洋酒町は今日も晴れている
洋酒町の駅を降りて、小汚いまちかどや美しい植え込みの脇を通り過ぎた先にその雑居ビルはある。建てられてから既に七十年近くが経っているそのビルは洋酒町の中でも特に細くて静かな路地にあり、そのビルの中で《いちばん屋》は営業している。
恩田詩織はビルの入り口に立って、目の前にそびえ立つ古い建物を見上げていた。ビルの入り口には幅の広い階段が数段あり、その先に昔は透明であったであろう観音開きの硝子扉が居眠りするように閉まっている。奥には老い寂れた緑の公衆電話の棲むロビーと、その向かいに電話と同じくらい古びたエレベーターがある。
「入るなら入ってくださいませんこと?」
食糧やワインボトルのつまった紙袋を片手に持った真顔の美しい女性が、いつの間にか詩織の背後に立っていた。履いているデニムは太いが、手首や肩口からとても細い体型をしているということがわかる。うなじの上で綺麗に切り揃えられた黒のボブヘアが彼女が首を振る度に揺れて、香りのサーヴィスをしてくれている。
「古い眼鏡の歴史とか蘊蓄を聞きに来たのかしら。それとも占い師を占うことによって占われに? まさか、魚屋じゃないわよね」
女性の言っていることは詩織にはひとつもわからなかった。だが詩織の目的はそのどれでもなかったので、とりあえずは首を横に振っておいた。
「よかった。変人と関わるのはごめんだもの。どれでもないなら、うちね。どうぞ、ついていらして」
彼女はそのファッションに似つかわしくない風雅な喋り方でそう言い、素早く詩織を追い越した。そして細い肩で硝子扉をぐいと押して入ると、古びたエレベーターの前まですたすたと歩いた。
扉の奥で振り向いて「押して下さる? ボタン」と無邪気に笑った彼女の可憐さにつられるようにして、詩織は彼女の方へと走り出していた。
そのビルには確かに《ヴィンテージ眼鏡の仏見堂》や《占わせ師 イヌ下の館》、それから《天空の魚屋 魚多》などがテナントとして入っていることを、エレベーターの横の案内板で詩織は知った。それらすべての階を通り過ぎた屋上にその女性は暮らしているのだった。
「どうぞ、入っていらして」
屋上に建てられた小さな一軒家の奥から、先に入った女性の声がする。がさがさと荷物を置く音と、買ってきたものを冷蔵庫に入れて扉を閉める音も。
「あの! 私、ちがうんです。知人を助けたくて、それで、あの、私......」
詩織は緊張で震える喉をなんとか締め上げて大きな声を出した。詩織にとってはかなり大きな声だったが、その日はあまりに空が青すぎて声の大半は吸い込まれてしまった。
「《いちばん屋》に来たんでしょう」
届かないと思っていた詩織の声はなんとか届いたようで、女性の返事が扉の奥から聞こえた。がさがさ、ばたん。
「そうです! じゃあ、あなたが《熱帯魚》さんですか? 私、私、知人を助けたくて来たんです!」
「やだ! あんな変な人と間違えないでいただきたいわ。ねぇ、お客さんみたいよ」
女性の声に合わせて部屋の奥がごとごとと鳴る。いて、とか、あた、とか言う小さな声と共に、扉からひょこっと顔が覗いた。さらさらの黒いストレートヘアの下で少年のような顔がにこにこと笑っていた。
「僕が《熱帯魚》、《いちばん屋》の主人です。いらっしゃいませ」
こちらはミス・《ハローワールド》ですと彼はさきほどの女性を手のひらで示し、《ハローワールド》と呼ばれた女性は頭をさげた。あまり愛想がいいとは言えないが、怒っているわけではないらしい。それに見ているこちら側も不快な印象は受けない。不思議な女性だ。
どうぞ。
《熱帯魚》は詩織を部屋に招き入れる。ふたりは《ハローワールド》がしゃがみこんで買ったものを仕分けしている横を通って、リビングへ向かった。
リビングには《ハローワールド》のものであろう化粧品や洋服が整理整頓されて、きちりきちりと収納されている。
この部屋は《熱帯魚》の部屋でもなければ《いちばん屋》の事務所でもないだろう。ここは明らかにミス・《ハローワールド》の住居だ。詩織がそう推察して戸惑っているのを読み取ったのか、それとももう幾人にも同じ質問をされたからなのか、《熱帯魚》は振り向いて詩織が質問するよりも先に答え始めた。
「そうなんです。《いちばん屋》はミス・《ハローワールド》のロフトを間借りして営業させていただいているんですよ」
ロフトを間借りして営業? この男は何を言っているのだろう。それにこんな変な人にロフトを快く貸しているなんて、《ハローワールド》だって随分と変だ。詩織は心の中でふたりを非難する。徐々に不安になってきた。
ロフトは天井に近く縦に狭かったが、奥行きと広さはそれなりにあった。奥には高さのない水槽や小さな珈琲メーカーもあり、四つん這いで進まなければならないこと以外は特に問題はなかった。それが一番の問題といえば、問題ではあったのだけれど。
胴長の愛玩犬のように短い脚の机の上に出された珈琲を飲みながら、詩織はここに来た事情を説明しはじめた。寝そべって飲むホットの珈琲はじんわりと喉や胸を温めてくれて、とても美味しかった。
その人は昔、チェス盤だったのです。
「ほう。あなたのチェス盤が人間になったと」
《熱帯魚》はずうっと珈琲に息を吹きかけていて、一向に飲もうとしない。詩織はさっきから、それがずっと気になっている。
「いえ、違うんです。話はもう少し複雑で」
彼女の職場でもある美術館で、その男とは出会った。詩織はそこの学芸員の仕事をしていて、男は美術館に来る客の一人だった。
彼はその美術館の常連で、足繁く来場してはいつもひとつの絵をじっと見つめているのだった。来場日はまちまちで平日の日もあれば休日の日もあったが、どの日に来ても男は他の絵には目もくれず《エドメ・トー》という画家の描いた『チェスをする男たち#4』という絵の前で立ち尽くしていた。来場しては閉館時間までずっとそこに立っているだけ。
ある日、たまりかねた詩織は男に声をかけてみることにした。
「その絵がお好きなんですか? 作者は南フランス出身のエドメという画家で......」
男は詩織の説明をじっと終わりまで聞いてから「このチェスをしている男は僕なんです」と一言こぼした。
