xxxxをxxxxxさせられるのは、もう
「お前はフォズミに搾取されているよ、きちんと考えた方がいい」
マロッケロがジェルミにそう言ったのは、古く汚いバーだった。壁は鏡張りで、薄暗く、柱は安っぽい銀色に装飾された馬鹿げた内装の飲み屋。
古臭く悪趣味な近未来のイメージを、そのまま現実に反映させたようなバーで、音痴の酔っぱらいが大きな音でカラオケをしている。
ジェルミは返事をせず、にやにやと笑いながらグラスを傾ける。安酒が脳細胞を破壊する。甘ったるい杏仁の薫り。九十年代から変わらない女たちの嬌声。
マロッケロの周囲の友人たちが、そうだそうだと首を縦に振る。その通りだ、ジェルミは搾取されている。本当ならもっと稼いでいて、今頃自分の家を持っている筈だよ。
ジェルミはこれといった答えを持たないまま、そうかなあ、などとお茶を濁している。
搾取されているから、なんだというのだ。もし搾取されているとしたら、俺はどうすればいい。
「まあ兎に角、フォズミときちんと話してみるべきだな」
マロッケロはそう言ってから、自分の目の前のグラスをぐいっと空けた。薄暗いバーの壁代わりの鏡に、マロッケロの歪んだ背中と泣き出しそうな顔で笑うジェルミの顔が映し出されている。
「フォズミはあんたの恩人じゃないの」
エリズグリーはジェルミを睨みつける。ジェルミは机の上を見つめて、艶やかな机をさする。良い机だ。フォズミの事務所はカルテロットの一等地に居を構えており、中も外も瀟洒な造りだ。白い壁、広い玄関、日当りの良い窓。その事務所の応接間で、ジェルミとエリズグリーは向き合ってフォズミの話をしている。
「それをあんた、搾取なんて言ったら罰があたるわよ。大体、そのメロッケロっていうのが何て言ったか知らないけれどね……」
「マロッケロ」
「え? なに?」
「メロッケロじゃなくて、マロッケロ」
「そんなことはどっちだって良いの。そのマロッケロがなんて言ったか知らないけれど、今のあんたの仕事は全部フォズミがあんたに与えてあげてる仕事じゃない。搾取も何も、フォズミがあんたに仕事を振らなかったら元々ゼロでしょ。数千ギロだけでも貰えるだけでも、感謝しなくちゃ」
エリズグリーは大きな音を立てて、コーヒーカップを机の上に置く。置くというよりは、叩き付けるといった風情。
カルテロットはスライスムスから徒歩十五分という立地にありながら、その土地代の高さに因って裕福な人間だけしか住んでいない。だからスライスムスと違って、街全体がとても静かだ。ジェルミはこの静けさは気に入っているが、この街が醸し出す緊張感やどんよりとした哀しみの暗さには辟易してしまう。
裕福な人間の住む街はいつも、そうだ。豪奢な建物、静けさ、そうして沈鬱として薄暗い部屋の数々。その理由をジェルミは知らないが、大金を稼ぐというのはそういうことなのかもしれなかった。
「第一、夜中にアルコールの入っている人達が言ったその言い分と、素面で昼間からコーヒーを飲みながら話すあたしの言い分。どっちが正しいと思うの?」
ジェルミの頭はオーバーヒートを起こしたかのように、かあと熱を持ち始める。自分はとんだ恥を晒しにきたのではないだろうか。酔っぱらいたちに唆されて、こんなところまでのこのこと恥をさらしにきてしまったのでは。
「まぁ、いいわ。あんたって気弱でお人好しなところがあるから」
