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脂肪と老廃物、小さな廃墟

【0. 指を切ったクロエ】

 鋏で指先を切った。紙を切ろうとした鋏の切っ先に、少しだけ指が巻き込まれた。肉はじゃき、という音と共に二つに分かれる。中の白い脂肪が見えて、少ししてからゆっくりと赤い血液が肉の谷間に満ちていく。
 母はクロエを自分の私物かのように扱う。
 自分の思い通りにならなければ、怒り、執拗に責め、クロエを育てる為に自分が被った苦労の話を訥々とした。それはクロエが折れて謝るまで、つまりは母の思い通りの人形になるまで、収まることはなかった。
 クロエの母は二十一歳の時に首都に越して来た。それまでは地方都市で両親とともに暮らしており、首都に引っ越してきて、クロエの父と出逢った。
 父は温厚で物静かな男だった。誠実さと真面目さが取り柄の、淡々と日々をこなす普通の男。クロエはそんな父を愛していたが、母はよく彼を退屈な男だと詰った。
 
 【1. 二三着の服と、ありったけの現金、お気に入りの本】
 それは些細な切っ掛けだったと思う。
 クロエが仕事前に洗濯をしていかなかったとか、風呂掃除をしていかなかったとか、そんなことが発端の口論だった。
 母はいつも通り癇癪を起こし、よく研いだナイフの切っ先のような鋭い言葉でクロエを切り刻んだ。自分がいかにクロエの為に日々働いているか、それに較べてクロエはいかに自分への恩を仇で返しているか。
 うんざりするような長口舌は大蛇のようにクロエに巻き付き、骨を軋ませ肉を締め付ける。わかった、私が悪かった、とクロエが声を荒げると、母は更に激高した。
 「親に対して、その態度は何なの!」
 サイズの違う太い糸を無理矢理に細い穴に押し通そうとする人のように、彼女は声を荒げ、自分の正当性をひたすらに主張する。
 クロエは疲れを肩に乗せ、静かに溜め息を漏らして席を立った。
 「待ちなさい、まだ話は終わってない」
 「私はもう謝ったわ。謝ったのに、まだ怒ってるなんて馬鹿げてる」
 「謝罪には本当の心が寄り添わないと、無意味なのよ」
 「本当の心がお母さんにわかるの?」
 クロエが振り向いて自嘲気味にそう言うと、その皮肉は母の年齢を経た心臓を貫いたようだった。
 「出て行きなさい」
 母は声を震わせて、そう言った。その声は先ほどとは打って変わって酷すぎる怒りのせいで小さく波打っていて、悲しんでいる人の声音のように聞こえる。
 クロエは二三着の服と、ありったけの現金、そしてお気に入りの本を一冊だけ鞄に放り込んで、家を出た。父の動揺した声と、放っておきなさいよという母の怒鳴り声に背を向けて。

 家を出たクロエは暗い道をずんずんと歩いていく。怒りで頭に血が昇って、呼吸も浅く速くなった。
 スリッポンとデニム、薄手のカーディガンの上にアウター。家から距離が遠くなるのと比例して、怒りは縮小していく。怒りが縮小していくと、自分の仕出かした事の重大さと夜道を歩く心細さが胸の隙間から顔を覗かせはじめた。
 クロエは頭を振って、弱音たちの縋る手を振りほどく。私は間違っていない、間違っていなかった、と何度も口の中で呟いて、その癖に一体何で怒っていたのかという理由さえ、記憶の中でうっすらとその輪郭をぼやけさせながら。
 汽車のチケット。線路の砂利。心地よい揺れ。
 クロエは遠くまで運ばれていく貨物になった気分で、汽車の薄く堅い椅子に腰かけている。肉の薄い小さな臀部が少し痛むが、荷物なのだから仕方が無い。窓の外では夜の闇がスクロールされて、冷たい夜風が懐いた猫のように頬を擦り寄せてくる。金木犀の薫りがクロエの瞼に睡気を運ぶ。朝が来て、また夜になって、そうしてもう一度、朝。
 汽車は遠くの土地まで達して、クロエは名も知らぬ駅で降りる。町の匂いがなんだか好きだったから、という理由と、そこの駅名が小さい頃に飼っていた子犬と同じ名前だったというふたつの理由に導かれて。
 隣り合った偶然同士が奇跡を運んできて、人はいずれ年老いた時にそれを運命という名で呼ぶ。いずれ運命へと変貌する他愛も無い偶然たちを、クロエは子供たちが硝子玉をコレクションするように無邪気に集めるのが好きだった。人生は一度きりしかなく、リハーサルも攻略本も無い。だからいつも情報の足りない状態で判断するしかないのだ。
 