男の名はホタルと言った。彼は学生の頃は画家志望で、家が裕福なこともあり、在学中にフランス留学をしていたらしい。その時にエドメ・トーとも懇意になり、この絵はその時期に描かれたものなのだという。
そう言われてみれば、絵の中の男は、年若いホタルだと見えないこともない。
「思い出を懐かしがっていらしたんですね。お邪魔しちゃったかしら」
詩織がそう言うと、男は悲しげな顔を見せた。まるで捨てられる前のくしゃくしゃのちり紙のような顔つきだった。
「違うんです。僕の意識はこの時、自分ではなくて自分の前に置かれているこのチェス盤にあったのです」
「おっしゃっている意味がちょっと」
《熱帯魚》はようやく珈琲に口をつけながら、戸惑った表情を示した。その通りだ、と詩織は思う。ホタルの言うことは全く支離滅裂で、詩織も最初は意味不明だと思ったのだ。だから早々に話を切り上げて、彼から離れようとした。《ハローワールド》じゃないがなるべく変人とは関わり合いになりたくない。しかし、その瞬間、ホタルは泣き崩れた。おいおいと、キャンプ用の椅子のようにその長い手足を小さく折り畳み、丸くうずくまって。
詩織は半休をとって、泣き続けるホタルを近くの喫茶店へ連れていった。異例なことではあったが、美術館側も展示作品の前で泣かれ続けては堪らないと思ったのだろう。早く連れていってくれと言わんばかりに素早く詩織の早引けを認めたのだった。
カフェでも散々泣いてから詩織の貸したハンカチで鼻をかみ、ホタルはやっと事情を話し出した。
「僕はある時期チェス盤だったんです。そして今も心はチェス盤のままだ」
チェス盤であった経験はホタルにとって、相当に良いものだったらしい。使われていない時には静かな暗闇で放っておかれ、使われる時も思考の生み出す静寂の底でカタコトと駒が動かされるのを待つという穏やかな時間だったという。
「チェス盤に比べて、人間の暮らしは騒がしくて煩わしいことが多すぎます」
チェス盤に戻りたい、とホタルはまたさめざめと泣いた。
「それで、なぜうちに?」
僕にはひとをチェス盤には変えることは出来ませんよ、と《熱帯魚》は眉をひそめる。眉間の奥に小さな魚が住めそうなほどに深い溝が形成される。
「ええ、私もそんなことは求めていません」
詩織のきりっと冷えた果汁のような声。
「では、一体なにを?」
「彼に人間の暮らしも悪くないって思わせてあげて欲しいんです」
詩織の言葉を聞いて《熱帯魚》はようやく微笑みを取り戻した。
「なるほど。そういうことならば、お役に立てないこともないかもしれません」
****
《いちばん屋》は七年前に《熱帯魚》が立ち上げた個人的な事業で、そのキャッチコピー『いちばんおいしいところを、元氣のないあなたに』の通り、様々な事柄のおいしい部分をひとに分け与える仕事である。
商売になるのか、そんなものが。《熱帯魚》の大学の友人たちは口を揃えて心配したが、《熱帯魚》はともかくやってみる、とだけ言って事務所探しを始めた。
最初の事務所は北山猫の三丁目に借りた。借りたは良いものの肝心の依頼者が来なかった。それはそれは来なかった。冬の次に秋が来ないほどに来なかった。
そうして北山猫の事務所はあっという間に家賃を支払えなくなり、あっけなく追い出されることとなった。
次の事務所はなかなか見つからなかった。当然だが、大家や不動産屋は収入を氣にする。収入を氣にする人々は仕事を氣にする(これもまた当然のことだ)。なので、さらに当然なことに「お仕事はなにを?」と聞かれることとなる。そこで《熱帯魚》は《いちばん屋》のコンセプトと実績を嘘偽りなく話す、すると先方は大概つめたい表情で書類をぱたぱたと閉じることになる。
「こう見えて、わたしも忙しいんです。ふざけた理由で呼ばないでいただきたい」
鍵を持っていない冷凍庫の鉄の扉のように、《熱帯魚》の前に世間は冷たく硬く閉ざされていた。彼は決してふざけてなどいないのに、なぜかみんながみんな揃って怒るのだった。
困り果てた《熱帯魚》はあてもなく街をさまよい歩いた。あてはなかったが、歩いているいうちに大学時代の友人と偶然出会い、夕食を共にすることとなった。彼は金がないからと断ったのだが、相手は「ひとりで食事をするのに飽きていたところなんです」などと言いながら、困惑する《熱帯魚》を引っ張って小さなレストランへ入ったのだった。
ごろごろ野菜のスープと青黒豆で出来たパティ。そしてヴィーガンチーズのピザとサラダ、それから青味唐辛子とパプリカと正直者トマトのフジッリ。まず控えめに口に含んだパティはもきゅと口の中できしみ、滲み出る旨味の奥に少しの辛味を含んでいて美味かった。赤ワインはグラスの中で手足を伸ばして、眠氣とまどろみの海を泳いでいる。その後も料理はどれもとても素晴らしい味だった。
《熱帯魚》は良質なベジタリアンフードとナチュールワインにすっかり良い氣分になり、自分の今の情けない現状をすっかり友人に話してしまった。舌の根っこがぴりぴりと心地よく痺れているのは、暴露の持つ甘やかな毒性のせいか、それともフジッリに練りこまれた青味唐辛子のせいだったか。
「ふうん。ならうちでやればどうかしら? そんなに広くはないけれど、ロフトなら貸してあげられます」
大学時代の友人、ミス・《ハローワールド》はこともなげにそう言った。まるで動物園の檻の外側から闘志も野生も失った獣を見て、興味も驚きもなさそうに鼻をならす時のように。
良いの? 良いよ。やりとりはそれだけだった。難しい書類も審査も無し。《熱帯魚》は初期費用として最後に残していたパティの端のかりかりした食感と汁氣を吸ったぐじゅぐじゅが同時に楽しめるひとくちを《ハローワールド》に進呈した。なにを隠そう、それが《いちばん屋》の初仕事だったのだ。
「いらない、って言われましたけどね」
でしょうね。詩織は喉元まで出かかった言葉をむりやりに飲みくだした。それに話の通りならパティの最後のひとくちどころか、その日の食事代は全てミス・《ハローワルド》が払ったのではなかっただろうか。
ともかく、そうして《いちばん屋》はなんとか営業を続けることが出来たというわけだ。そのうちに幾人かの変わり者が依頼に来て文句を言ったり満足したりしていき、そういった依頼をこなすうちに《熱帯魚》にも《いちばん屋》という世の中に類のないこの職業のこつというか、うまくやる方法のようなものがわかってきたのだった。