エリズグリーは溜め息をつき、コーヒーカップを口につけて傾けた。ジェルミはすみません、と軽く頭を下げる。
「いいのよ、誰にでも疑心暗鬼になる瞬間ってあるし。でも忘れないでね。フォズミは色々な人たちに悪く言われているけれど、誰のことも悪く言わないし、誰も見切ったり見捨てたりしないわ。あんたのこともね、ミスタージェルミ」
エリズグリーの指についた高価そうな指輪が、またジェルミの心にある思い出を思い出させた。
カルツォラッテの涙は、マスカラを通過したせいで黒ずみ、その憎悪と哀しみを禍々しく表現していた。
「言いなさいよ、意気地なし。なんで言わないの?」
ジェルミは黙って、煙草を吸い込む。煙草の苦さが現実の苦みを打ち消してくれることを願って。ワンルームの小さい部屋の暮らしは、カルツォラッテの稼ぎとカルツォラッテの実家からの仕送りで賄われている。
ジェルミは仕事をしているといえばしているが、していないと言えばしていない。自分に自信がないのだ。毎日何かをしているが、それが何かは説明出来ないし、フォズミから言われる何かを、言われるがままにこなしているだけだった。
「フォズミにもっと報酬を増やすか、仕事量を増やすかしてくれって言いなさいよ。じゃなきゃ私たち、お終いよ」
小さな部屋の簡易な机はざらざらとした木目調で、その上に乗ったパーソナルコンピューターがジェルミの無能ぶりを嗤っている。狭い部屋の窓はあけたところで、すぐに蔓の生えた汚い壁で光も差し込まない。隣の家の話し声が聞こえるチェルッチオ四丁目のアパートの中では倦怠感と嫌味だけが幅を利かせることが出来た。
「報酬も仕事量も、それが今の俺の限界ってことなんだろう。それに持ちつ持たれつなんだ。あまり我が侭は言えないよ」
「何が持ちつ持たれつよ。フォズミはカルテロットの良い家に住んで家族も持って、きちんと暮らしているじゃない。あの家の一部もあのこぎれいな服も、あんたと一緒に稼いだお金であの人は買ったのよ」
ジェルミはまた頭に血が昇るのを感じる。カルツォラッテが酷く詰るせいか、それともフォズミが自分を騙して奴隷のようにしていると改めて感じたせいか。
俺は誰に対して、怒っているんだろう。
どいつもこいつも馬鹿にしやがって。
ジェルミは今夜十本目の煙草に火をつける。白ワインをボトルからぐいと飲んで、外套を着て部屋から出た。
どこにいくのよ。カルツォラッテの泣き叫ぶ声。
「もう戻ってこなくて良いわ」
ジェルミはかっとなって、つかつかと部屋まで戻る。ドアをあけて怯えるカルツォラッテを殴りつけた。
「痛い。痛い。酷すぎる。女を殴るなんて。自分の上司には何も言えないで、安い賃金で騙されて働かされてる腰抜け男の癖に。お前なんて死んでしまえ! 死んでしまえばいいのよ!」
カルツォラッテの泣き声は、呪いの呪文となってジェルミの背中に刺さる。ジェルミは背中を丸めて、震える手をポケットに入れた。
古い安アパートに泣き声が響く。チェルッチオ四丁目の夜空は、狭い。行く宛も頼れる金もない。ジェルミは十一本目の煙草に火をつけて、暗い夜道をこつこつと歩いていった。
二十四時間営業の安売りの店だけが、惨めな油彩の夜に煌々とした安心を点灯している。
ジェルミはその店の前にある、大きな水槽の前に立った。南国の海に住んでいそうな魚たちが、ジェルミの顔を覗く。うつぼが穴から顔を出して居場所を無くしたジェルミに、同情の視線を送った。
とっとと謝っちまった方がいいんじゃないか?
