粧しないでしょう? それって凄く勿体ないことだって、あたし思ってたの。
ナタリーが化粧をしないのには、理由があった。第一に、人前にそんなに出ないから。第二に、使ったスポンジや刷毛などの道具を、一々洗わなければいけないのが煩わしいから。第三に、人の身体には細菌が沢山ついていて、一度口にして時間が経ってしまった飲み物を飲めないように、一度使った口紅もナタリーはもう使いたくないから。
けれど、差し出された高級な贈り物を目の前にして、そんなことを言えるほどナタリーの神経は太くも強くもなかった。
そうね、ありがとう。
素晴らしい絵は、きちんと額にいれて飾るべきよ。鑑賞する目がなくともね。美しさに相応しい容れ物に、きちんと入れなければ。
リディアは満足そうに笑った。ねえ。それ、つけてみてよ。
ナタリーは真っ赤な口紅を、薄い唇の上にすいすいと滑らせた。
わあ。いいわ。とっても似合う。あなたって綺麗だけどインパクトがないんだもの。そのくらい強い赤だと、きちんと印象を作り出してくれるわね。
子供のようにきゃっきゃと笑うリディアを見て、ナタリーは化粧をしない理由をくどくどと語らなくて良かった、と思った。その直後に、これから会う時はつけてきてね、という一言を聞くまでの間だけは、ということだが。
A2.
なあ、ばあちゃん。この間、街で大学の同期だって言う女に会ったんだ。
彼女は俺を見るとすぐに近寄ってきて、ゲリラ豪雨のように言葉を浴びせかけて来た。あんまりにも早すぎて、三分の二は聞き取れなかったくらいだよ。
薄暗い夕方の病室。バルナベは眠る祖母に語りかける。
バルナベの祖母は数年前に脳の血管が切れて、そこから植物のようになってしまった。喋りも動きもしない。生きているだけ。
祖母は静かに呼吸をする。くう、くう、と。隣のベッドの老婆が呻く声と、人間がその命を終わる直前に発する馨りが部屋に満ち満ちている。
バルナベは誰とも知り合わないが、祖母にだけは沢山のことを話す。職場でのこと、不仲な両親のこと、世間で起きている事件について。今日の話題は、街で逢った女のことだった。
女は他の人間たちと同じように、一方的にバルナベを知っていた。
あたしのこと、覚えてる? 大学の同期のリディア。
真っ赤な口紅と、禍々しいほどに鋭利なヒール。身体の線にぴったりと寄り添ったスーツは、裸よりよほど淫らで穢らわしかった。
ええ。勿論です。お久しぶりですね。
嘘だ。バルナベは誰とも知り合わない。正直に知らないと言って、彼女に自己紹介なんて無駄なことをさせたい為に、彼はさらりと嘘をついたのだった。
リディアという女は、更にナタリーという女、ギャエルという男のもめ事に関して話した。ナタリーがギャエルに暴行をされ、リディアが正義と女性の権利の為に、立ち上がっているとか言う話を。
バルナベは、物語を読むようにその話を聞いた。リディアという女は正義や女性の権利の為に、その二人の仲裁をしているとは思えなかった。だからといって、それを非難する気も起きなかったが。
バルナベが思っていたのは、早く話を切り上げて、ここから去りたいということだけだった。
誰とも知り合わないバルナベにとって、会話は無為だ。会話はその瞬間その瞬間だけのもので、焚かれては消えるカメラのフラッシュのようなものだった。多少の残像は瞼の裏に残るだろうが、それもいずれゆっくりと消えていく。
バルナベは息苦しさを覚える。窓を開けたり、閉めたりして、結局は窓枠から窓ガラスを取り外した。窓枠の上をスライドする窓ガラスは、真空パックのチャックとよく似ていたから。
植物の祖母に別れを告げて病院を出ると、バルナベはその足で探偵社へ向かった。探偵社は古い雑居ビルの二階にあって、探偵はそこに虫と埃と同居していた。
本日はどうされましたかな?
探偵は口髭を人差し指と親指で摘んでしごく。
とある女と男の素行を調査し、報告して欲しい。
その方々とあなたとの関係は?