この仕事でいちばん大事なことは依頼者の氣持ちにきちんと寄り添うということだ。《熱帯魚》はそう思う。《いちばん屋》に依頼するひとたちは皆、一様に傷ついている。傷ついたひとびとに必要なのは解決策やアドヴァイスなどではなく、寄り添ってくれる誰かの沈黙なのだ。女嫌いになったレズビアンのときも、好きになった女が食肉業者だったベジタリアンのときも、ありとあらゆるデザインがひとの顔に見えてしまうシュミラクラ現象に取り憑かれた建築家のときもそうだった。傷は理論や正義ではなく、無口な優しさの付き添いを求めている。
なので《熱帯魚》はまずそのチェス盤に戻りたいという男の氣持ちを知る為に、チェス盤の氣持ちを探ることから始めた。
手始めとして駒を買ってきて、自分の上に並べてみた。《熱帯魚》の身体は平らではないので駒は呼吸にあわせてぐらぐらしたり落ちたりしたが、それでも少しは身体の上に駒を乗せることが出来た。
駒の底面部はひんやりとして、氣持ちがよかった。《ハローワールド》に頼んで駒を移動してもらうと、駒を置く強さや速さによってプレイヤーの心理状態やゲームの状況が推察できるようで楽しい氣持ちにもなれた。
それは世界で一番しずかな戦いだった。チェス盤はその静かな戦いにおいても兵士どころか司令官ですらないのだ。それは大地の安らかさだった。駒やプレイヤーの一喜一憂やうねる運命の物語をただ黙って見つめるだけの、冬のあたたかな部屋で良質なミステリを読む氣侭な読者の安寧だった。
なるほど。これに永いこと慣れてしまったら、ひとの暮らしはさぞ騒がしく見るに堪えないに違いない。《熱帯魚》は熱い湯に浸かる時のように腕組みをして少し思案していた。それから幾度か頷いて身体を持ちあげると、駒たちがばらばらと床に落ちた。《熱帯魚》は早速準備にとりかかることにした。
***
《熱帯魚》から連絡がきたので、詩織はホタルを連れて《いちばん屋》を再訪した。
《熱帯魚》はこの前とうってかわってぴしっとしたシャツ姿で、清潔そうなエプロンをつけている。
「ご足労ありがとうございます。本日は一日お時間をいただきますが、ご予定は大丈夫でしょうか」
今日ふたりは例のロフトではなくミス・《ハローワールド》のリビングへと通され、ダイニングテーブルへと腰かけていた。
「ええ。正直なにがなにやら、わかってはいませんが恩田さんがどうしてもとおっしゃったので来ました」
呟くように話すホタルはなるほど、驚くほどの美男子だった。その顔には沈鬱さが貼り付けてありはしたが、その物憂げな表情すら彼の美しさをなんら損なう役割を果たせずに、逆に彼の彫りの深い顔つきの陰影を深くしているだけだった。
詩織は先立って『知人』とホタルとの関係を評したが、彼のとなりにいる時の彼女の表情は単なる知人のそれではなく見えた。彼女はホタルのことが好きなのだろう。そしてホタルの方でもそう憎くは思っていまい。だから今日も詩織に連れられて、こんなところまでやってきたのだ。
「わかりました。では早速、とりかかりましょうか」
椅子から立ち上がった《熱帯魚》はふたりの依頼人を連れて部屋を出ると、エレベーターには乗らずにまっすぐ世間のように灰色で硬く冷たい階段を下り始めた。
「階段は健康に良い。そしてこの『とっとっ』という足音も耳に非常に心地良い。階段というのはある種の楽器だね。聞いてごらん、この軽やかで楽しい音を。それに比べてあのエレベーターとかいう粗野な乗り物の音ときたら。ガー、ガー、ゴン、ドゴン、ズー、だ。うるさくて聞けたものじゃない。あんなもの、未開拓地のひとびとでさえ乗らないと思うな」
階段を軽快に下りていく《熱帯魚》の声には憎しみが、専門店のシュークリームの中のカスタードほどにたっぷりと注入されていた。
こわいんですね、つまりは。
そう言いかけてやめて、詩織はホタルの方を見る。整ったその横顔はまだ憂鬱に歪んではいたものの、《熱帯魚》の言う通りに階段と靴底の奏でる小氣味良い音を静かに聞いているようだった。
四階のフロアには扉がふたつあり、ひとつは単なる住居らしい。もうひとつには《占わせ師 イヌ下の館》という看板がかかっていた。《熱帯魚》はイヌ下の方のチャイムを鳴らし、家主が出てくるのを待たずにその扉を開けた。鉄製の扉はぎいと嫌な音を立てて開き、中からは昔友人の家にお邪魔した時に嗅いだような匂いだけが三人を出迎えた。
「入りますよう」
ずかずかと無遠慮に入っていく《熱帯魚》についていくと、祖母の家にかかっていたような玉すだれの奥、冷たい床が支配するキッチンの更に向こうの部屋に配置された大きなベッドとこたつの間にイヌ下はいた。
イヌ下は白髪にくるくると大仏のようなパーマをあてた小さな老婆で、見た瞬間に苦手なタイプの老人だと詩織に予感させるような顔つきで烟草を吹かしていた。
「こちらはイヌ下さん、占い師さん。イヌ下さん、今日も宜しくお願いしますね」
氣安く挨拶をする《熱帯魚》の口調と相反して、イヌ下の表情はディーラーがしきりに有閑マダムに勧める宝石よりも固く一切和らぐことがない。
「早くしとくれ。こう見えて忙しいんだ、アタシも」
濡らしてくちゃくちゃに丸めた新聞紙のように、襞だらけの声だった。魔女。詩織の脳裏にそんな二文字が過る。
「考え続けたら、ストレスになります」
《熱帯魚》はにこにこしたまま、そう口走った。詩織とホタルには一連の会話の意味がわからない。疑問だらけだ。《熱帯魚》の謎めいた言葉の後には何も起こらない。イヌ下は黙ってその皺だらけの口の中で、草を反芻するように歯のない歯茎をむにむにと擦り合せるだけだ。
考え続けてストレスそのものになりそうになった詩織が質問をしようと口を開きかけると、「しっ」唇に指をあてた《熱帯魚》がそれを制した。
「イヌ下さんは相手に自分を占わせることによって、占うタイプの占い師なんです。今、僕の占いを吟味してくれているところですからお静かに」
占わせることによって占うタイプの占い師? 更にわからなくなった。例え言葉の通りの意味だったとしても、『考え続けたら、ストレスになります』は占いか?
