虚数と、尊厳

 兎に角、食事をしにいった。
 父はいつもの職人姿ではなく、貸衣裳屋で借りたスーツを着ていた。父はスーツなんて冠婚葬祭用の黒のものを一着、持っているきりだったから。
 母もいつものぼさぼさ髪ではなく、娘時代のドレスを引っ張りだしてエレガンスに(我々子供たちにとってはそう見えた、というだけだけれど)着飾っている。
 子供たち、つまりクレアとわたしも教会へいく時の格好をしていた。私たちは子供だったから、冠婚葬祭用の服でも、礼を欠くことなくそういった場所に行けるのだ。社交界用のドレスを持っている子供は、本当に、本当に、世界で一握りだから(しかもそういう子供は大概が厭なヤツ)。
 その日は母の誕生日で、ということは父と母の結婚記念日だった。しかも結婚してから十年目の、記念すべき日。
 私は八歳で、クレアは五歳だった。だからその日が何を意味しているのかよくわかっていなかったけれど、父と母がエレガンスで素敵なお陰で特別な日だとわかった。
 
 家を出るとお隣のセニョールねずみも、丁度家から出るところだった。セニョールねずみは父と仲が良く(父はとても有能な職人だったから近所の人たちから一目置かれていた)、その夜もセニョールねずみは父に軽口を叩いた。
 「やけにめかしこんで、何かの授賞式にでも行くのか?」
 父はいつも友人たちに見せる、口をぐいと曲げて目を細める独特の笑い方で、セニョールねずみの冗談に答えた。
 「結婚記念日さ。お前もたまには家族にサービスしたらどうだ」
 「うちのかみさんは、お前のとこの奥方みたいに美しくないからな。ドレスアップなんかしたら、どこにも出掛けられなくなっちまうよ。生ゴミをライトアップするようなもんさ」
 ひとりでがははと笑いながら、セニョールねずみは路地に消えていった。お酒を飲むか、博打をうちにいくのだろう。
 もう少し進むと、どこかで猫の喧嘩する声が聞こえて、月が雲の中に隠れた。私たちのいる路地が薄暗くなって、母は道のでこぼこに躓いた。
 父が転びそうになった母の肩を抱く。その逞しく、頼りがいのある太い腕で。
 母はすみません、と父に謝った。父は気をつけろと忠告をする。大黒柱然とした厳しさと優しさを持ち合わせた、父親だけが出せる声色。
 父は厳しい人だった。私たち家族は貧民街に住んではいたけれど、魂だけは貧しくなってはいけない、と常々厳しく教育されてきた。
 世の中には貧しすぎて、学校にいけない人たちもいる。その人たちは、文字も読めなければ、簡単な数学も出来ない。だから学校での勉強を大切にするんだ。父はよくそう言った。だから私は学校は好きな場所だったけれど、嫌いな場所でもあった。
 学校は社会の縮図であり、ぼろぼろの服を着ている子と、綺麗な服を着ている子の間には深い隔たりがあった。勉強が出来る子と、出来ない子の間にも。私はそれを常々不平等で無礼だと感じていたから。
 けれど教科書は最高だった。いつも新しいことが書いてあって、それは物語の中の賢者が握りしめている厚みのある聖典のように見えた。
 数の成り立ち、様々な物語群、大昔の人々のこと、この世界の秘密。下手な教師の教え方はそれらを台無しにもしたが、それでも教科書を読むことは好きだった。
 授業で習うことよりも、学校が終わってからこっそり秘密基地で教科書を読む方が楽しかった。
 良い点をとることにも、誰かと競争することにも、邪魔されずに本を読みたかった。
 私は生まれた時から貧困と追いかけっこをしているけれど、それでもそういったものに邪魔されずに純粋に知的欲求を満たす快感や、世界の成り立ちの美しさ、完璧さにうっとりと陶酔する権利を欲した。