 【2. 幸福と生きた廃墟】
 その町について一番最初に、クロエは幸福を意味する言葉を店名にしている喫茶店に入った。幸福の珈琲。眠気覚ましに飲むだけだが、縁起が良いに越したことはない。
 幸福の中はレトロで古めかしく、埃と過ぎ去った時間の匂いが珈琲豆の匂いと睦み合っていた。
 からんころん、とドアについた鈴がなる。
 「一人なんですけど」
 幸福の店主はグラスを拭きながら顔もあげずに
 「好きなところ」
 とだけ、呟いた。
 クロエが困惑していると、常連客風の男が笑う。
 「好きなところに座っていい、ってことさ」
 男は名をセバスチャンと言い、幸福には週に三日ほど通う常連客だと自分で名乗った。
 「店主は無口で無愛想だけど、慣れたらこんなに楽なことはない。俺たちみたいに無関心でいてほしい人間にはね」
 セバスチャンは珈琲カップを傾けて、うふふともう一度笑った。クロエは彼の容姿をよく見直す。くるくるパーマにとんがり靴。スリーピースだが、ジャケットとベストとパンツがそれぞれ全く違う柄のちぐはぐなスーツ。かなり奇妙な出で立ちの男。
 「あなたはこの町の人?」
 無関心でいて欲しい、という男に質問するのは少し申し訳ない気がしたが、クロエは偶然を愛していたし、黙って珈琲を飲むににはこの風変わりな店は好奇心を刺激しすぎる。 
 「俺? 俺は違う。遠くから来た。仕事でね」
 「何のお仕事なの?」
 「秘密結社」
 クロエは聞き間違いかと思い、もう一度訊ね直す。
 「秘密結社?」
 「そう、秘密結社」
 「業務内容は?」
 「秘密。秘密結社だからね」
 若い女をからかっているのだろうか。クロエはなんだか少し腹が立って、むっつりと黙る。店主に珈琲、と言うと店主は何も言わず珈琲マシンに向かって何かをし始めた。
 変な店に入ってしまったかしら。クロエは少し後悔する。この店のどこが『幸福』なのかしら。『奇妙』って名前に変えた方が良いわ。
 「嘘だと思ってるんだろう」
 セバスチャンがにやにやと笑うと、クロエはその口の中に下品な金歯があるのを発見する。秘密結社にしては、目立つ男だ。
 「秘密結社なんて、子供向けの都市伝説以外で聞いた事ないもの」
 「そりゃそうさ。秘密だからね。公には宣伝しない」
 「何をする結社なの?」
 「秘密だよ」
 クロエは溜め息をつく。店主が黙って珈琲をクロエの前に置く。奇妙な客と、無口な店主、家出少女と珈琲。
 「呪術とか、猫のミンチを牛肉と偽って売ったりとかかしら」
 クロエが腹立ち紛れにそう冗談を言うと、セバスチャンは訝しげな顔になった。
 「一体何の話だ?」
 「秘密結社の業務内容」
 セバスチャンはうふふと笑って、また金歯がクロエに挨拶をする。やあ、チャーミングな彼女。僕にキスしてくれたりする?
 「そんなものじゃないかもしれないし、そうかもしれない」
 「それじゃあ答えになってないわ」
 セバスチャンは返事の代わりに、微笑みで質問をかわした。パーマ頭が後ろにそって、珈琲が彼の上下の歯の間を滑り込む。
 「正直、なんでもいいのさ。何をしててもいい。それが誰にも秘密であればな。一流のメンバーになれば、もはや自分が何をしているかすらわからない。自分にすら秘密なんだ。何に使うのかわからないなんだか謎の物体を、何日かの何時かにどこかへ運んだりしているよ」
 「それは何の役に立つの?」
 「さぁな。それは誰にも秘密だから、誰も知らない」
 クロエは呆れて、くすくすと笑う。そんなのって滑稽で変てこだわ。だが、セバスチャンは澄ました顔で相変わらず珈琲をすすっている。
 「まぁそんな変でもないだろう。あんただって、自分が生きてる理由なんてわからんだろ。神様はおおいに秘密主義だ。『神秘的』なんて言葉が証明するようにな」
 それに、とセバスチャンは付け加える。こんなにおしゃべりで秘密結社員なんてやっていけるのだろうか、とクロエは余計な心配をする。きっと無関心でいてほしいのも、インタビューされると得意になって答えてしまうからに違いないわ。自分の思いつきがおかしくて、クロエは一人でまたくすくすと笑った。
 「それに世の中には本来の目的を失ったシステムだけが、同じ行動を慣習的にとり続けているなんてことは山ほどある。生きた廃墟、脳死した肉体、何も呼び出せない魔法陣。なぜその規則やシステムがそうなっているのか、なぜそう生きなければいけないのか、誰もいっこうに疑問に思わない」
 そういうのって、虚しい人生だわ。クロエが悲しそうに言うと、セバスチャンはそうだな、と続けた。
 ですが、と幸福の店主が急に口を挟み、クロエは驚いて店主の方を向く。
 「ですが、システムっていうのは一々考えなくて済むようにする為のものですから、それが時の経過とその歯車の回転によって意味や中身を外部に放り出してしまうのは仕方のないことでしょう」
  私は毎日仕入れの時に、ジンジャーエールを買うかどうかで悩みません。なぜなら幸福のメニューにジンジャーエールは無いからです。
 幸福の店主はそう言って、また口を噤んだ。
 