詩織は徐々に心配になってきた。ホタルのことを相談する相手を間違えただろうか。奇妙な老婆の奇妙な居間で過去の自分の選択を詩織が悔やんでいると、イヌ下が目を開く。カッ! と音の鳴りそうな勢いのいい開き方だった。
「良いだろう。何を占う?」
しわがれた声だった。さっきよりも、もっともっと。
「あれは占いなの?」
詩織は我慢しきれずにイヌ下に尋ねた。余計なことを言うなと言わんばかりに《熱帯魚》は詩織を軽く睨んだが、こんなに氣になることを放置して次の占いなど聞けるはずがない。急に「走り続けたら魚になる」などと言われてでもしたらどうするつもりなのだ。詩織は逆に《熱帯魚》の方を睨み返した。
「世の中にある多くの言葉は占いであり、啓示さ。アタシにとっちゃね」
イヌ下はこともなげにそう呟いて、香を焚きしめ始めた。麻のような、藺草のような匂いの煙が部屋に漂う。
「あんた、仕事は?」
「美術館の学芸員です」
「ふん。じゃあ、あんたにとっては世界の多くは芸術であり、そして解説するべきものの筈だ。違うかね? 違うのなら、あんたは大した学芸員じゃないね」
たくさんの色が様々な形に囚われながら刺繍されているブランケットを出して、イヌ下は詩織の身体を包んだ。そのブランケットは目が粗くざらざらしていたけれど、夜の森で興した野火のように暖かく頼り甲斐があった。
「解説するってことは解説されるってことだ。違うかい。あんたは解説しながら自らの理解をさらに深めていく。アタシだってそうさ。占うことは占われることで、未来を知るってことは過去を紐解くってことだ。言葉にすることは影響、読んで字の通り、影に響かせることさ。影は光に影響し、光は影に影響する。影響を与えれば与えた側も影響を受ける。そういうもんだろう」
イヌ下は紙と鉛筆を出して何かを書き出す。それは文字のようだったが、詩織には読めなかった。
イヌ下の声は最早しゃがれてはいない。新聞紙は乾かされ、いつの間にかぴしっとアイロンがあてられていた。
「ふむ。《熱帯魚》よ、すまないけどね、今日はあんたじゃなくてこの嬢ちゃんとそちらの彼を占う日みたいだ」
「ぼくは《いちばん屋》ですよ。それこそ願ったり叶ったりだ。さ、やっちゃってください」
《熱帯魚》はどうやら最初から詩織たちに占いの権利を明け渡すために、わざわざこの部屋にやって来てこうしてイヌ下を占ったようだった。いつしか照明は間接照明へと切り替わっている。部屋の中は薄暗く、そこだけ切り取られたようにやけに浮いている窓の向こうで空だけがぽっかりと青かった。
イヌ下はゆっくりと揺れ始めた。トランス状態というのだろうか。こういった状態のひとを詩織ははじめて目にしたが、不思議と恐怖や驚き、嫌悪感などは感じなかった。遠い昔、自分の記憶すらないほどのいつかに、こういったひとの仕草を見たことがある、とおぼろげに思っただけだ。
トランス状態に陥ったイヌ下の身体はぐるぐると倒れかけの駒のように円を描き、最後はがくんと前のめりに倒れた。
「いいか。冬の半ズボンは禁止されちゃいない。珍しいってだけでな。いろんな温度感の人間がいる。自分で体温調整しなけりゃ、ひとは誰もしてくれない」
イヌ下の声はまったく違うひとの声のようだった。
それだけ言うと、イヌ下はうなだれた首を更にがくん、とうなだれさせた。睡眠不足のひとが堪えていた眠りの深い溝に、一瞬間だけ捉えられてしまった時のように。そして彼女は我に返ったように二、三度首を回してからぱちりと電氣をつけた。それだけ? あっけない幕引きだった。
身体からブランケットをはぎとりさっさと片付けをするイヌ下を見ながら、さっきこの老女が言った言葉を詩織は心の中で繰り返してみる。隣でホタルも何かを考え込んでいるようだった。
玉すだれ、玄関で靴を履いて、挨拶と再度の階段を降りる音。三人はあっという間にイヌ下の館から出た。
次に《いちばん屋》がふたりを連れていったのは三階の《ヴィンテージ眼鏡の仏見堂》だ。《熱帯魚》が扉を開けると、そこは普通の部屋に見えた。何の変哲もない、団地の小さな一室。しかしその室内には、ありとあらゆるところに所狭しと大量の眼鏡が置いてあるのだった。
「やあ、教授。こんにちは」
《熱帯魚》は靴を脱いで、部屋の奥にいる眼鏡をかけた痩せた五十代ほどの男に声をかける。教授と呼ばれたその男は美しく整えた白髪の下に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら手に持った眼鏡を拭き拭き、縦に首を揺らした。彼がそうした仕草をした時に、それが彼にとっての『笑顔で客にお辞儀をする仕草』なのだと氣付けたものはいつだってほとんどいなかった。その時の詩織たちもそうだったように。
教授は細身の身体にぴちぴちでもだぼだぼでもないみつ揃えのスーツをふわりとまとっていた。皺のないスラックスが彼の長い足の美しさをより演出している。
洋服や表情や部屋の中を見る限り、教授は神経質なほどに綺麗好きなのだということが推測できた。しかし、その割には眼鏡だけは本当にありとあらゆるところに置かれていてそれは散乱と呼んでも差し支えないほどだ。こたつの上に箪笥の上、部屋と部屋の間、本棚の中や食器棚の食器の中など、本当に様々な場所に眼鏡はあった。それが教授の雰囲気と相反していて、見るものにひどく奇妙な気持ちを抱かせるのだった。
「このひとに似合う眼鏡を」
ホタルの腰に手をあてて前に押し出しながら《熱帯魚》のした注文に、教授はまた首を揺らした。そして苦虫を更に口に数匹いれてゆっくりと咀嚼したような顔つきになり、部屋の中をうろつきはじめる。その姿はまるで広い眼鏡の森の中で道に迷いながら自分の巣を探すメガネアリクイの雄のようだった。
「これをかけてみて。フランス61年製のもので、人間嫌いだったといわれる匠《ドゥミセルクル》の仕事です」
それは少し変わった形の小ぶりな眼鏡だった。ホタルは受け取って眼鏡を繁々と見てから、「ぼくは目は悪くないです」と教授にそれを返そうとした。
教授はそれを受け取らず、首を横に揺らした。今回は彼の意図は皆に正しく伝わった。それはわかっていない者にあなたはわかっていないと伝える仕草だった。
「あなたにはこの眼鏡が必要だと思います。証拠を見せましょうか。ここへ座りなさい」
部屋の隅にある木製の椅子へ教授はホタルを案内する。椅子の前には机があり、そこにだけは眼鏡が置かれておらず、大きな機械がひとつあるだけだ。
「覗いてごらんなさい」
ホタルはおそるおそる機械の覗き口に目をあてる。まるで機械が熱を発していて、それに触れると火傷を負うと聞かされているかのように。
「何が見える?」
教授の声は冬の木のように乾いて引き締まって厳格で、まるで本当の教授のようだった。《熱帯魚》は奥の部屋にある教授のベッドに腰かけて、そのあたりに置かれた眼鏡を無造作に眺めたり手にとってかけてみたりしている。
窓の外から水の音が聞こえて、詩織は雨かと思った。外を眺めたが雨は降っていない。どうやらビルの裏手に小さく勢いの早い川が流れているようだった。
「......下、ですか?」
ホタルの答えに返答を返さず、教授は機械の横についているつまみをひねる。
「これは?」
「上です」
ホタルは再度答える。さっきよりも早く。教授は幾度かつまみをひねって、同じ質問を繰り返した。これは? これは? これは?
