イブニング・ドレスは期待する
厚手のドレープカーテンのように、その婦人の顎はたるみ、何層にも重なって、複雑な迷宮を首もとに生み出している。
隣には筋骨隆々としていて、何かを考えている『振り』をするのが得意そうな、明るい笑顔だけがトレードマークの若い脳筋男。
婦人が笑い、筋肉男の肩をそのしなやかな手で叩く。指には大きく輝く石のついた指輪。白粉の匂いと、撲殺された動物の毛皮。
一目見るだけで、裕福なのだとわかる醜い中年女。
エリザベスは嫌悪と軽蔑の念を押し隠して、なるべく微笑みをたたえた無表情を維持することに集中する。
なんでこんなところに来ちゃったんだろ。
あまり仲の良くない友人に、上流階級の人々が集まるパーティーがあるから、と誘われたのは一週間前のことだった。
上流階級の人々、という言葉の響きはやけにグロテスクで、前時代的だと思えたが、好奇心もあった。
お金持ちって、どんな人たちなのかしら?
もしかしたら、此処よりもっと美しくて、見たこともないような素晴らしい世界があって、『上流階級の人々』はそんな世界でとてつもなく素晴らしい体験をしているのじゃないかしら?
そうだ。そうに違いない。じゃなきゃ皆あんな必死になってお金を稼ぐわけがないし、躍起になって有名になりたがったり、お金の為に殺し合いをしたりするわけがないもの。
お金は単なる通貨紙幣というだけではなく、夢のワンダーランドへの入場チケットになっているのかもしれない。
今回はそれへの体験入場、お試しワンダーランド、というわけだ。
失望は、汚れた服のつまった旅行帰りの鞄と似ている。
とても重たくて今はもう使わないというのに、途中で捨てることも叶わない。帰って煩わしい洗濯をする為に持って帰る、馬鹿馬鹿しい大荷物。
ドアマンのいる大きくて重たそうな扉までは、正にワンダーランド、という感じだったのにな。
エリザベスは最初にこの宮殿のような建物に到着した瞬間を思い出して、その頃の自分を羨ましく思う。老人が自分の娘の頃を懐かしむように大袈裟に。
一緒に来たボリスは、最初こそ多くの貴婦人(?)や紳士(?)たちに紹介してくれた。けれどエリザベスがまごまごとああとかううとか言っているうちに、誰に紹介しようと自分が恥をかくだけだと悟ったようだった。今はミス・ドレープカーテンとミスター脳筋と、和やかに世間話をしている。
エリザベスは突然の豪雨に濡れた靴を履いている時のように、退屈と失望に足を重たくとられながらベランダへ出た。
美しい細工をされた硝子戸の向こう側にある中世からそのまま運んで来たかのような石作りのベランダと、頭上に広がる広大な星空は悪くなかった。
ワンダーランドなんて、どこにも無いんだ。
エリザベスは素晴らしい世界を求めて、沢山のパーティに顔を出して来た。それこそありとあらゆる種類のパーティへ。
大学の先進的男女によるお酒と薬物と乱交を愛するパーティ。お洒落な人達が薄暗い中でサングラスをかけてお酒を飲む社交パーティ。セレブリティのお誕生日パーティ。なにかしらの業界のなにかしらのお披露目の数々のレセプションパーティ。
フルレングスの青紫のイブニング・ドレスが、夜風に撫でられてゆったりと揺れる。虫たちのひそひそ話と、遠く聞こえる社交界の笑い声。このくらいの距離感が、エリザベスには丁度良い。
「どうされたの?」
静かで深みのある声にエリザベスが振り返ると、細身の身体に黒いイブニングドレスを着て、白銀のロングヘアをアップにして束ねた女性が微笑んでいた。
「あ、少し酔ってしまって」
そう言うと、女性はゆっくりとエレガントな歩き方でエリザベスの隣へ来た。
「こういうパーティって退屈だわ」
女性は悪戯っ子のように微笑んで、そう思わない? と訊ねる。エリザベスも笑い返した。
「私、貧しい家の出でね。未だにこういう場に慣れないわ」
「全然そんな風には見えません」
エリザベスが驚いてみせると、女性はありがとう、と微笑んだ。上品、という言葉からイメージを連想する時に、多くの人々が想像するような美しい微笑みだった。
「どんな風に見えるのかしら」
「生まれつきの上流階級、って感じ」
女性の笑い声が夜空に吸い込まれる。
それなら良かった。上手に化けられているってことね。
彼女は名前をサラと言った。カブロの北西部で真面目で誠実だったが、ビジネスの才能と運に恵まれなかった父と母の長女として産まれた。
父の友人が父の信頼を裏切った年に、サラの母は病気になった。サラの父はサラとサラの妹二人、そして病気の母を抱えて、他人が作った借金を返し続けた。
もうすぐで返済が終わる。そうしたらお前たちにも、もうちょっと良い暮らしをさせてやれる。酒も煙草も賭け事もせず、働き詰めで贅沢も出来なかった父が、そう呟いた夜から数えて七日後にサラの母は息をひきとった。
そうしてその翌年、借金をなんとか返済し終えた父も、役目を果たし終えたというかのように母の後を追った。
そこからはサラが、父の代わりをした。妹二人を立派な女性にする為に、一生懸命働いた。暮らす街はソドムとゴモラのようなスラム街で、住む家も部屋というよりは単なる外との仕切りと言ったほうが良いような代物だったが、それでもなんとか姉妹たちは暮らしていった。
サラたちの暮らしが一変したのは、サラが当時働いていたレストランで夫のジョナサンと出逢ったことが切っ掛けだった。
ジョナサンは優しく、美しく、裕福な男だった。
「奇跡みたいだった」
サラが潤んだ瞳で、夜空を見上げる。