カルツォラッテには指輪のひとつも贈ってやれずに、結局向こうから別れを告げられた。金の切れ目は縁の切れ目とは言うけれど、はなっから金の切れていた俺を、よくあんなに愛してくれたものだ。
ジェルミは痺れてぼやけた思考回路で、懐かしい愛しの人の顔を思い出す。結婚したかった、とカルツォラッテは言った。寂しそうな背中。笑い声。慰めてくれた言葉たち。
「あたしはジェルミの仕事が好き。他の人間が手を入れてない、一番最初にあたしだけに見せてくれる仕事の種子が」
そう言ってくれた女は、もうジェルミの傍にはいない。ジェルミは仕事をするが、稼ぎになんてならない。息苦しさは年々増して、両親は年老いていく。ジェルミはもう他の仕事に就こうなんて気には、なれないのだ。
フォズミに進言することも、フォズミから離れることも怖い。
第一、マロッケロだって、その周りの仲間だって、無責任だ。フォズミを断罪するようなことを言うが、その代わりにといって彼らがジェルミに仕事を振ってくれるわけではない。
例え搾取していようと、少ない分け前しかくれなかろうと、フォズミはジェルミに仕事を与えてくれるのだ。あとの人間たちはジェルミを褒めてくれこそすれど、では現実的な契約と給金の話をしましょう、とはいかない。褒め言葉は耳に優しいが、彼らはきっとジェルミの仕事などほとんど見てはいないだろう。
それに褒め言葉じゃ、腹は膨れない。
「お前はいつも人任せだな。人に責任を押し付けてないで、自分の稼ぎくらいは自分で作ることだ」
フィフィオリは、長ったらしい前髪を揺らして嗤う。寒くなって来た西ケリスの路上。確か駅から数カラバほど離れた、ホット芽ジュレの専門店の前だった。
「フォズミが搾取しているとか、マロッケロが仕事を振ってくれないとか、それは結局お前が仕事が出来ないっていうだけの話だろ。自分の食い扶持くらいは自分で稼げよ」
フィフィオリは、呆れ顔で溜め息をつく。ジェルミはそれに対して言い返す言葉も持たない。
「けれど、お前は俺よりも小さな仕事ばかりしているじゃないか」
ジェルミは拳を震わせて、小さな声で心ばかりの抗議する。
「だから何だよ? 小さくても大きくても仕事は仕事だ。俺は俺の稼ぎで家を借りて、自分のケツは自分で拭いてるぜ」
「なぜお前よりでかい仕事が出来る俺が、お前よりも食えないんだ」
「さぁな。怠慢じゃないか? みんなお前がだらだらしている間に、必死に頑張っているのさ」
ジェルミは下唇を噛む。息が荒くなって、視界が揺れる。図星なのか、図星だから俺はこんなに怒っているのか。
俺は怠けていたのか。俺は。もっと頑張れたのか。
過去を振り返ると、真っ暗な道に様々な思い出が断片的に並んでいる。睡眠不足になりながら働く自分や、酒や一夜の女やその他の悪癖に浸って時間と生命を無為にする自分。自分は頑張ってきたのか、それとも怠けて来たのか。
だらしない生き方をしているのか。
ジェルミに降り掛かる災厄は、全てジェルミの創りだした因果による応報なのだろうか。
「そう。お前が食えないのは、お前の責任だ」
フィフィオリはそう言って、高笑いを始める。高笑いをしているうちにフィフィオリの顎は空を仰ぎ、背中はのけぞりはじめる。わはははははは……笑い声と共にフィフィオリはどんどんと弓状に背中をそらせて、遂には頭を地面につけてブリッジの体制になった。
ジェルミは心配になって、脊椎は大丈夫か、とフィフィオリの顔を覗き込むとそこには高名な政治家の顔がある。
フィフィオリ、お前は政治家のジュリズア・テソ・マルケルだったのか。
そう、俺はジュリズア・テソ・マルケルだったのだ。俺は偉人だ。大人物だ。お前のような虫螻同然の一市民とは違う。お前たち市民は惰眠を貪り、自分の無知蒙昧ぶりを棚にあげて、努力する人々が自分たちから搾取しているだの、才能ある人々は権利を独占しているだのと、見当外れ甚だしい批判をぶつけてくる。
貴様らは他人を責める前に、自分のその身体を見た事があるのか。でっぱった腹、汚れた贅肉、だらしない私生活。それで人様を責められるのか。それで人生がうまくいかないのは、他人の所為だというのか。貴様らが愚かで貧しく、自立した成人になれないのは一切合財全て貴様らのたるんだ低い意識の責任ではないか!