 少し歩くと、いつものぼろぼろの掘建て小屋みたいな家々が立ち並ぶエリアを抜けて、綺麗できらきら輝く街が見えて来た。
 クレアはまだ幼いから電球の光にはしゃぐ。きゃあきゃあと声をあげて。私は父の顔を見た。父は真っすぐ街を見つめて、真面目な顔つきをしている。母は微笑んで、クレアに綺麗ねえと語りかけていた。
 特別な夜なのに、私の心はざわついていた。私は自分の家が貧しいことを知っている。父は優秀な職人だけれど、残念ながら世界は不公平で不均等で、歪んでいた。
 その歪みは太陽系外縁天体の公転軌道のようで、なぜ歪んでいるのか理由はまだ明確になっていないが、確かに歪んでしまっているのだ。
 だから、私の家は貧しい。正直者が馬鹿を見る世界だ、とお隣のセニョールねずみは以前、ぼやいていた。
 「あんたんとこの親父さんなんて本当はもっとお金持ちになって良い、とっても立派な人だ」
 「世界は歪んでなどいない。お前が学んでいるように、完璧に美しく調和されているよ」
 父は私にそう言った。世の中にはお金持ちもいれば、そうじゃない人もいる。それだけのことで、お金が全てじゃないんだ、と。
 私もその時はそうだそうだ、と思ったが、今はその時のことを後悔している。いかにエレガンスな服を着ても、立派な中身の人間であっても、財布の中身がそれに合わせて増えるわけではないのだから。
 私には街の輝く光たちが、それを見ているだけで料金を請求してくる怖い道化師に見えて来た。だから私はクレアの両目を手で覆って隠す。
 クレアが大騒ぎをして、母があらあら、となだめる。
 「クレアはまだ小さいのだから、きらきらしたものが見たいの。意地悪をしないであげて」
 私は母になぜクレアの両目を覆ったのか、説明出来なかった。私は父を惨めにはしたくなかったのだ
 夜の地面は真っ暗で濡れているようだ。こつこつと歩く足音が、いつもと違って更に憂鬱を加速させる。クレアは母と歌を歌っている。
 
 エレガンスさは無いけれど、安物のフランネルシャツは使い勝手が良い。くたくたのそれは、柔らかく私の肩や腰回りを包んでくれる。どんな姿勢で本を読んでも、フランネルシャツは対応してくれるのだ。
 秘密基地のある斜面を下った先にある畑で、こっそり盗んで来た野菜をフランネルシャツでごしごし擦ってから齧った。野菜は中にたっぷり汁を含んでいて、青空とぴったりの味がする。教科書を開いて、土の上で座って読む。
 豪華ではないけれど、居心地が良い小さな秘密基地に、フランネルシャツはとても相応しかった。毛玉だらけなところも、生地がところどころ薄くなっていて北風が拭くと少し寒いところも。
 私もフランネルシャツも誇らしかった。盗んだ野菜も教科書も秘密基地も、みんなみんな胸を張っていた。自分のありのままの価値を誇って、輝く世界に顔をあげて笑っていた。あのマネキンの家族のテレビドラマみたいに。
 今の私はあのフランネルシャツのグーゴルプレックス倍も美しい服を着ているのに、なぜこんなに胸はどきどきして盗人や悪党たちのように顔を地面に向けているのだろう。
 後ろめたさと惨めさ。後悔。私には優雅さよりも貧困が似合っているという象徴的なメッセージなのだろうか。そう思うと心臓は更にどきどきして、今にも爆発しそうになってきた。
 私もセニョールねずみのような人と結婚して(セニョールねずみは良い人だけれど、結婚相手には向いていない)、ドレスアップすることを禁じられるだろうか(ぼろぼろのフランネルシャツの方が、お前にはお似合いだ!とか言われて)。