「良かろう。では次にこれをかけて、もう一度覗いてみたまえ」
教授がさきほどの眼鏡をホタルに手渡す。ホタルがかけるとそれは不思議と彼の為に作られたもののように、その端正な顔立ちにぴたりと合った。
「あっ」
眼鏡をかけたホタルはもう一度機械を覗き込み、小さな叫び声をあげた。
「そう、それは馬の蹄だ。そして次はその馬の持ち主が齧った食べかけのドーナッツ」
機械に顔をつけているのに、ホタルの眼鏡の下の顔がどんどん青ざめていくのが詩織にもわかった。教授はホタルの戸惑いなど何処吹く風で、相変わらず神経質そうな目つきを光らせながら説明を続ける。数字好きなねずみに齧られた零、ふとった人用のバングル、月食が進んで周囲の円だけになった月、びんのふたを開けた時に下についているばねみたいな金属の一部、鏡の国の物持ち《のり子さん》所蔵の幻のカイン帝国産の檸檬からとったビタミンのC、などなど。
「ぼんやりとしか見えていないと、それが何かわからないだけじゃなく、質問の意図すら読み違う。人生も常に質問し続けているんです。相手が何を質問しているのか正確に読み取るのは大切なんですよ」
でなければ、答えを間違えてしまいます。
教授は話しながらホタルの顔に眼鏡を更に合わせるために、眼鏡の蔓や番にそっと触れる。ドライフラワーのはなびらの位置をすこし直す時ほどの優しさで。
「眼鏡というのは、世界の解像度をあげる為の道具なのです」
そう言った時の教授の瞳は眼鏡の下できらきらと輝いて見えた。まるで眼鏡が世界の解像度をあげたせいで、教授の本当の姿が彼の眼鏡ごしにだけ見えるようになったかのように。
挨拶、玄関をでて、再々度の階段。今度は昇りだ。
「昇る時の音もいいものだ。しっとりと重たくて、生きている心地がする」
《熱帯魚》はきれぎれな息の隙間からそう漏らした。三階からまた最上階のミス・《ハローワールド》の家まで戻るのは骨が折れたが、眼鏡をかけたホタルの足取りはなんだか行きよりも少し軽くなっているように詩織には見えた。
三人が部屋に戻っても《ハローワールド》はまだ戻っておらず、その為か《熱帯魚》はロフトの事務所には戻らずに相変わらずリビングにふたりを案内した。物は多いが片付いている部屋で、居心地は悪くない。テーブルの上には蝋燭ととても小さな一輪挿しがあり、そこにふわふわと放射線状に薄桃色のはなびらの広がった球体状の花が差してある。
「それは小さな含羞草。小さな花屋から種を貰って、ぼくが小さな温室で育てたものなんだけど、どう? 綺麗でしょ」
「小さな温室? 小さな花屋?」
詩織が聞き返すと《熱帯魚》はくすっと笑った。とても美しく刈り上げられた彼のえりあしに目がいく。水の音。《熱帯魚》はキッチンへ行く。野菜が入っている袋ががさがさと鳴る。音たちはひどく散文的でまとまりがない。
「そう。小さな花屋は背丈も声も全てが小さいんだ。とっても小さな声で、花の育て方や種類、特徴まで色々なことを教えてくれる。彼はとても花に詳しいんだ」
「かわいい。そんな素敵な花屋さん、行ってみたい。どこにあるんですか?」
詩織の質問に《熱帯魚》は相好を崩す。しかし笑っているのになぜか彼は悲しそうだった。
「その花屋の話をすると、みんなそう言う。何処にあるの? 行きたいって」
でも。彼はそこまで言って、見知らぬ人からもらった餌を、物陰からじっと見ている野良猫のようなエネルギーを発する。その沈黙の奥には躊躇が揺蕩い、料理を準備する散文的な音たちだけが響く。
「見えないし、聞こえないんだ。最近は世間が騒がしいし、みんなあまりに忙しすぎるから。場所を教えても、花屋自身を紹介しても、店も声もとても小さいから見過ごして通り過ぎてしまうんだよ」
しんとした。
あまりに《熱帯魚》が悲しそうだったので、ふたりとも何と言えばいいかわからなくなったのだった。ホタルもしんみりして、汚れてもいない買ったばかりの眼鏡を拭いたりしていた。
「おっといけない。刈り上げはいつでも綺麗に整えておけという母のいいつけを忘れるところだった。過ぎ行く者、去り行く足音に氣をとられていては、大事なものを見失ってしまう。後ろ髪はひかれぬように短く切りそろえておかねば。小さな温室の話だったね。お見せしよう」
彼はリビングを通って、ロフトの方へと行った。さささと移動したので、彼がどんな表情をしていたのかは詩織にもホタルにもわからなかった。
「おお、詩織さん、ホタルくん。君たちはとてもラッキーだよ」
さきほどの悲しそうな雰囲気をすっかり払拭して微笑みながら降りてきた《熱帯魚》の手には、少し大きめの水槽のようなものが抱えられていた。その中で沢山の様々な色合いの小さな植物たちが押し合いへし合いしながら、懸命に咲いている。
よく見てごらん。テーブルの上に置いた小さな温室を自分でも覗き込むようにして《熱帯魚》はとても小さな声で話した。まるで少しでも大きな声を出せば、その温室があっという間に壊れてしまうとでも言わんばかりに。
温室の中で動くものがあった。それは草花たちよりも少しだけ大きいくらいで、しかしそれもようく目を凝らして見える程度の大きさしかない。最初、詩織はそれをちょっと大きめの蟲かと思った。動きの素早い蟲。
「花屋さんだ」
ホタルがそう言い、詩織は彼の視線が何処を見ているのか確認するためにその顔と玄関を交互に見た。小さな花屋がやってきたのかと思ったのだ。しかしホタルの眼鏡の奥の視線は扉や窓の外には注がれておらず、水槽の中に一心に注がれている。
ホタルの見ている景色を見ようと、詩織も温室に視線を注ぐ。しかし、小さな草花と蟲以外には何も見えない。
よく見てごらん。
《熱帯魚》の言葉を思い出して、詩織は眉間に皺を寄せてじっと更に目を凝らした。するとやがて詩織は蟲だと思っていたものが、どうやら蟲ではなく超小型のひとだということに氣付いたのだった。
それはまさに《花屋》だった。エプロンをして剪定鋏や如雨露を手に忙しく働いている。
「今日はちょうどメンテナンスの日で、色々調整しに来てくれてたんだ」
《熱帯魚》はキッチンから料理を運んできながら、小さな温室とその中の花屋を暖かい目で見つめた。オーブンの熱が彼の瞳に宿ったようだった。