ジュリズア・テソ・マルケルはその大粒の真珠のような、真っ白い歯をむき出しながらジェルミに怒鳴り散らした。ブリッジの体制のまま、フィフィオリの服装のままで。ジェルミは恐ろしくなって、フィフィオリから離れるように、一気に走り出した。
フィフィオリがジュリズア・テソ・マルケルの筈がない。だってジュリズア・テソ・マルケルはつい先々月に、その過激な政策と心ない暴言が仇となってテロの標的となった筈だ。
彼のいた大統領執務室は暴徒たちによって焼かれ、彼は中世さながらにはりつけにされ拷問された末、世界中に中継されながらその命を絶たれたのだ。
その残酷な映像はジェルミも見ていた。なにせ世界中でニュースになったのだ。
ジュリズア・テソ・マルケルは確かに暴君ではあった。なにせ税金は高く徴収し、社会保障の類いはほとんど撤廃した。戦争を美化し、武器を買い込み、政治家たちの給料を膨大にあげ、汚職の限りを尽くした。そして地震やタイフーンなどの被害があった土地の復興には、端金と美辞麗句だけで対応し、最後は海外の様々なメディアや政治家からもバッシングを受けていた。
だからといって、暴徒たちのしたことは褒められたことではなかった。なにせ、テレビで中継しながらはりつけにした上、拷問し、殺害したのだ。殺害方法は、一部の異常者たち以外が言葉を失うほどに残虐な殺し方だった為、殺害の瞬間は多くのメディアでは報道を自粛したほどだった。
ジュリズア・テソ・マルケルはブリッジの体制のまま、ジェルミを追いかけて来た。まるでエクソシストの一場面のように。彼はもう死んでいるわけだから、つまり死霊ということになり、これは本物のエクソシストといっても過言ではなかったのかもしれないが。
そうやって貴様らは都合の悪いことから、こそこそと逃げ回る。逃げ回った挙げ句にまわってきたツケまで、一生懸命働いている人間に払えと言うのだ。”俺たちが飯を食えないじゃないか“だと? 国を動かす俺が他の人間より、多少の金を貰って何が悪い? 俺がいなければ貴様らなど、他の国の独裁者の餌食で、もっと酷い生活を送ることになるというのに。
そうして守ってやったお返しが、あのはりつけの刑というわけか。
クソ市民ども。クソ国民ども。貴様らが一丁前の口を訊くなんて億年早い。貴様ら低能どもは黙って働けばいいんだ。楽しようと思うな。貴様らがその程度の技術ややり方で、飯を食おうなんて百万年早いんだ。地獄に堕ちろ。
ジュリズア・テソ・マルケルは今では喋るや怒鳴るといった表現では生温いほど、叫び喚き散らしていた。怒りを思い切り喉仏にぶつけて、唾と憎しみを散らしながら首を左右に振って大声で喚き散らしている。
恐怖と焦りで狼狽しながら走るジェルミの前に、大勢の人々が立っているのにジェルミは気付いた。人々は静かな怒りに肩を上下させている。それは温度が高すぎるが故に、赤を通り越して青く、そして最後は透けて向こう側が見えるようになった炎に似ていた。
人々はその静かな怒りの沸点を少しずつ、少しずつ下げて、そうしてそれが世界に認知出来る程度の温度になったタイミングで怒号をあげた。
暴徒たちはジェルミを通り越して、その後ろでまだ叫んでいる(しかしその声は暴徒たちの声に掻き消され、口がばくばくと動いている為にジェルミには彼がまだ叫んでいるのだとわかるばかりになっている)ジュリズア・テソ・マルケルへと立ち向かっていく。
ジュリズア・テソ・マルケルはあっという間に抱えられ、はりつけにされ、暴力と怒りと呪いに塗れ、恥辱の中で絶命した。
そうして暴徒たちは怒りの矛先を失い、周囲のものを更に破壊しはじめる。自分たちの膨大な哀しみの引受先を、見つけることが出来ないのだ。圧縮されていた怒りや哀しみは、今ではzipファイルを突き破って伝説の大蛇のように世界中を破壊してまわっている。
狂気の目つき。何処の誰とも繫がらない実体。何十億もの個人的な絶叫。
暴徒の一人が、ジェルミの服の肩の部分の布を掴んで、耳元で叫んだ。
