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ラザーニャ・アル・フォルノは美味しい

玻璃は春琴を見つめる。
愚かなあなた、というわけだ。

それで? 仕事をして稼いで
それからそのお金でどうするの?

どうもしないさ。
金は安心を買うために存在してる。

今日はふたりきりだ。
バルコニーには波音と午后の
美しい日差しが勝手に攀じ登ってきていて
春琴と玻璃の目を楽しませようとしている。

ひとびとは見る必要も興味もないものばかり
スマートフォンから摂取し続けてるわ

誰かの私生活。
大量にアップロードされては
スクロール、消費されてゆく
誰かの加工された私生活の一部。
無感情に消費されるコンテンツの数々。

春琴は烟草に火をつける。
それは合法的にひとを傷つけずに
ため息をつくための方法だ。
人生や玻璃が悪いんじゃなく、単に
年老いた人間は若者より疲れやすいのだ。

誰も悪くはないが
ため息が出ることもまた仕方がない。

意味のないものを見続けるために
長生きしてその長生きのために
時間のほとんどをしたくもない労働に捧げるの?

ああ、そうだ。
そうして死んでゆくのが人生だ。

春琴にはぐうの音も出ない。
逆らったり言い訳する氣力さえ無かった。

人生は既にめちゃくちゃで
めちゃくちゃだけれど春琴は生きている。
目の前には美しく若い女がいて
彼女は春琴に少なくとも興味を抱いている。
ここは美しい海沿いの集落にあるコンドミニアムで
冷蔵庫には新鮮できちんとした食材が
若い女の浮ついた恋心くらいたっぷり仕込まれている。

見た目が良くてよかった。
両親に感謝だな。

春琴は苦笑いして心の中で呟く。
ひとは見た目ではないが
見た目が運んでくる幸福は少なくはない。
結局、金を稼いで意味のないものを見て
年老いてやがては誰にも見向きもされなくなり
懐古主義者として死ぬことに変わりはなくとも。

頬に柔らかい感触があった。
玻璃が手を伸ばして、彼の頬に触れている。
その目からは慰めるような輝きが漏れている。

春琴はすこし安心する。
この子がこのままこの視線を保って
自分をずっと美しい生き物だと認めてくれる
そんな儚い夢を網膜の裏で
一瞬だけでも、揺らせたおかげで。

未来のわたしに残されたのは
父や母の介護とうらざみしい中年女の日々だけ?
翳った沈黙と買い物のメモ、それから
くしゃくしゃの安物のエコバッグだけなの?

玻璃は自分の言葉に戦慄するように
ぶるっとからだをふるわせた。

ロレックスと高級車に胸焼けするフランス料理と
プール付きの豪邸、金で買った女たちってのと
その未来はどう違うのかな。

どう違うって、何もかも違うわ。

春琴は立ち上がる。
コットンシャツの胸元から水色の風が這入り込み
彼の皮膚に滲む汗をすこし乾かした。
窓を開けて汐風をすこし部屋に入れたのだ。
棧のところに忍冬スイカズラが長い睫毛を寝かしていた。

窓からは海が見える。
波音が復唱のように鼓膜をくすぐる。
ざりざりとした感触が心地よい。
死んでしまえばこの音ももう聞けないのだろうか。

虚しさは同じだ。
愚かしさも辛さも侘しさもね。

あなたみたいな人生は? 虚しい?

玻璃が後ろから春琴の腰を抱きしめる。
彼女の柔らかさと若さが
春琴にみずからの骨と筋ばった硬さと
水を失った老いの入り口をより感じさせる。

人生は、虚しいものなの?
幸せはないの?
わたしが今感じているこれは何?

玻璃の指がぎゅうと春琴の腹に食い込む。
爪が皮膚に刺さって、ちくりと痛んだ。
痛みはくすぐったさとよく似ている。

G majorの空を水が模写している。
自然は巨大なジャン=バティスト・カミーユ・コローだ。
彼らには油彩絵の具もパレットも必要ない。
ただその姿形に幻想も現実も奇跡も内包したまま
受動的に芸術を体現し続けている。

春琴は何も言わなかった。
泣きじゃくるにしても彼は歳を取りすぎている。

愛の幸せはたとえおしゃべりすきな夫人が頼んだ
ラザーニャ・アル・フォルノのように
テーブルで食べられずに冷めることがなくとも
結局は死によっていずれピリオドを打たれてしまう。

歳をとればとるほど、愛に臆病になっていく。
終わってしまうことが怖くて始められなくなる。
けれど終わる悲しみよりも恋の魅力はあまりに強く
春琴は呆然と語彙を失ったまま
揺蕩うジャン=バティスト・カミーユ・コローの絵に
泣くこともできずに見惚れている。

玻璃の体温は高い。
てのぬくもりがあなたを離さないと言っている。
彼女の若さに身を任せて
知っていることを見ない振りしようとすることは
卑怯な行為なのだろうか。

終わると知っていて始める愛は
誠実さへの裏切りだろうか。
踏み出せない春琴の足の代わりに
腕はこの柔らかい無防備な小さな獣を
抱きしめて自分のものにしたいと言っている。

玻璃は腕の下から顔を出して春琴を見つめる。
愚かなあなた、というわけだ。

それで?
これから、どうするの?

ああ、そうだ。
こうして死んでいくのが人生だ。
正解であろうと不正解であろうと
誠実であろうと不誠実であろうと
これが人生なのだ。

熱々のラザーニャ・アル・フォルノは美味しい。
たとえ口の中をひどく火傷したとしても、だ。


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