「さぁ、温室を退かして。そっとね。そう、そっちの棚の上でいい。ちょっとでも地震の恐怖を花屋に与えたら、君たちのあだなは今日からHAARPだよ」
机の上に料理が並んでいく。いつの間に作ったのだろうと訝しみたくなるほど豪華な料理の数々。ふかふかお豆のグリルに色とりどりの野菜と果物のサラダ。こっくり、しっとりとした蓴菜や人参などのスープ。軽やかな微笑みをしぼって午後の陽光唐辛子と鳥の巣胡椒で味付けをしたスパゲティ・ペペロンチーノ。料理たちの中心にはワインのボトルが町いちばんの高さの電波塔のようにそびえ立っている。
しかしホタルは料理よりも花に興味があるようで、まだじっと温室を見つめていた。眼鏡をかけてから、ホタルは少し変わったようだ。少なくとも詩織にはそう見えた。
「聞きたければ小声でそっと質問してみるといい。耳をそばだてれば聞こえるよ」
銀食器を皿の前に並べながら《熱帯魚》は自分も小声でそう言い、食器を並べ終えると音もなく椅子に座った。
少しの間。本当に小さな小さな囁き声だけが、宇宙のはるか彼方で揺らめく今ではもういない星々の影のように聴こえてくるだけだった。花屋は身振り手振りを交えて何かをホタルに伝えているようで、ホタルも幾度も頷いたり感心したりしていた。
一通り花屋とホタルの会話が終わると《熱帯魚》はひとつ柏手を打ち、「さぁ食べよう!」と今までの小声の世界とバランスをとるかのように大きく張りのある声を出した。それが花屋にとっては仕事再開の合図であり、三人にとっては食事開始の合図だった。
食事はどれも美味しく。量もたっぷりとあった。しかし全ての料理のいちばん美味しい(と《熱帯魚》が判じている)部分やワインの開けたての一杯目などは全てホタルの皿やグラスに取り分けられた。
その部分が他の部分よりどれほど美味しかったかは真偽不明ではあるが、とにかくホタルは他者から《いちばん》をもらうという経験を味わって食べた。まるで思いが味に影響しているかのように、とても美味しそうに噛み締めて。
ワインはみずみずしいのに少しだけ苦く、まるで若い時の恋みたいだった。ぐんぐん身体の中に浸透してきて、いつのまにか自分の一部になってしまうところも含めて。
くいくいとグラスを傾けているとあっという間にワインは目減りしていき、一本目は全て三人の身体のどこかにすっかり収納されてしまった。《熱帯魚》が二本目のワインを、日が暮れる直前の地平線のような目つきで開ける。
そうして三人とも夕暮れの目になって、またワインをぐびぐびと身体のどこかに収納していった。二本目のワインはフルーティで飲みやすい、始まりたての恋のような味わいだった。
ワインが、特に美味しいワインが、身体のどこに収納されてしまうのかは、この世界の誰にもわからない。胃袋じゃないことは確かなのに。食べ物や水と同じところに入っているのならば、こんな量を一晩で飲めるはずがない。美味しいワインは食道を通って、さらりとどこかに消えてしまうのだ。きっと身体のどこかに夕焼けを収納できる大きな倉庫のような場所があって、そこにワインは熟した夕暮れとしてどんどん仕舞われてしまうのだろう。
倉庫に積み上げられていく夕焼けと反比例して、身体は飲めば飲むほどに軽くなっていく。やがて溢れた夕焼けの光は倉庫から漏れ出し、詩織やホタルや《熱帯魚》の皮膚を赤く染めあげていく。タンニンも共に沁み出すゆえに少し苦かった思い出を思い出したりもして、けれどその苦味が人生のみずみずしさや美しさ、香り高い部分を引き出してくれてもいるのだということをワインは教えてくれる。
食事を空にして、それからおつまみを《熱帯魚》が持ってくる間、詩織はホタルと他愛もないことをとめどなく話した。ホタルは黙って聞いていて、それからこくこくと頷いた。ホタルの中で夕焼けはたくさん倉庫から溢れてきているようだった。
さっき、花屋さんと何の話をしていたの? 詩織が尋ねるとホタルはきょとんとしてから、ずいぶん昔のことやとても難しい数式の解を思い出すようにこめかみを指先で押した。
「花の話をしました。温度や湿度を適切に保つのは繊細な仕事なんだってこととか、日本でミモザと呼んでいるあの黄色い花はアカシア類の花で、本当のミモザは含羞草のことなんだとか」
「へえ。じゃあ、この机に飾られているのが本当のミモザなんだ」
こく、とホタルは頷いた。まるで彼自身が花屋で、ミモザという名前の為に誤用を正しているかのような真摯な眼差しで。
「含羞草。オジギソウ。別名ネムリソウとも言って、とても内氣な花なんだと花屋は言ってた。花言葉は繊細な感情、感受性、敏感などだって」
詩織はホタルこそ含羞草だと思った。触れるとぱたぱたとその葉を閉じてしまう、とても内氣ではにかみ屋の敏感な植物。
「かわいいね、含羞草」
机の上の一輪挿しほどの小さな声で、詩織はその唇を震わせた。目の前のふたつの、ひとつはもともとチェス盤だった、臆病で優しい含羞草を驚かせてしまわぬように。
つまみの皿がまた空になる頃には、三人の身体の中の血中夕焼け濃度は限界まで高まっていた。どろりとした酔いの透明な昏さと、まろやかで怠惰な眠氣がすぐそこまでやってきている。
重たい瞼型の緞帳が再び上がったのは背中にまろやかな暖かさを感じたからで、詩織のかすんだ視界の先では、いつ帰ってきたのだろう、ミス・《ハローワールド》が微笑んでいた。肩にかけられた毛布は彼女がかけてくれたものらしい。彼女は詩織が目を覚ましたことに氣付くと、その厚くて美しい唇の前にすらりと細い指を立てて悪戯っぽい表情を見せた。
キッチンの方から水音が聞こえる。食器と食器のぶつかり合う音やそよそよと春風が木々を揺らすように話すささやき声と共に。《熱帯魚》とホタルがキッチンで片付けをしながら話しているのだ。
「夕食のいちばんって何かご存知かしら」
《ハローワールド》は手に湯氣の出ているマグカップを持って、詩織の前向いに座った。彼女の質問は変だ。夕食のいちばんはそれを食べる瞬間に決まっている。