あれが奴らのいつものやり方だ。自分たちを大したことのない存在だと思わせる。劣った存在だと。お前たちは怠惰な出来損ない、自業自得の莫迦ども、悪意と無責任さの塊だと。そうして、だからこそお前たちは酷い目にあっても仕方ないのだと言うのさ。全部自業自得。良いことは俺達のおかげ、悪いことは自己責任、さ。そうやって洗脳して、俺たちを都合のいい奴隷にしたてあげるってわけだ。
そこまでまくしたててから、暴徒の一人はまた運命の渦の中に飛び込んでいった。彼らもジュリズア・テソ・マルケルも、永遠に繰り返しているのだ。この地獄を永遠に、ここで繰り返し続けている。
受動的であり、能動的な破壊によるメビウスの輪。
表は裏になり、裏は表になり、終わりのない憎しみが業火のように彼らを焼き尽くしている。
気がつくと水色に晴れた空の下で、七日ある週の唯一の休息日、日曜日だった。
ジェルミの手元には、何も無い。金も、名声も、家庭も、女も。何一つなかった。ジェルミの足下をくしゃくしゃになった新聞が、寒い北風に吹かれてかさかさと走り抜けていく。
その一面にはフォズミの輝く笑顔が印刷されている。社会的地位のある人間らしい、清潔な服装、整えた髪型、多くのスタッフを携えて。
ジェルミはぶるぶると震えて、そこにうずくまる。世界には希望と絶望とが隣り合わせて暮らしている。いつかのニューヨークの街角のように。四角く縁取られたタイルで整然と舗装された道路と、タイルの溝に挟まった塵や芥。美しく清潔で便利なスーパーマーケットと、その裏口の赤錆だらけの非常階段に座る疲れ果てた労働者階級。
非常階段に座り、疲れた顔で煙草を吸う男たちの世間話がジェルミの耳に入る。
「しかしジュリズア・テソ・マルケルの事件は酷かったな」
「話題が古いな。まだそんな話してるのかよ」
「あれは時代に残るニュースだ。人の死に古いも新しいも無いさ」
「ジュリズアが殺されたところで、俺たちの暮らしは変わらないけどな」
「しかし、税金は多少は安くなったぜ。政治家の汚職も少しは収まるだろうよ」
「ああ。はりつけにされて、臓物撒き散らして死ぬよりは賄賂を断った方が良いだろうからな」
男たちは違いない、と言って笑う。そこには正義も悪もなかった。そこにはただ暮らしがあった。家族や住宅ローンという実体を持った未来を背負った男たちには、正義も理想も関係がない。月々のカードの支払いと子供の学費、食費、光熱費、その他諸々……。
彼らは少しでも生活が豊かになることを願い、少しでも前に進むことを願い、朝目を覚まして働いてそして酒を飲んで眠る。毛玉のついた大量生産の服を着込んで、若く夢見ていた頃など自分には最初からなかったのだという顔をして。
ジェルミは彼らを羨ましく思う。
俺は奴隷だ。単なる玩具だ。諦めて生きることも出来ず、悪党になることも出来ず、意気地なしのまま道端にうずくまって泣いている。
家族を持つことも、独身貴族になることも、出来ない。奴隷で敗北者で犬畜生だ。フォズミのxxxxをxxxxxさせられているxxxxxxxだ。
轟々という音が、ジェルミの鼓膜と魂を揺さぶる。名前も顔も持たない声が3Gのもっと手前か、もしくは5Gのもっと向こう側から聞こえてくる。
さあ、さあ、さあ。背中を押されて、急かされる。いつになれば、お前の人生は本番になる? いつになればお前の番は廻ってくる?
一生、廻ってこない。世界を変えることなんて、お前には出来ない。
今、お前は変わらなければ、いけない。
このまま此処でうずくまって敗北と心ない人々にxxxされることを選ぶか、それとも兎に角立ち上がって何かを始めることを選ぶか。
何かって、何だ?
何でも良い。兎に角、何かだ。お前が変わる為の何か。その足枷を外す為の何かを!
この足枷はフォズミがつけた足枷か? 自分でつけた足枷か?
足枷を誰がつけたかは、重要な問題じゃない! 急ぐんだ! 時間がない! このままではお前の足下は崩れ、お前は暗闇に投げ出され、永遠に尽きることのない憎しみの輪の中で血を流すことになる!