「私は当時、褒められた娘じゃなくてね。沢山のことを経験しすぎていた。環境のせいでもあるし、自分の愚かさのせいでもある。私は夫と出逢った時には既に生娘ではなかったし、日々の苦しみを紛らわせるアルコールやマリファナ煙草なんかも覚えていたわ」
友人の借金を返済することに人生を費やした父。病気に蝕まれて失意の中で、子供たちを残して死んでいった母。毎日の労働と疲労感。永遠に続くかのように思える、静かな責め苦。
「あの頃は精一杯明るく生きていたつもりだったけれど、今思うと絶望していたのかもしれない。何も起きないかもしれない人生に。私みたいな人間にも、映画のような奇跡が起きれば良いと思っていたの」
「そして、その奇跡が起きた」
エリザベスがそう言うと、サラはにっこりと笑った。
「私の天使と出逢ったあの夜から、私は神様と奇跡を信じているわ。天使は私の過去も出自も妹二人の世話さえも、怖じ気づくどころか、全て愛して請け負ってくれたんだもの」
そう言ったサラの瞳があまりに甘やかで、蕩けるような輝きを携えていたので、エリザベスはうっとりとする。ミス・ドレープカーテンがいた場所と同じ世界は思えない、あまりにドラマティックな微笑み。
「それで、あなたの天使様は今、どこで飲んでるのかしら」
エリザベスがサラに訊ねると、サラは星空を見上げた。少し言い辛そうにして、それから
「彼は神様のところに戻ってしまったの。私に莫大な財産を残して」
と言った。
ごめんなさい、とエリザベスが言うと、良いのよ、とサラはエリザベスの肩をそのほっそりとした脂の無い指で撫でる。
「お金持ちで美しく優しい夫。若い私は、それが神様が私にくれた贈り物だと思っていた。でも彼がいなくなって、お金だけが残された時に思い知ったの。神様の贈り物は『お金持ちで優しい夫』ではなく、『彼そのもの』だったのだと。お金はあって助かったけれどね」
サラが三十代になったばかりのある日、ジョナサンは仕事で海外へ向かった。ジョナサンの乗った飛行機は、遠く海外の海上で墜落し乗客と共に行方不明となった。夫婦の最後の会話は、すぐ戻ってくるからね、だった。
「それが、彼が生涯で私に吐いたたったひとつの嘘」
莫大な財産は全て、サラに相続された。サラとジョナサンの間には子供もおらず、彼女は大きく優雅な家にたった一人残された。
「そこからは誰とも恋もせず、もう今年七十になるわ」
サラは自嘲気味にそう言って、自分の手の甲をじっと見つめる。
「手も皺だらけで、随分お婆ちゃんになってしまった。ジョナサンのお陰で妹たちも立派に育って、私もあまり苦労せずに生きてこられた。七十になってもこんなパーティにお呼ばれされる程度には。多分これって幸せなことね」
そう呟く彼女の顔は、あまり幸せだと思っているようには見えなかった。
我が侭を言ったら、罰が当たるわ。
そういってサラは細い煙草に火をつけて、石壁によりかかる。サラの背中の向こう側、遠くの空が一瞬だけ光って、また暗くなった。
「あの光。花火かしら?」
「戦争がはじまったのかもしれないわよ」
サラが煙を吐いてそう呟き、くすくすと二人の女は笑う。
「貧しさは惨めだったわ。存在を軽んじられるのも、人生に意義を見いだせないことも。私は惨めさから抜け出せた。夢の国へのチケットを、働き詰めであかぎれだらけだった手で掴んだの」
また遠くの空が一瞬だけ、明るく光る。サラが煙草を吸い込み、エリザベスは煙草の先端の赤い光を見つめている。
「彼が恋しい」
サラの頬を涙が伝った。遠くの空が光って、暗くなる。
「戦争だったらいいのに。爆弾だったらいいのに。ジョナサンのいない世界を、消し去ってくれる核爆弾だったら」
私って自分勝手な女よね、とサラは涙を拭った。
良いんじゃない、とエリザベスは言う。
「皆、幸せになりたいじゃない。私もそうだし。大学の乱痴気騒ぎも、お洒落な空間演出も、有名人と仲良くなった振りするのも、幸福とは程遠かったけど。でもみっともなく幸せを探してる。だって私たちって、幸せになる為に産まれて来たんだもの」
「世界にはご飯が食べられない人もいるのにね」
「ご飯が食べられない人も、ジョナサンに先立たれたあなたも、明日からまたアルバイトの私も、同じくらい不幸せよ」
イブニング・ドレスの女たちは、一緒に遠くの空を見つめる。もう遠くの空は光らない。虫のひそひそ話、遠くで聞こえる笑い声、夜風の匂いとシャンパンの泡。
人間って愚かね、とサラが笑って、愚かでもいいのよ、とエリザベスは胸を張った。
「ねえ、サラ。私にもジョナサンみたいな奇跡が訪れるかしら?」
「訪れても、いつかは奪われるわ」
「そして重たい思い出を捨てることも出来ずに、七十のエレガントなお婆ちゃんになるのかしら」
「もしかしたら幸福な振りをして、筋肉男とくだらない会話に興じるかもしれないわよ」
振り返るとミス・ドレープカーテンは随分と酔っていて、ミスター脳筋とボリスが苦笑いをしているのが見えた。
サラとエリザベスは顔を見合わせて、笑った。イブニング・ドレスを夜風にゆらめかせて。
「人類が戦争をする理由のひとつがわかった気がするわ。核で愚かな自分を苦々しく思う夜も愛する人のいない未来も、全て吹っ飛ばしてしまいたくなるのね」
女たちはもう一度笑って、夜空を見上げた。空が強烈に光るのを密かに期待しながら。
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