 光り輝く人工恒星の群れを抜けて、レストランに入ると、ウエイターが席まで案内してくれた。ウエイターは横目で父の磨かれていない革靴(靴まで借りるお金がなかったのだろう)や、母の古すぎるブローチ(レトロというよりは、骨董品に近い)を盗み見ていた。
 私はその目つきを見て、卑しい男だと思った。そうしてこの店は大きな街の美しい一等地に建ってはいるけれど、三流の店だとも。
 私は一流の店になんて行ったことがないけれど、それでもわかる。一流の店のウエイターはお客の服装を盗み見たり、それを小馬鹿にした顔を見せたりはしない筈だ。どんなお客にもかしずき、礼を欠かず、そうしてそれがウエイターとしての誇りと威厳を守る唯一の方法だと心得ている筈だ。
 私はフランネルシャツの誇りを胸に、少しだけ尊大な歩き方をした。ウエイターにこれ以上舐めさせるわけにはいかなかったし、下賎な男の目線に怯むわけにもいかなかった。
 父と母は、いつもより緊張しているように見えた。ぎくしゃくとロボのような動きで、下賎なウエイターに愛想笑いをしている父は私の知っている父ではなかった。
 私は悲しかった。クレアはきょろきょろと店内を見回していた。子供が私たち以外にひとりもいなかったことが珍しく、少しだけ不安だったのかもしれない。
 「安心して。この店って三流よ。ウエイターが下品なんだから」
 私はクレアに耳打ちした。クレアはくすぐったがって、きゃっきゃっと笑って身体をくねらせる。母は小さな声でしっと私たちを嗜めた。
 一流の店は子供たちの声にも寛容な筈。だからこれはお店のランクを確かめる最善の方法なのよ、と私は母に目で訴えた。だって子供が騒ぐのなんて、風が吹けば木々が揺れるのと同じくらい自然で仕方の無いことなのだから。
 優美さの正体は、全てをコントロールしようとする人の厳しさではなく、全てをありのままにしておく神のような寛容さであるべきだわ。
 
 「ほら、こぼしてるわ。気をつけて」
 母の声はいつも食卓のテーブルの上を滑るように、私たちの元へと届く。父はいつも職人着で黙々とパンをむしっている。
 クレアが机に落ちたスパゲッティを指でつまんで、口に放り込む。猫の虚数がクレアが床に落としたご馳走を口にくわえて、たーっとどこかへ逃げていった。虚数は一応飼い猫という『てい』ではあるが、ほぼ野良猫で家には食事の時と寒い夜しか戻ってこない。だから「存在しない数」と同じ名前を父がつけた。
 遠くからセニョールねずみと奥さんの言い争う声。
 またか、と父が笑って、母は大丈夫かしら、とセニョールねずみの家の方を見遣る。
 「どうせまたねずみの博打か酒か女の問題さ」
 父は愉快そうに笑って、スープをずずと啜る。頭の中にある悪友の悪戯する姿を、慣れ親しんだ懐かしい玩具を見つめるような目で見つめて。
 虚数は汚らしい猫だったし、いつも鼻水や目ヤニをくっつけて鋭い目つきをしている。その姿は私たちの生活そのものとよく似ていた。私たちは不衛生でいつも餌を得る為に必死に生きていたから。
 私たちは貧しかった。家はすきま風が吹き込んできたし、食事は質素なものばかりだった。服は何年も同じ物を着すぎてぼろぼろで、私は小さな秘密基地を持つ小さな盗賊だった。
 けれど、私たちは平気だった。虚数も私たち家族も、幸福だった。
 虚数の正体は、『i』だから。アイ。自分。虚数や私たちはぼろぼろの寝床と餌、それから自由と自分を持っていた。それ以外のものは何ひとつ持っていなかったけれど、それだけはしっかりとそのぼろぼろの肉球で掴んでいたのだ。
 だから私は学校で存在しないみたいに扱われても、全然平気だった。だって私は虚数なのだから。自分を持っているし、他の人より少しだけ奇妙で、存在しないように扱われる存在。
 逆に私は他の人たちを虚数の仲間になんてしないように、きちんと挨拶をした。彼や彼女たちは、虚数ではない。世界のルールに従って、ありきたりで普遍的な大衆的苛めに興じる自然数だ。
 おはよう!
 何度無視されても、私は自然数たちに挨拶をした。私はとても誇り高く、そしてとても貧しい虚数だった。
 
