三日後にメゾンマルジェラの五十丁目から五十七丁目にかけて、コーヒーを飲みます。それだけです。
ミアは家の中でも、職場のショッピングモールの中でも傘を差している。彼女が幼い少女だった頃に父親から、お前は湿っぽすぎる、と言われたせいで。
チェック柄のネルシャツ、白の丸首ティー、コーデュロイパンツ。ミアはファッションというものと無関係だ。服は裸を他人に見せないようにする為と、体温調節の為だけに箪笥に仕舞われる。
ファッションに無頓着なこととの相互関係はまだ明確にはなっていないが、ミアは化粧もあまりしない。皮膚呼吸は凄く大切で、ファンデーションはその邪魔をする、とミアは言ったが、それが本心かどうかは誰にもわからない。
ハルが日常的に女装していることを、ミアはウィリアムからきいた。といっても、ハルは性同一性障害というわけでも、女装癖があるというわけでもない。抗鬱剤や精神安定剤の飲み過ぎが原因のようだと、ウィリアムは頭を抱えている。
顔を白く塗って、唇よりも大きく赤い口紅を塗ったハルは、ストッキングを履いて街中を走りまわる。奇声をあげて。
最近は宇宙と交信をしてると言ってるよ。
ウィリアムは疲れた顔で、電子煙草の煙をぷしゅうと吐き出す。その煙からは人糞の匂いがしたが、ミアは顔を顰《しか》めるのを我慢した。ミアが寝たきりの老婆になり糞尿を垂れ流すようになった時にも、誰にも顔を顰《しか》めて貰いたくないから。
ミアは最近は薬は飲み過ぎてないか?
ウィリアムの質問にミアはジンの瓶を持ち上げて、おどけた表情をする。あたしの精神安定剤は、これ。
家の中では、傘たたんでいいんじゃないか?
天気予報ってあてにならないのよ。
でも、家の中で雨が降るってこともないだろ。
ウィリアム、あんたにとってはね。
ウィリアムはまたぐったりと項垂れて、電子煙草の煙を吐き出す。
あたしもあんたの酷い匂いに耐えてるのに、あんたってばハルの女装とかあたしの傘が我慢出来ないのよ。
ミアはウィリアムを非難の目で見つめる。ウィリアムは、匂い? と訝しげな顔をして自分の肩あたりをくんくんと嗅ぐ。
みんな、他人の人生を生きている。ミアは思う。自分のことよりも他人のことのほうがよく見えて、よく見える分だけ気になってしまうから。他人へのアドヴァイスと意見でぱつんぱつんになって、電子煙草の人糞じみた煙の匂いにも気付かないのだ。
ミアの父親もそうだった。ミアの父親はミアと母親をよく殴った。ミアが湿っぽいから。そして母親は若い時は天国のような美人だったが、父に恋をしてからは苦労と虐待が刻み込まれた皺を抱える、哀しく痩せ細った女になったから。ミアの母親は神経症気味で、ミアやミアの友人たちにとても優しかったり、急に怒鳴りつけたりした。
あら、いらっしゃい。いつもミアと仲良くしてくれてありがとう。
それから、とっとと早くみんな出て行きなさい。早く!
ぼさぼさの髪の毛を振り乱しながら、表情が見えないほど顔をぶるぶると震わせて、母親は怒鳴った。友達は薄気味悪そうにドアから走り去り、ミアは母親を哀れに思う。可哀想なお母さん。
母親の顔がぶるぶると高速で左右に揺れる。
出て行きなさい、さっさと全員出て行きなさいよ!