「ところがそうとは限らないって《熱帯魚》は言うんです。夕食の一連の流れの中でいちばん素晴らしいのは、食事もデザートも終えて夜がとっぷりと更けた静かな家で愛しい誰かの寝息や虫の声を聞きながらする洗い物なんだって言うのよ」
それは孤独という深い森の奥でする読書や歴史ある寺院の梁や冷たい板戸の奥で行われる瞑想にも匹敵するほどの明晰な美しさだ、とか言うの。変でしょう。わからないわよねえ。
《ハローワールド》はそう《熱帯魚》の科白をくさしながらもその実、その話の意味がわからない人は絶対にしないであろう笑い方で笑った。
それは女が誰かをばかみたいに愛してしまった時にする笑い方だった。めそめそ泣いたり、その足元に追い縋ったり、執着で縛りつけたりできない女たちの笑い方。
男という生き物にはその笑い方に隠された意味はわからないだろう。雪国ではない地域に住むひとたちが、雪に多くの呼び名や種類があることを知らないように。男たちには一種類の笑いしか存在しないのだ。
その恋が報われようとそうでなかろうと、女たちにとって恋とは胸を締めつけ命を削るものだ。詩織はそう思う。女は自分の大切な一部を削り取り、それが雲散霧消して消えていくのを眺めながらも誰かを愛するということをやめるわけにいかない。男は自分の何かを失ってまでひとを愛したりはしないものだ。そんな風に、漠然と思う。
「やあ、起こしてしまったか」
手を拭きながら戻って来た男たちは、本当に幸せそうだった。夜中の洗い物ってそんなに幸福で楽しいものなの? 詩織はそう訊きたくなったけれど、口にはしなかった。
詩織が科白を言わなかったその空白を寂しく思ったのか、マグカップの中の琥珀色の液体を冷ます息遣いのすきまで《ハローワールド》の言った「地平線を見に行きません? みなさん、見たことあるかしら」という言葉は宝物のように夜の暗闇の中で黄金色に輝いていた。みな、地平線を見てみたいにちがいない、と詩織は思った。
《熱帯魚》はロフトの事務所、《ハローワールド》は自分の寝室、詩織は客用にかけられたハンモック、ホタルは年寄りの大型犬に似たカウチでそれぞれ少し寝てから出かけようということになった。
夕焼けは熟成期間を過ごした狭い瓶の中から開放されて、それぞれの胸の奥の倉庫の中で自由を祝して踊っている。
人生をそのまま液状化させたかのようなあの赤い液体にはひとびとの夢との高い親和性がある。だから起きて夢を追うひとびとはいつまでも酒を飲んでいられるし、そうではないひとたちはやがて酔って寝てしまうのだ。お酒は夢を見るための格好の道具だ。
こうしてワインに手伝ってもらい、四人はしばし各々の夢を見た。
次に詩織の目のさめた時、彼女の他に起きていたのは《ハローワールド》だけだった。眠い目で時計が朝と夜中の境界線を秒針の先でそっとなぞっているのを見て、幼い頃に祭でやった型抜きを彼女は思い出す。もしかしたらこうして秒針が朝を型通りにくりぬいてくれるから、地球はそのくりぬかれた空洞にあの美しい朝日を迎え入れられるのかもしれない。詩織は口の端だけで静かに笑う。
男たちは女よりもずっと後に起きた。男は夜半に皿を洗って遅くまで寝て、女たちは早く起きて髪や化粧を整える。これでいい、ホタルは眼鏡をかけて少し寝癖を直しただけで、《熱帯魚》に至っては帽子を被って良しとひとこと言っただけだった。
斯くして一行は扉を開いて夜の中に吸い込まれていった。
車を運転する《ハローワールド》の横顔はとても美しかった。彼女に比べて自分の顔は昨夜のワインの影響もあってひどいものだろう。詩織は幻滅することに怯えて、なるべく鏡を見ないように努めていた。その徹底ぶりたるや、夜を吸い込んで鏡になりきっている窓さえ開けてドアの奥に仕舞ってしまったほどだ。びゅうと痩せた冷たい風が、彼女の前髪を飛ばす。
四人を乗せてびゅうんと走る甲虫に、夜の闇はねっとりとまとわりつく。どこまでも昏い夜だった。もしかしたら今日こそ秒針が型抜きに失敗して、世界から朝が失なわれてしまったのではないかと詩織は徐々に不安になってきた。そんな筈がない、いつだって夜は明けたじゃないと自分に幾度言い聞かせてみても、進めど進めど朝の予兆は無くどこまでも世界は寝静まって夜なのだ。
《ハローワールド》のうぶにも玄人にも見える婀娜っぽい唇から歌が漏れ出る。そのか細い旋律は美しい曲線を描いて車内を飛び交い、やがてふわりと消えた。最後には残り香のように《ハローワールド》の甘い香水のかおりが空中に漂うのだった。
なんと美しい女だろう。
《ハローワールド》に見惚れ、自己嫌悪の昏く深い海にたゆたう彼女は氣付かない。後部座席から彼女の長い睫毛や寒さに染まるワインレッドの耳朶、自分たちの乗った甲虫《ビイトル》の走る道路よりもまっすぐなその鼻筋をじっと見つめる、美麗な眼鏡フレーム越しのその眼差しに。
甲虫は急に止まった。蜜を見つけた蟲のようにひどく唐突に。
「着きました。降りてください。寒いですから」
気をつけてくださいね。
《ハローワールド》が自分のオーバーサイズ氣味のダウンジャケットのジッパーを上まできっちりあげながらそう言ったのが聞こえた。息が白い。車の扉を開けると夜にすっかり冷やされた風が逃げ場を求めて、甲虫《ビイトル》の体内に雪崩れ込んでくる。首をすくめて外に出る。ホタルが近づいてきて、自分のマフラーを詩織の首にふわりと巻きつけた。ぬくもりとかすかな男性用香水の匂いがする。頬が熱くなって、胸がどきどきした。皮膚の外と中で温度がぜんぜん違うせいで、詩織はくらくらとめまいがするようだった。
潮風と波音。夜の海では音までもが浜辺の砂を真似ているのか、やけに粒立って聞こえた。海岸沿いには様々な飲食店が多く並んでいるが、今の時間は当然どこも開いておらず周囲には自然が生み出す音や四人の足音と呼吸くらいしか存在しない。
夜の海は宇宙や母親のお腹の中みたいだ。詩織はそう思う。どちらも本当にその目で見たことがあるわけではないのに。
「ほら、ご覧になって。これが今夜のお目当の景色です」
甲虫が急にその進行を止めた理由が、みなの目にはっきりとわかった。まさに今その瞬間、地平線から黄金色の蜜がじわりと溢れてにじみ出てくるところだったのだ。