 【3. 詩の好きなコンシェルジュ】
 クロエは幸福を出てからも、ずっとそのことを考えている。なんだかしっくりくるようで、よくわからない話だったわ。
 クロエが宿泊をしようと入ったホテルは、グランド廃墟、という名前だった。普通だったらそんな名前のホテルはごめんだったが、『目的を失っても動き続けるシステム、生きた廃墟』という言葉が彼女の頭に残っていたのだろう。クロエは鞄と共にそこに入った。
 コンシェルジュはどこか神経質そうで、けれど全体的には穏やかな風貌の中年男だった。
 「本日はご旅行ですか?」
 コンシェルジュが笑顔でクロエに訊ねる。そうです、とクロエは答えると、もう町は廻られましたか? とコンシェルジュは更に訊ねてくる。そこでクロエは思い立って、幸福という喫茶店に入ったこと、秘密であることが存在意義の秘密結社のこと、本来の目的を失ったシステムについての話をした。コンシェルジュは笑って話を聞いてから、チェックインに必要な書類をクロエから受け取る。
 「確かに、そんなものかもしれませんね。機械の仕組みがわからなくとも、こうしてコンピューターを使えているのと似たようなことでしょうか。細かな理由や意味を知らずとも、全体的な輪郭さえ掴めていれば物事は上手くいくのかもしれません」
 コンシェルジュはそういって、コンピューターにクロエの情報を打ち込んでいく。
 「私は、コンシェルジュの癖に詩が好きでしてね。若い頃は詩人になりたいと思ったものです。ですが、詩では家族を養えませんでね……それでホテルのコンシェルジュになったというわけです」
 お客様はお仕事は? とコンシェルジュがクロエの漆黒の瞳を覗き込む。クロエは職場のことを思い出して、少し居心地が悪くなる。クロエが無断欠勤をしていることを職場の人々はどう思っただろう。今日は忙しいだろうか。申し訳なさと気まずさから、背中がじんわりと汗ばむ。
 コンシェルジュはその雰囲気を感じ取ったのだろう。また自分の物語を話すことに決めたようだった。
 「不思議なものでね、自分は詩人になりたい、詩人になりたい、と願っていたのに、今ではもうすっかり私はコンシェルジュなんです。毎日決まった時間に出勤して、このホテルのフロントでこうしている時間が一番自分らしく思える」
 男は元々コンシェルジュではなかった。だが、コンシェルジュをしているうちにコンシェルジュになった、と笑う。
 「詩を読んでいる時なんて、今ではなんだか座りが悪いくらいですよ。本当に不思議に思います。私がコンシェルジュとして毎日を過ごしているからこうなったのか、それとも私は生まれた瞬間からコンシェルジュになるよう運命付けられていたのか。どちらなのかと」
 クロエはセバスチャンの声を思い出す。
 ―秘密。秘密結社だからね―
 セバスチャンは元から秘密主義だったのか、それとも秘密結社員だから秘密主義になったのか。
 神様は秘密主義。神秘的という言葉が証明するように。もしくは、我々人間が開示されている情報に対して理解力を併せ持たないというだけの話かもしれないけれど。
 あなたは。
 クロエの声にコンシェルジュが振り向く。
 何か、仰られましたか?
 「あなたは、コンシェルジュだからホテルにいるのかしら。ホテルにいるから、コンシェルジュなのかしら」
 クロエの言葉をゆっくりと回転させて、隅々まで吟味するように眺めたあと、コンシェルジュは言った。
 