身体は汚れた食器を片付けたり、テーブルクロスを整えたりしているのに、首から上だけがぶるぶると震えているのだ。
ミアの父親は商社マンだった。お酒も飲まなかったし、金銭的にも余裕があった。けれど性格はとても冷徹で、ミアにも母親にも完璧を求めた。少しでも場の空気を壊したり、そこにそぐわない発言や行動をすれば容赦なく殴られた。つまり、お父さんが帰って来たというような陽気にしなければいけない場面で、湿っぽい顔をしてしまったりすると。
ハルは病気の祖母と二人暮らしをしている。ハルは祖母の面倒を見ていて、でもハルも病気だから、お互い面倒を見合っていると言った方が正しいかもしれない。どうやってうまくやっているのか、ハルと祖母以外には誰にもわからなかったが、二人はどうにかうまくやっていた。祖母も老いから来る痴呆症が進行していたし、だからハルの奇行も気にならなかったのかもしれない。
時々この二人の将来を勝手に想像して周囲の誰もが暗い気持ちになっていたが、ハルは笑顔だったし、ミアはウィリアムのように他人の人生を生きるつもりはなかったから、心配することも首を突っ込むこともない。ただ、事実が事実のまま、そこに存在するだけだ。
ミアが酷く重い恋をしたのは、二十七歳の秋だった。少し寒くなってきた十月の半ばに、エリヤはミアの働くショッピングモールの雨具専門店を訪れたのだ。
すみません、レインブーツってどこに置いてありますか?
ミアがレインブーツのコーナーまで連れて行ったところで、エリヤはミアの傘を褒めた。
ありがとう。ところで、素敵な傘だね。
傘を褒められたからというわけでも、エリヤに性的興奮を覚えたというわけでもないのに、ミアはそれからエリヤのことばかりを思い出すようになった。
ハルはいつもの狂った女装姿。有り得ないほどのスピードを出して、軽自動車を高速道路の上でスライドさせる。運転席で何かを必死に叫びながら。ぐぱあと笑った口からは涎が滴って、身体は前後に揺れている。どこまでも行ける気もするし、どこにも行けない気もする。真っ赤なハイヒールでアクセルペダルを力一杯踏みつけているハルの血走った目を、オービスが記念写真として何度も記録した。
ウィリアムはしけてる。ミアはウィリアムのしけてるところが、好きになれない。あと吸ってる電子煙草の匂いも。けれどそれ以外はミアはウィリアムのことを、それなりに好きだ。
だからミアはエリヤのことを、ウィリアムに相談した。ウィリアムは腕を組んで、実際これは彼が考え事をする時の癖だが、真剣に悩んでくれた。ハルのことを考えるのと同じくらい、シリアスに。
まず、傘をやめたらどう?
エリヤは傘を褒めてくれたのに?
じゃあ、服装だ。その野暮で芋臭いシャツを脱ぐべきだと思うね。
野暮で芋臭くても、暖かいけどね。
ウィリアムに紹介されたメゾンマルジェラは、白く近未来的な建物だ。野暮で芋臭いシャツなど完全に拒絶しているように見えるが、ミアは野暮で芋臭いシャツを着て来てしまっていた。つまり、ミアは目の前の近未来に、完全に、完膚なきまでに顔を背けられていた。
けれど、どんな人にでも初めてはあるのだから。
初めて傘を買った日も、ミアは傘を持っていなかったので、湿っぽかった。水分から身体を守る雨具店が、こんなに湿っぽい女を受け入れてくれるとは最初はとうてい思えなかったが、結果的にミアは傘を買うことが出来た。
そしてミアは今、雨具専門店に勤めて改めて思うのだ。雨具が本当に必要なのは、乾いた人ではなく、湿った人たちなのだ、と。
つまりメゾンマルジェラの素敵な服が必要なのは、メゾンマルジェラと縁がなかった素敵ではない、自分のような人たちなのではないだろうか、とも。
近未来的で、けれどどこか懐かしい、白い木の扉を開くとそこはとても広い広い広い空間だった。広い広い広い空間だった。
広い広い広い空間。
中に入ると前衛的な洋服を纏《まと》った、素敵な女の店員が近寄ってくる。
お客様、お傘はこちらでお預かりします。
いえ、私は湿っぽいので、傘はこのままで大丈夫です。
左様で御座いますか。それは失礼致しました。
いえ、失礼なんて。とても素敵な接客と思います。
本日はどのようなアイテムをお探しでしょうか?