急ぐのはわかった、何をすれば良い? それがわからないんだ。
そんなことは、誰もがわからないんだ! それでもみんな何かをしているんだ! 急げ! 時間がない!
ジェルミは姿の見えない声にせっつかれるままに、よろよろと立ち上がった。
ジェルミの足より数メートル後ろの地面が崩れ、がらがらと暗闇に瓦礫が飲み込まれる。その下ではぼやけた輪郭の白い人のようなものたちが、絡み合ってうねり、うめきながら、阿鼻叫喚の様相を呈している。
ジェルミは怖くなって、走り出した。たいした速度は出ないが、なんとか奈落に飲み込まれない程度の速度で。地面はジェルミの踵のすぐ後ろで、がらがらと崩れ落ちていく。
ジェルミは中国人のやっている古びた家具店に走り込んだ。民族調の壷や宗教用か土産物かわからない仏像たちの間をすり抜ける。用途のわからないナイフや動かなくなった古い腕時計などがあやしげな天井飾りの下で、ジェルミを物珍しそうに見ていた。
店主らしき中国人に奈落のことを訊ねると、彼は黙って古い拳銃と弾丸をジェルミにくれた。それ以上、ジェルミが何を訊ねようが彼が口を開くことはなく、一杯だけバーボンをシングルでくれた。
ジェルミは古い拳銃と弾丸をコートの内ポケットに入れ、バーボンを飲み干すとまた走り出す。
ジェルミは走った。よろよろと、右左によろけたりしながら。バーボンが軽く効いているのか、時間の感覚は失われ、苦しみや辛さもそれほどはなかった。酔いのせいで自分がしていることが正しいことか、それとも間違っていることかもわからなかった。
もしかしたら、酔いが醒めたあとに振り返った時、取り返しのつかないことをしてしまったと思うかもしれない、と思う瞬間もあったが、すぐに忘れた。例え振り向いてもう戻れない場所まで走ってしまってしまったと気付いたしても、その場所は奈落よりはマシな筈だ、と思えた。
右足を出して、左足を出す。右の肘を引き、その次には左の肘を引いた。そうすれば兎に角前進する事が出来た。奈落はもしかしたらすぐ後ろにいるのかもしれないし、もう随分遠くに引き離せたのかもしれなかったが、立ち止まって振り返る気にはならなかった。
走り出して随分経って、ジェルミはやっと立ち止まった。振り返ると少し後ろに奈落はあった。だが奈落は今では進行してきておらず、そこにじっと佇んでいる。
マロッケロも、エリズグリーも、フィフィオリも、ジュリズア・テソ・マルケルや暴徒たちも、勿論カルツォラッテもいなかった。
数種類のカラーヴァリエイションで成り立つ景色、静謐な器に溢れんばかりの水、暖かな家であった過去を辛うじて保っている廃墟。廃墟の屋根は無くなり、壁は半分ほど崩れ落ちて、その中では残された家具が朽ち果てるのを待っている。
半分だけになった壁に、フェルメールの贋作がかかっていた。
廃墟の壁によりかかって、ジェルミは古い拳銃と弾丸を取り出す。拳銃に弾丸を装填して、朽ちかけている机の上にそれを置いた。鉄製の小さな殺人兵器は禍々しい咳払いをする。ゴトン。自分の存在の重要さを世界に示そうとするかのように。
ジェルミは拳銃を見つめる。その顔から表情を汲み取ることは難しい。水色の空。奈落。数種類のカラーヴァリエイションで成り立つ景色、静謐な器に溢れんばかりの水、廃墟とフェルメール。
世界は終末の日のように、静まり返っている。
スクリーンはそこでブラックアウトする。プライバシー保護の観点から、我々はこれ以上彼の人生を詮索することを赦されていない。
なのでこの物語のラストシーンは勿論、二行前のあの場面だが、その後の展開も実際にはきちんと用意されている。それはパラレルワールドや田舎の分かれ道のように、複数に分かれ、その全てが同じ確立で存在し得る結末だ。
私としては、どうか彼が古い拳銃の世話にならなかったことを願うばかりだが、それを書き記すことは現在のセルバ国の法システム下に於いては赦されていない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?