 「私はホテルにいなくとも、コンシェルジュではないかと思います」

 殻を無くしても蝸牛は、なめくじにはなれない。蝸牛はずっと蝸牛のままなのだ。それは存在意義というよりも、運命だ。身体に貼り付いた運命。自分という個体に刻み込まれた製造番号。
 ホテルグランド廃墟が無くなったとしても、男がコンシェルジュを辞したとしても、男は詩人にはならない。男は既にその存在自体がコンシェルジュなのだ。
 
 クロエはホテルの部屋で、子供の頃に絵で金賞を穫った時のことを思い出している。それは宇宙を描いた絵で、コンテストで金賞を穫って市長室に一週間ほど飾られていた。
 クロエは絵が上手で、絵を描くのも好きだった。けれど、画家にはならなかった。金賞まで穫ったのに。
 それはクロエが画家ではなかった、ということなのだろうと思う。才能というのは、きっとそういうことではないのだ。
 白く煙る窓の外を猫が暢気に歩いていく。彼女たちは自分が何者であるかなど、悩んだりしない。コンシェルジュや秘密結社員のように、当たり前に猫でいる。
 どんなに上手にデッサン出来ても、写実的に描けたとしても、絵を通じて宇宙を構成する数式を解けなければそれは才能ではない。人は才能を通じて、世界と繫がるのだ。才能というディスプレイでしか、正しく世界を見ることは叶わないのだ。
 あの金賞を穫った絵はどこにやってしまっただろう。家のどこにもあった記憶がない。捨ててしまったのだろうか。あの母のことだ。きっと引っ越しの際にでも捨ててしまったのだろう、とクロエは溜め息をひとつだけついた。
 