 これは比喩として正しくないかもしれないけれど、八歳の私にはそういう比喩しか思いつかないから思いついたままに書かせてもらう。
 高級レストラン(でも三流)の食事は、なんだかぼやけた味だった。眠い時に読む、難しい本のように。
 それはつまり八歳の私には、まだ読むのが早い本だったということかもしれないし、その本がつまらない本だったということかもしれない。正解は私が大人になってもう一度、このぼやけた料理を食べてみるまでわからない。
 周囲の酔っぱらいたちは、大きな声で何かを叫んでいる。文字に変換すると、みみずののたくったような言葉で。
 白髪と太い眉毛を持った会長と呼ばれるおじさんが怒鳴ると、隣の髪を短く刈り込んで斜めに座った男が虎の張り子のように首をぐいんぐいんと上下に揺らした。
 そう、そうです! 全くもってその通り!
 クレアは首をぐいんぐいんと上下に揺らして、虎の張り子男の真似をして笑っている。
 ちょう、ちょのとおり!
 太眉会長はふんぞりかえって、みみずののたくった言葉を口からずるずると零している。それは呪詛にもジュレにも似ていて、会長の胸元をびっちょりと濡らしているが、虎の張り子も会長も気にせずお酒を大量に摂取して同じ瞬間を永遠に繰り返す。
 お金持ちって、あんななの? イメージと随分違う。
 母は微笑みながら、料理の感想を言う。父は眉毛を持ち上げて、『俺にはよくわからん』の合図。
 父はこの合図を時々する。父の妹のソフィア叔母さんが家にきて旦那さんの悪口を言う時や、ギャンブル好きな同僚に競馬の話を散々された話をした後に。
 私にはその合図が、なんだかとても懐かしく思えて、一刻も早く家に帰りたくなる。虚数とフランネルシャツ、私たちの誇り高い貧しさが待つ我が家へ。
 ワインで陽気になった母、少し頬を赤くしている父。酔漢たちの騒ぎ声。うんざりした顔のウエイター。どこかで誰かが吸っている葉巻の、独特で鼻につく厭な匂い。
 思い出の場面たちはいつも断片的に、キャプチャーとして脳の中に整列している。ひとつながりの映像になることは二度とないけれど、それでも断片たちは私たちの脳が駄目になるまでばらばらになることはない。
 気がつけばもうコースは終わり、父と母は食後のコーヒーを飲んでいて、クレアはうとうとと眠りの街への船を漕ぎ出している。
 私はほっとして、同時に新たな恐怖に肌を粟立たせる。食事が終わったということは、会計が迫っている証拠だ。レジ。あの恐ろしいレジスター。最後の審判のように情け容赦のない数字の並びを、父の目前に突きつける。私たちの頼れる、有能な職人である大黒柱の前に。
 私にはレジスターが最高裁判官の座る、標高の高い椅子と机に見える。それは私たちの前に断崖絶壁のように立ちはだかり、請求する目の眩むような料金を支払う能力が私たちにあるのかを見極めようとしている。
 父がウエイターと目を合わせると、ウエイターが伝票ホルダーを持って来た。机の上に、それを乗せる。ウエイターがちらっと父の肩あたりを見遣る。失礼で不躾な視線。私が大人だったら、怒鳴って殴りつけてやるのに。
 父は二つ折りの伝票ホルダーを開いて、それから母に何かを耳打ちする。母は頷いて、私に声をかけながらクレアを抱きかかえる。
 「さぁ、上着を着て。帰る用意をするのよ」
 母に抱えられたクレア、クレアを抱えた母、そして私の三人は、恐ろしいレジスターの横を静かにすり抜けて、レストランの外へと出た。母はすたすたとクレアを抱えて星空の下を歩いていく。
 「お父さんは? まだ来てないよ」
 「お金を払って、後からいらっしゃるわ」
 空にはオリオン座と冬の大三角形が瞬いて、地上では人工恒星たちがその日のお役目を終えて一個ずつ消えていっていた。
 父は大丈夫なのだろうか、と振り向くと扉の向こうで父が頭を下げているのが見えた気がした。
 けれど私はもうレストランから遠く離れていたから、本当にそうだったのかはわからない。母に訊ねようと振り向くと、母は星空を見上げて笑っていた。
 「ねえ、ほら見て。綺麗よ。星空って本当に素敵ね」
 私はその少女に戻ったような横顔に母が誕生日だったことを思い出し、父のことはもう訊ねないでおこうと思った。私たちは貧しく、しかし貧しさの中でも誇り高く、そうしてお互いのことをを愛し合っていた。
 冷たい夜風があのレストランのむっとしたアルコールや葉巻の薫り、そしてレジスターの恐ろしさを吹き流してくれるような気がする。
 惨めさや無礼な視線がどんなに私たちを笑おうと、星空の美しさを私たちから奪うことはできなかった。
 私は明日の朝、汚れた職人着でセニョールねずみとでかけていく父の姿を想像する。私たちの頼れる、有能な職人。父の尊厳に満ちたその大きな背中を。


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