他人だ。
探偵は、顔を顰めた。
それはいけませんな。私の仕事はあまり立派なものとは言い難いかもしれないが、それでも他人のプライバシーを侵害するようなものでは……。
必要経費プラス、報酬は倍額払おう。
何事にも例外はあるものです。全て私にお任せ下さい。
バルナベはナタリーという女とギャエルという男だ、ということを告げて探偵社を後にした。なぜ自分が大金をはたいて、その女の素行を調べたいのかはわからなかった。もしかしたら物語の続きを読みたいだけなのかもしれなかった。
バルナベは誰とも知り合わない。世界をただ眺めて、想像する。
D2.
本当のことを話して欲しい。
弁護士や親や周囲は、ギャエルにそう訊ねた。なぜ俺が嘘をついている前提で会話を進めるんだ。俺はいつだって本当のことを言っている、俺にとって本当のことを。
ギャエルとナタリーは一緒に食事をして、そこから先はそれぞれの家に帰った。タクシー、または徒歩、もしくは地下鉄で。
家に帰るなんて行為は毎日行っていることだし、わざわざ意識的に覚えてたりはしない。ましてその日は「特別な日」なんかではなかったのだから。
ギャエルはウイスキーのパイント瓶と質素な夕食の並んだ食卓の前で、あの日のことを思い出す。記憶を少しずつ、改竄しながら。
第一、あの女は俺のことを誘っていたんじゃないだろうか? あのぞくぞくするような流し目、良い薫りの首筋、滑らかな触り心地の衣のような肌。
あんなに魅力的な女なんだ。手を出されないと考える方がどうかしているよな。
待て、聡明なるギャエルよ。ではなぜあの女は俺を訴えている? そうか。そうだったのか。セックスの後に、俺から一切の連絡がなかったからか。腹いせか。そうか。モテない女のつまらない意地か。
くそったれ。あのくそあまめ。そんなものに付き合わされて、俺の人生を台無しにされてたまるか。第一、俺はセックスの後にも謝ったんだ。なんか、悪かったな、って。謝ったのに。しかもあいつも悪いのに。俺は悪くないのに。いつまでもねちっこく、しつこいくそったれ女め。
ギャエルの正常な思考は圧し折られ、彼の精神を蝕む病いによって創造し直される。歪んでいて、醜く、それでも過失が作り出した心の穴に隙間なくはまる形状に。
狂人の主観。その二つの目は見ているようで、何も見ていない。その脳は考えているようで、何も考えていない。外見が人間とよく似ているからといって、その怪物が我々と同じ機能を備えていると考える事の方が、間違いなのかもしれなかった。
どうされましたか?
上流階級の人々が集まる、社交界。ひとりでぶつぶつと何かを呟くギャエルに、彼はおそるおそる声をかけた。
ああ、いえ。どうもしません。ただ最近、つまらない女にわけのわからない、莫迦ないいがかりをつけられているもので。
それはそれは、さぞお困りでしょうね。世の中には少し頭のずれた人間というのが、存在しますからな。
そう。そうなんですよ。全くその通りなのです。本当に、困った人間が世の中にはいるものです……。
ぐいと手にしたシャンパンを干し、ギャエルは笑う。ほらな、ほら見てみろ、と。上流階級に属する立派な紳士が、俺の肩を持っている。間違っているのは、あの醜くしつこい勘違い女の方だ!
音楽が流れ、彼は上流階級の人々の仲間入りをしている。こんな上品な場にいる自分が、こんな素晴らしい人々と付き合っている羨望の的たる俺が、強姦魔だと? あんな神経質そうで、誰からも嫌われ、相手にもされていない女相手の?
彼の正気は一段飛ばしで、狂気への階段を駆け上った。ギャエルは笑い、踊り、世界を手にしたような気分になる。
そう、神はご存知だ。全てを。全ての真実をご存知だ!
そう思った瞬間に、彼の狂気は一度足止めを食らった。
「神は全ての真実をご存知だ」?
背筋が凍り、先ほどまでの高揚感は一瞬で消え去った。そう、神は全てをご存知だ。ギャエルの部屋のベッドのシーツの裏側から、あの夜のナタリーの悲惨な泣き声まで。
しかし彼の信仰心は、再びアルコールに因って掻き消された。
ぐいぐいと喉に押し込まれた酒は、蛮勇を引き起こす。彼はナタリーの細い喉を思い出して、今夜も騙してホテルに連れて来た女を抱く。くそったれ、くそったれ。俺は悪くない。そう呟きながら。
A3.