女の店員は長い睫毛を伏せて、しっとりとした口調で話す。ミアは傘を差していて良かった、と思う。こんなに柔らかくしっとりとした声音に触れたら、ただでさえ湿っぽい身体がびしょ濡れになってしまうに違いない。折角の素敵な商品たちを濡らしては申し訳ない。
ミアの母親がエアリアルシルクの映像を、ずっと見ていた時期がある。母親はぼさぼさの髪の毛で、メイクしていない一重の瞼を見開いてその映像をじっと見ていた。ミアがサーカス? と訊ねても彼女は返事を返してくれなかった。
そして次の日、母は真っ白なシーツで首を吊った。
シーツは首だけではなく、身体中に纏わり付いて、それはそれは美しい景色だった。父親は母の自殺を家の恥だと言ったが、ミアには恥かどうかわからなかった。死んだ母は人形のようで、優しかった頃の面影も、友達を怒鳴りつけていた頃の面影もなかった。それは全く知らない他人のようで、けれど見た目だけが、ミアの母だった。
実は私、とても重い恋をしたんです。
なるほど。そうで御座いましたか。
恋から身を守りたいんです。
恋をなさる雨具専門店員様用のお召し物は、五十丁目から五十七丁目にかけて御座います。真っすぐ、二キロほど進んで頂いて、三十丁目の十字路を左に、そこから八つ目の信号を右、少し行きますと全裸のテレフォンカードが数字の四と談笑しております。その隣のはしごを十五秒間昇って頂くと、もうすぐそこで御座います。
言われた通りに進んでいくと、そこには真っ白な、あまりにも真っ白な棚があり、その上にオレンジとピンクの中間色のような色の、ひらひらとした美しい洋服が、ぽつんと一着だけ置いてあった。
数字の四が、はしごの下から、叫ぶ。
男はみんな、金魚のように華麗な女が好きだ!
値札にはミアの月のお給料の半分の額が書いてある。けれど半月分の賃金で、恋が買えると思えば安いものかもしれない。
そうでございますよ。恋はお金には換えられないものですわ!
女の店員の声がして、メゾンマルジェラ、五十丁目から五十七丁目にかけての空に花火があがる。真っ黒な夜空に、様々な色合いの光の線。光から少し遅れてやってくる音。
コーヒーでもお召し上がりになりますか?
女の店員がそう訊いた時、ミアの携帯電話がけたたましく、ミアのことを呼んだ。
電話はウィリアムからだった。通話口から人糞の匂いがして、全裸のテレフォンカードが顔を顰《しか》めた。店員は表情を変えない。見上げたプロ根性。
三日後、金魚のような美しい洋服を着てすっかり垢抜けたミアは、雨具専門店で働きながらエリヤを待っていた。
あの日ハルの身に起きた事を、苦しみからの解放だと捉えればいいのか、それとも悲劇だと捉えるべきなのか、ミアは判断しかねている。
ハルは生き辛そうだった。彼は今どこで何をしているだろう。もう女装はしなくて済んでいるだろうか。宇宙との交信は、もっとスムースになっているだろうか。
ウィリアムはハルの名前を出すだけで、酷く泣くようになった。泣きながらごめん、と謝るけれど、別に謝らなくていいとミアは思う。
ウィリアムはハルに凄く干渉していたけれど、それはハルが大事だったからだ。ハルがいなくなって、ウィリアムは心配事から解放されたのだろうか。それとも、哀しみの持つ尖った爪にその心臓を捕らえられてしまっているのだろうか。
ミアは他人の人生を生きたりしないから、わからない。
エリヤはあれから、店に来ない。彼は雨の日に履くレインブーツを、もう手に入れたから。仕方ないことだった。雨具が必要なのはいつも、乾いている人ではなく、湿っている人なのだ。
恋心が、田舎町の野蛮な夕暮れのような人生の悲劇や、愛しさの引力を保有する恒星に会えない時間によって、消滅するものであったらどんなにいいだろうか。
けれどミアは安心もしている。恋は美しい女を、悲しい女に、そして最後は全くの別人に変えてしまうことを母を通して知っているから。ミアはシーツで宙づりになる未来とは、あまり知り合いたくはなかった。
あと三日働いたら、休日がミアを訪ねてくる。ミアはまたメゾンマルジェラに足を向けるだろう。今度は洋服を買わず、あの日飲みそびれたコーヒーを飲む為に。
人生は、死ぬその日まで続いていくのだ。当たり前のことではあるが。ただ、それだけのことだ。
メゾンマルジェラで買った洋服は、しっとりと湿って、ミアを美しい金魚のように見せている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?