 【4. 殺し屋と薔薇色の頬】
 ホテルの食堂は閑散としていて、薄暗く冷たい色のコンクリートで出来ている。無機質で血の通ってない大食堂。その胃袋の中には、クロエともう一組、親子がいるだけだ。
 父親は血色が悪く、タロットに出てくる死神のような風貌。子供は父とは打って変わって、薔薇色の頬と美しくカールした金髪を持つ少年だった。
 クロエが親子を眺めていると、父親と目が合った。
 「可愛らしいお子さんですね」
 クロエが気まずさを誤摩化すようにそう言うと、死神に似た父親は微笑んだように見えた。微笑んだというよりは、顔の筋肉を痙攣させたという方が良いような微笑み方だったが。
 「こいつは母親似でね。この細く柔らかな金髪も、薔薇色の頬も、母親譲りだ。俺は見ての通り、ギシギシで枝毛だらけの黒髪で、頬は自殺の名所の断崖絶壁のように不気味に痩けているから。俺の遺伝子がこいつの身体の中で悪さをしなくて、本当に良かった」
 クロエが男に身元を訊ねると、男は自分は殺し屋だ、とこともなげに言ってのけた。クロエは最初冗談かと思って笑ったが、父親も子供も笑わなかったので、それはどうやら真実のようだとクロエは思いなおした。
 花の良い薫りがした。父親の香水かと思って訊ねると、父親は子供の母親の残り香だ、と呟いた。もう何年もこの残り香が、俺たちの周りに残って、薫る度に後悔と失望を自分の胸に蘇らせる、と。
 冷たい食堂には、陰惨な絵が四角い額縁に入れられて飾られている。それが有名な絵なのか、それとも雑貨屋などで売られている無価値な単なるコピーなのかは、クロエには判別がつかない。
 コック帽を深く被った無表情のコックが、台車に乗せた料理を売り歩く。クロエと親子以外のいない食堂の中を、うろうろと歩き回って。
 それで、殺し屋って?
 父親は目の前の料理を凝視して、話し始めた。
 「俺も良い事だとは思っていないよ。誰かの命を勝手に頂戴するわけだからな。けれど俺は、息子の薔薇色の頬を守られなければいけない。こいつの母親に似たこの金髪と、美しい瞳を。それには金がいる。殺し方は様々だ。ターゲットの恋を寝てるうちにびりびりに破いてしまったり、憂鬱な曲ばっかりがシャワーのノズルから出てくるように細工したりな」
 「そんなことで、人って死ぬのかしら」
 クロエの質問を無視して、殺し屋は独白を続ける。
 「学者の家の前に綺麗に整列したセレンディピティを、ばらばらに並べ直したこともある。物事には順序ってものがあって、その並びが崩れるだけで意味をすっかり失ってしまったりする。その学者はそれを見てショック死し、ライバル学者はその遺体から閃きの種を得る。で俺とこいつは、金を手にいれるってわけだ」
 溝鼠の肉と南瓜の皮のキッシュをコックに薦められて、クロエは丁寧にお断りする。ドブアレルギーなの。
 では、人毛パイは? いえ、それも結構。
 クロエは殺し屋に、質問をする。秘密結社員の言葉によって生み出されて、コンシェルジュにもした質問を。
 「あなたは殺し屋だから殺すのかしら。殺すから殺し屋なのかしら」

 「俺は父親だから殺し屋になって、父親だから殺すのさ」

 あなたは厳密に言えば、殺し屋じゃないのね。
 「そう、俺は厳密に言えば殺し屋じゃない。殺し屋を職業とする、美しい金髪と薔薇色の頬を持つ息子の父親だ」
 クロエは息子を見る。息子は微笑んで、溝鼠の肉と南瓜の皮のキッシュを咀嚼していた。
 「あなたは父親になって、良かった? 父親にずっとなりたかったのかしら」
 「いや、俺は若い頃は警察官になりたかった。正義感が強い子供だった。だが運命は皮肉屋で、神は秘密主義だから脚本をあらかじめ渡してはくれない。気がつけば日々は過ぎて、こいつが生まれて、俺は父親になっていた」
 「正義感の強い人が、殺し屋に?」
 「正義を執行するのも、悪を執行するのも、同じことだ」
 対極にある事柄は、カードの裏と表。全く真逆だが、それは同じ一枚のカードだ。殺し屋は自嘲気味に笑った。
 「俺もいつか、子供を持つ警察官や裁判官に、死刑にされるかもしれないな」
 クロエは殺し屋の呟きに、哀しみを覚える。なんて言えばいいか迷っている間に、キッシュを食べ終えた息子が睡気を訴え、親子は自分たちの部屋に戻っていった。
 クロエは無表情のコックから放射性物質アイスクリームを受け取って、スリリングなデザートの冷たさでクールダウンする。