調査報告。
女性の方は、そう、ナタリーさん。彼女はほとんど家から出ませんね。外出するとしてもセラピストの診療所に通う時や、食料を買い込む時だけで、週に一度、あるかないか程度。
彼女は精神疾患を患っており……いえ、酷くなったのはここ半年ほどだそうですがね。セラピーにはもっと以前から通っていたようです。いわゆる、潔癖性というやつでしょうね。外出時もずっと手袋やマスクをしていましたし、つり革や手すりにも捕まる気配はなかったですから。
来客はほぼ、ゼロ。あ、ただ、これも週に一度、三十分ほどですが、派手な見た目の女と堅実そうで仕立ての良い上等なスーツを着た男が彼女の家を訪ねてきていました。
女はナタリーさんの友人だと思いますね。大学が同じようです。男の方は、弁護士です。結構腕が立つと評判の弁護士で、確か弁護士料は結構高額だったと思いますが……彼女に払えるんでしょうかね。
探偵はそこで一旦報告を辞め、煙草に火をつけた。煙草の先端の火種からは嫌な匂いの煙があがったが、それは煙草の葉ではなく燃焼促進剤やその他の不純物の燃える匂いだろうとバルナベは推測する。人にはそれぞれ、不愉快に感じるものがあるし、楽しく感じるものもある。それが依存症と中毒症状に因って作り出された、紛う事無き純然たる幻覚だとしても。人々は結局、主観から抜け出すことは出来ないのだ。
探偵は嫌な煙を口や鼻から噴出しながら、調査報告を続けた。
さて、次は男性の方ですね。ええと、そうだ。そうそう。ギャエル、ギャエル・デルヴェッキオ氏。彼もナタリーさんやナタリーさん宅に出入りしている女性も、皆さん同じ大学の同期のようですね。
デルヴェッキオ氏の私生活は、ナタリーさんとは大違いですね。とても派手なものだ。非常に社交的で、知人も多いようです。
ですが、デルヴェッキオ氏の昔からの知人のお話によりますと、少し事情が違うようでしてね。多くの人が口を揃えて、彼は嘘つきだ、と言っていましたよ。
泥棒、というところまではいかないにしても、お金のやり取りで大分揉めているようでしたね。ビジネスの話を持ちかけられ、当初の甘い言葉に乗っかった結果、最後にはお金もめざましい結果も生まないといったような話がやまほど出てきましたよ。
いやまあ、なんといっても口約束ですから、立件まではされないでしょうがね。詐欺師すれすれの男と言っても良いでしょう。
あと、彼は週に何度か、不特定多数の女性と関係を持っていました。全く羨ましい限りです。なぜ、あんな男がモテるのか。まぁ、仕事と同じく、あの手この手で女たちを騙してものにしているんでしょうがね。
彼らの細かい一ヶ月の調査報告を書いた報告書が、こちらです。のちほどゆっくりご覧になってください。
それでですね……。
探偵は少しぎこちなく、調査報告書の上に請求書を乗せた。バルナベはそれを一瞥して、どちらも自分の傍に引き寄せる。
その額は割に高額だったが、想像していたよりは目に痛くなかった。勿論、祖母の意識がはっきりしていれば、耳から火が出そうなほどに怒ったであろう金額ではあったのだが。
C3.
勝利。純然たる勝利。混ぜ物のない高純度の勝利は、どんな幻覚剤よりも深い陶酔を齎してくれる。甘く筋肉質な美男子の、この世のものとは思えないサイズのペニスよりも。
リディアは真っ赤な唇を歪めて、窓の外を眺めている。四角い額縁から見る世界は、ハーグ派が描いた絵画のように色彩に乏しい。それでもそれは、リディアにとって勝利の景色だった。
ギャエルの敗訴。あいつは高額な慰謝料を払うか、刑務所にぶちこまれるかのどちらかだ。ざまあみろ。
リディアは興奮で乾いた唇を、赤ワインで湿らせた。そうして思い出す。昔の自分のことを。
大学時代のリディアは、とても太っていて醜かった。それでも純粋で朴訥で、自分では可憐な乙女だと思っていた。
他人から笑われることには慣れていたが、自分の世界はあった。リディアはいつか、自分を救ってくれる優しい王子様が現れることを期待していた。
王子は予期せず現れた。ギャエル・デルヴェッキオ。女子生徒からそれなりに人気で、すらりと背が高く、強気な目つきも当時のリディアには高貴に思えた。
そこからリディアは必死になってダイエットをした。化粧の仕方も覚えたし、様々な下らない男たちとも一夜を共にして、ベッドでの嗜みも覚えた。
なのに、ギャエル・デルヴェッキオときたら。あんなガリガリの拒食症女に手を出すなんて。リディアはギャエルを愛しているつもりではいたが、浮気者には制裁が必要だとも考えていた。
金がなくなれば、彼に寄り付く売女たちも手を引くだろう。もし金を手放さなくても、刑務所の中には女はいない。
リディアは細巻き煙草に火をつけて、鼻歌を歌う。
私だったら、いつまでだって待っていてあげられるわ。あなたがそのばかな頭を冷やすまでね。
リディアは浮き出たナタリーのあばら骨とよく似た、秋の鱗雲の隣に、自分とギャエルが並んで歩く姿を思い描く。白の絵の具でところどころ、上塗りされたような空。
その頭の中には。ナタリーの今後も、女性の権利もない。愛だと思い違いしている野心だけが、赤い唇を歪ませて舌舐めずりしていた。
美しく優しい女神のような私だけが、ギャエルの隣に似合うわ。
B3.