四人は太陽が地平線から強烈な幸福を世界に与えるのを、しばらく黙って見守った。誰も何も言わなかった。永遠に夜のように思われていた世界は、あっという間に朝になった。秒針が小さくあける、ぽつぽつと型通りにくりぬくその穴の数々から、太陽は光を差し込む。氣付けば前にも後ろにも夜はいなくなって、世界のすべてが朝になっていた。理由もないのに涙が出て、その滲んだ光のすみっこ、視界の端でホタルも泣いているのがうっすらと見えた。誰も、何も言わなかった。
帰り道の途中で喫茶店に寄り、四人でモーニングを頼んだ。店主がこだわっているという珈琲はトーストととてもよく合っていて、今まで飲んだどの珈琲よりも美味しく感じられた。
「どうです、ひとの暮らしも悪くないでしょう」
《熱帯魚》は珈琲に口をつけずまた延々と冷めるのを待ちながら、ホタルに微笑みかけた。
「そうですね。なんだかぼくには、今までいろんなものが見えていなかったのかもしれません」
《熱帯魚》が頷く。
「そうでしょう。でもぼくが差し上げたのはいちばんだけですから、それは忘れないでくださいね。世の中にはにばんやさんばん、それどころかもっともっと下のものも沢山あるんです。それらだって必要があってあるんですよ。ね、やっぱりいちばんだけじゃねえ。ほら、味が濃くなりすぎるっていうかね。だからひとの暮らしは素晴らしい一面だけってわけでもないんです。でもね」
だからこそ、人生は素晴らしいんですよ。
そう言って、バターの染みたとろける夜明け色のトーストを《熱帯魚》はひょいと口に放り込んで笑った。
******
「それからどうなったの?」
わたしは《熱帯魚》に訊く。彼はやっと冷めたカレーライスを器用にスプーンですくって、次々に口の中へ放り込んでいく。洋酒町三丁目にあるカレーハウス《インドみたい!》の角の席で。
店名の割に、そして店主が生粋のインド人である割に、この店で出るカレーは純日本風のもっとりとした小麦粉入りのカレーライスだ。店主である《パンカジ》氏はよくカタコトの日本語で「蕎麦屋のカレーが一番うまいヨネ」と言う。
「カレーライスである限り、純日本風なんてものは存在しない。カレーライスはすべてインド、それがどのように改造されていてもインド人たちの血液が色濃く残って反映されているんだ」
敬虔な仏教徒のような顔つきで神妙に《熱帯魚》は言う。特別な思想があるわけでもない癖に。パンカジは「ワタシのカレー、ほのぼの亭のすみヱさんから教わったレシピだケどネ」と笑う。まったく、どいつもこいつも。
「わかったわかった。それでそのチェス盤だったひとはどうなったのよ」
わたしは《ハローワールド》の高校時代からの友人で、そのよしみで《熱帯魚》とも出会った。
初対面のときに仕事を尋ねられ、売れないフリーライターだと答えると(その時のわたしは駆け出しも駆け出し、ひよっこ中のひよっこだったのだ)、《熱帯魚》は軽く幾度か頷いて「仕事がないなら、僕のことを書けばいい」と言った。
どうやら彼はフリーライターという言葉を直訳し、わたしのことを文字通り《自由に書くひと》と認識したようなのだった。断ればよかったのだが、ひよっこ中のひよっこだったわたしにはその奇妙な申し出を断りきることが出来なかった。
曖昧に「はあ」とか「そうですねえ」と言ってしまってから今まで数年間、誰に読ませるわけでもなく特にこれといって稿料が出るわけでもない《いちばん屋》とその客たちの物語をわたしは書き続けてきた。性格なのか、乗りかかった船にはなるべくきちんと乗りたいと思うわたしは、こうして客との間にあったことを彼にインタビューする時間を設けまでしている。変だ。
「ホタル氏はそれから、また絵を描き始めたそうだよ。それが割と評判がいいみたいでね、喰っていけそうなんだそうだ。羨ましい話だよなあ。詩織さんって綺麗な奥さんまでもらっちゃってさ。人生一発ぎゃくてーん、だよね」
最近は国中の多くのひとと同じようにオータニに心酔している《熱帯魚》は見えないボールを打つように透明なバットを振り、それからわたしに一枚の手紙を放った。宛名には《ホタル・詩織》という連名の差出人名が美しい文字で書かれいる。
読んでみろ、という意味らしい。
中を開けてみると、いい香りの便箋に《熱帯魚》や《ハローワールド》への感謝の言葉と、結婚の報告、それからふたりの近況などが小さな文字で淡々と綴られていた。
「絵を描くにも、生きるにも、細かく鮮明に世界を見つめる目が必要とされる。じゃないと君みたいにいつまでも独身で、カレーライスを純日本風なんていうことになるんだ」
憎まれ口を叩いて。自分だってまだ独身の癖に。一番鈍感なのは自分じゃないか。わたしは心の奥で《熱帯魚》を誹り、そして可哀想な友人の恋心を偲びながらパンカジに新たな水を要求する。
最後のひとくち分のカレーの横に紅生姜を添えたものをスプーンに乗せて、《熱帯魚》はわたしに差し出した。
「ほら、あげよう。哀れなフリーライターさん、これがカレーライスのいちばんだ」
なんだかなあ。しかし彼からスプーンを奪って腹立ち紛れに食べてみると、それはびっくりするほどに美味しかった。
カレー代を払って外に出た《熱帯魚》は呵々と笑った。カレーライスの偉大さを褒めて、空を見上げる。
「これが今の彼の代表作だそうだ」
彼は一枚の写真を、振り向きもせずにわたしの方へとまたも投げた。わたしはすこし転びそうになりながら、その写真を掴む。
そこには鮮やかに咲く含羞草の花々の横でチェスを打つ短パン姿の少年と、それを見つめる美しい女性の絵が映されていた。
「彼はもう大丈夫だ」
快活な《熱帯魚》の声。
ひとの人生の安泰を保証している場合かと突っ込みたくなるのをぐっとこらえ、わたしも笑うことにした。
元チェス盤の素晴らしい画家の誕生と、その真っ青な青空に似た未来と恋を祝福するために。
笑い声がふたつ響いて、猫があくびをした。道の向こうで自転車に乗った《ハローワールド》が手を振っているのが見えた。
《仏見堂》で作ったわたしの眼鏡の度はまだ合っていて、洋酒町は今日も晴れている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?