 【5. 何者かにならなければ、永遠に何者でもないまま】
 私はもう何者かなんだろうか。それとも、これから何者かになるのだろうか。
 クロエは部屋のベッドで横になって、見知らぬ天井を見つめる。人は皆、何者かになり、そのなった何者かのルールに従って慣習を生み出す。そうして徐々に慣習だけが残り、意義は失われていく。
 秘密結社は引退後も秘密を墓まで持っていくだろうし、コンシェルジュはホテルを失ってもコンシェルジュのまま。殺し屋の父親は息子が自分で食い扶持を稼げるようになっても、きっとずっと殺し屋の父親のままだろう。
 蝸牛が殻を奪われても、なめくじにならないように。
 そうして最後はその身体も失い、何億個もの粒子になり風に舞うのだ。
 何者でもなく生まれ、何者かになり、再び何者でもない存在になる為に少しずつ意義を手放していくシステムたち。建物たちは皆あまねく廃墟になる。慣習だけが稼働する、意義や目的を見失ったホテルグランド廃墟。
 クロエは母のことを思う。愛している父ではなく、一向に自分を理解しようとはしてくれない母のことを。
 彼女は何者なんだろう。母なのか。女なのか。それとも保険の勧誘員なのか。もしくは別の何かなのか。
 彼女は質問をしたら、なんと答えるだろう。
 「あなたは何者なの? あなたの人生は何の為にあるの?」
 親の人生は子供の為に犠牲になっているのだろうか。息子がいなければ、殺し屋は警察官になれていたのだろうか。
 家族がいなければ、コンシェルジュは今でも詩を書いていただろうか。
 クロエは自分の腹部の、子宮のある位置に手を置く。
 そこに自分の心臓と別に、もうひとつ生命の欠片がある。それはクロエに何者かになれ、とせっつく。人生は短い、季節は過ぎ去る。さぁ、急げ。急いで何者かになれ。それから得たと思った瞬間に、手放す準備を始めろ。そうして、旅立て。
 さっき食べた放射性物質アイスクリームが、体内で脂肪に変わる。栄養を摂って、生きる。だがそれはいつしか脂肪と老廃物となって、体外へ排出される。
 我々は毎日、細胞分裂を繰り返し、古い細胞は死に絶え、新たなる細胞が生まれる。得て、手放す。それを繰り返した後、我々は徐々に手放す量を増やしていき、ここから居なくなる。
 秘密結社も、コンシェルジュも、殺し屋も、猫も、薔薇色の頬の子供も、無表情のコックも、溝鼠のキッシュも、母も父もクロエも。
 見知らぬ天井を見つめている自分が此処にいることが、まるで奇跡かのようにクロエには徐々に思えてくる。神様の生み出した奇跡的な確立の悪戯。複雑に入り組んだ難解な暗示。歯車と歯車が噛み合って、数千億の物語が矛盾と齟齬なく、成立している宇宙。
 いつか無くなるものと共に、生きるこの一瞬。
 輝かしい一瞬を、灰色で退屈にしていたのは?
 クロエの目尻から涙が、溢れる。私も私の与えられた何かで、宇宙のパズルを解きたい。美しい方程式を発見したい。
 そう、まさにその為に我々は生まれて来たのだから。

 【6. エピローグ】
 クロエが家に戻ったのは、それから三日後のことだった。そして母と父の家から出て、自分の小さな部屋を都会に借りたのはその半年後だ。
 クロエは都会の片隅で家賃や光熱費を稼ぐ為の仕事に就いている。仕事前に風呂掃除や洗濯をしなくとも、誰にも𠮟られない部屋。クロエは好きなタイミングで風呂掃除をして、洗濯をする。
 自分の好きな体型になる為には、プラスマイナスをする必要がある。脂肪と老廃物を捨て、栄養を得る。必要な栄養もいずれは脂肪と老廃物に変わることを知りながら。
 鋏で切った指先は、二つの肉片に別れ、別れたまま治癒され、裂け目が埋まったことによって、もう一度ひとつになった。
 無理矢理ひとつにしなくてもいい場合もあるし、いずれは手放すものを必死になって手に入れる必要もあるのだ。我々は別れた先でそれぞれに癒され、また根っこで繋がれる。
 一年に一度、クロエは母と父に逢う為に実家へ戻る。母は相変わらず口煩いが、クロエは自分が納得出来ること以外は言うことをきかないようにしている。大体いつも母は怒り、クロエは都会の片隅の自分の小さな部屋へとさっさと帰る。
 クロエが帰った日の夜はいつも文句と共に、元気でいなさいよ、と書いたメールを母はくれる。
 クロエは何者でもなくなる為に、少しずつ何者かになる。何かを手放す為に、何かを得る。そして小さな動く廃墟になり、最後には風化し、いなくなる。

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