裁判には勝った。それでもその勝利に辿り着くまでは、暴行されるに至った微細なあれやこれを、細を穿って根掘り葉掘り訊かれた。多くの人達に。
ナタリーの潔癖性は更に酷くなって、今では家から出ることすら難しくなってきていた。
裁判に必要だったとはいえ、何度も何度も苦しみを思い返すことは、傷を悪戯に触ることと同じだった。
瘡蓋にする為には、傷は放っておかなければならないというのに。
一度不潔だ、と感じるとパニックになってしまう。そうしてそこから手があかぎれるまで、只管に洗ってしまうのだ。
お金は手に入るだろう。高額な弁護士料を差し引いた、慰謝料。だが、だからといって、それが何だというのだろう。その慰謝料で、潔癖性を治せるわけでもないというのに。ナタリーは、小さく溜め息をつく。
私は全てを支払った。全てを支払って、何を手に入れたの?
一瞬その場に相応しく見えて、その実とてもちぐはぐに思える選択たち。昼と夜で酷い気温差がある季節の、洋服選びのように。
ギャエルは反省してくれただろうか。もう二度と誰かを傷つけるようなことはしない、と誓ってくれただろうか。
食器の汚れが落ちない。ナタリーはざあざあと沢山の水と洗剤を消費する。それは少しずつ地球を蝕んでいくかもしれないが、けれど汚れた食器で食事するわけにはいかない。
吐き気がナタリーを襲う。利己的で神経質な自分と、スプーンにこびりついた食べ物だったものの所為で。
ギャエルは反省などしないだろう。忌々しい、と思っていることだろうとナタリーは思う。盗人にも三分の理と言う。人はみな、自分を正しいと信じているのだ。
それを信じられなくなった人間は、ひたすらに手を洗ったり、眠る為に大量の向精神薬を飲むはめになったりする。
人は両目という主観の窓以外から、現実を見ることは出来ないのだから。
裁判所でのギャエルのナタリーを見たあの目つき。強い力で捕まえられた手首が、ずきずきと痛んだ。正義も恐怖や記憶までは消してくれない。ならば、何の為に正義はあるのだろう。正義は一体、誰の為に施行されるのだろう。
どちらにせよ、尊大な正義はナタリーの慎ましい部屋までは訪ねてきてはくれなかった。
世の中の道理を通し、秩序を守るのが私の役目。ご自分のことはご自分で処理なさってください、というわけだ。
ナタリーは遮光カーテンをひき、その端に少しだけ体重を預ける。眼球は斜め下を眺めて、顔の下半分が痺れるのを感じる。
私は惨めで、孤独だけれど、それでも尊厳だけは守ったわ。
呼吸を整える為に書きもの机に向かって、ノートを開く。お気に入りのペンを一度アルコール消毒してから、ナタリーはその小さな手でぎゅっと握った。
白い紙に数式と証明を、細かく書いていく。数学は清潔だ。矛盾も歪みもなく、無音で無機質で正確な世界。ナタリーはそこに美しさと安堵感を覚える。
ナタリーはなるべく均一で列が歪まないよう、一文字ずつゆっくりと紙にインクを染み込ませる。整列した数字の中のひとつに、自分がなったような気持ちで。
E1.
若い恋人はその柔らかい膝の上に乗せたウスターシュ教授の、白髪まじりの髪の毛に細い指をいれる。ネイルをした爪が、頭皮をかりかりと甘えるように掻く。
彼女がその可憐な声で話す会話は、古女房のものとは百八十度違う。
古女房も昔は、可憐だった。しかし時間という悪魔が、彼女から若さと素晴らしさ、羽のような軽さを奪っていった。
今日、サンダル業者が、お金を返しにきたの。
食器を洗う音を響かせながら、古女房は言う。
え? なんだって? 水の音が五月蝿くて、聞こえない。
今日、サンダル業者がお金を返しにきた。
ああ、昔お前がサンダルを買ってたあの男か。金なんか貸していたのか?
大昔に少しだけね。ずーっと昔に貸したお金を返しにきてくれたの。
なんだって、今更?
会社が倒産するんだそうよ。だから返せなくなる前に、って言ってたわ。
古女房と暮らす灰色の家。若い時と違って、二人には金銭的余裕も、時間が足りないほどの仕事もあった。若い時に二人で手をとりあって夢みた、そのほとんどが彼らの手の中にあった。若さと、愛以外は。
そうか。世知辛いな。
良い人だったのよ。とてもよく笑う、快活で良い人だったの。
ウスターシュ教授は古女房の方を振り向くが、そこからでは彼女の表情までは見ることが出来ない。
見る影もなくて。痩せ細ってしまってね。無いお金をやりくりして、なんとかお金を返しにきてくれたの。
古女房が蛇口をひねって、また水がシンクに当たる音が再開される。辛気くさい話を辛気くさい声で話す。いつから女房はこんな女になったのだろう、と教授はうんざりとする。
教授は読んでいる本に集中しよう、と文字に目を落とす。その白い行間で、古女房が小さく呟く声が聞こえた気がした。
優しくて良い人なだけじゃ、駄目なのかしらね。
教授は、聞こえていないフリをする。
若い恋人は、古女房とは全く違う声で教授に話す。倒産したサンダル業者の話などせずに。
彼女が今日話してくれたのは、友人のリディアという女性の話だった。好きな男が浮気をして、それを罰した話。可愛い恋人は、リディアのことを「見栄っ張りで馬鹿な女」と言ったが、同時に「大切な友達」でもあるらしい。
その話は先日、道でばったり逢った元生徒から訊いた話と似ていた。彼は昔はきさくでほがらかな青年だったとウスターシュは記憶していたが、少し逢わない間に陰鬱で物静かな男へと変貌を遂げていた。
その男、バルナベが話したのは、バルナベの大学の ―つまりはウスターシュの職場の― 同期の男女の諍いだった。かたや潔癖性になった女と、かたや裁判で多額の慰謝料を払わされた男の物語。
探偵を雇ったんです。二人の気持ちを理解したくて。
バルナベはウスターシュの革靴に向かって、そう呟いた。この生徒はこんなにも薄気味悪い男だっただろうか。ウスターシュは、なんと答えて良いかわからず、好奇心は勉学の種子だからな、と教師らしいことを呟いた。
僕は誰とも知り合いませんが、それでも誰かと繫がっていたいのです。誰かを理解することによって。
バルナベの小さな声は、ウスターシュの鼓膜にこびりついていた。大きな衝撃音を聞いたあとの耳鳴りのように。
若い恋人は笑いながら、見栄っ張りで馬鹿な友人の話の顛末を話し終えた。
自分の恋敵に口紅を送るなんて、ロマンチストにもほどがあるわよね。気障すぎて、あたし笑っちゃった。
空想に要する経費だよ。
ウスターシュは独り言の音量で呟く。恋人が、え、と聞き返す。
「人は主観の窓越しにしか、現実を見られない。だから自分で自分の世界を構築するんだ。空想によってね。そうして自分の世界を作る空想をする為には、現実を少しだけ捩じ曲げる必要があるということだ。人々はその為の経費を必死に稼ぎ、使い込むんだ。無駄なことだと知りながら」
よくわからないわ。でも難しいことを仰ってる先生は、セクシーで好きよ。
恋人は笑ってウスターシュの内股を、その彩り豊かな爪で優しく引っ掻く。ウスターシュは自分の欲望が、風の強い夜の蝋燭の炎のように揺らめくのを感じる。
妻と別れる為の裁判費用、慰謝料、引っ越し代。様々な現実が、ウスターシュの揺らめく欲望の裏で、出番を待っている。
ウスターシュもいずれは、支払う事になるだろう。自分はまだ老いていない、自分の人生はまだ輝かしく、若く美しい女と楽しむことが出来る、という空想を維持するのに要する経費を。
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