(第6話)高校入試の英語は「8点」。今はネイティブと仕事するまでになりました。

今の僕の英語力がどの程度なのかよく聞かれる。最近留学して来たばかりの学生などは特に気になるようで、「もうペラペラですか?」なんて聞いてくる。

ペラペラというのは30歳過ぎて英語を習った僕には有り得ないと思っている。聞くところによれば、10歳を過ぎて海外で英語教育を受けても、絶対に日本語訛りが残ってしまうそうだ。

そもそもペラペラの定義って何なのかって思う。100%ネイティブのように話せるようになるのは不可能だけど、相手の言っている事を理解でき、分からない単語が出てきたら「その単語の意味はなに?」って聞くことができて、間違った文法ながらも自分を主張でき、相手に理解してもらえるものがペラペラだとしたら、きっと現時点での僕の英語力はペラペラなのだろう。

英語を学習している人にとって、僕のバックグラウンドは興味がわくらしい。「英語は昔から得意だったのですか?」とか「国語の成績はよかったのですか」とも聞かれるのだが、実際のところ学生時代の僕は、こんなに英語ができない生徒もいなかっただろうと思う。

幼少の頃から変わった子供で、幼稚園児のくせにドライバーを片手に家中の家電を分解しては怒られ、与えられたのは古くなったコンセントの部品と壊れているラジオ、好きなだけ分解しろと父親が与えてくれた。(笑)

小学生の頃は半田付けの練習をして鉱石ラジオを作り、トランジスタ・ラジオを作り、アマチュア無線の免許が欲しくて無線工学を勉強していた。星が好きで、流星群の時期になると物置の屋根の上に寝転がって冬の晴れた夜空をいつも眺め、天文年間などを読んで数字が並んでいるのを見てワクワクしていた変な小学生だった。

中学になってもニュートンなんていう科学専門誌を読んでいて、心から面白いと思って読んでいた。

天は二物を与えず、されど一物は与えてるとでもいうのであろうか。理科と数学だけは得意だった、特に理科なんて一度教科書に目を通せば覚えてしまうくらいだった。クラスメイトの女の子に理科を教えて欲しいと頼まれて教えていたのだけど、その子は伝統のある進学校に合格し、自分は新設校の中流学校だった。英語がゼロというハンディは正直きつかった。

当然であるが高校入試の時には英語で苦労することになる。高校入試の点数が、英語が8点、記号問題3問しか合ってなかった。その代わり理科は満点という変な点数で、足して二で割って、札幌では中レベルくらいの高校に入ることができた。ここでも英語さえできれば進学校に入れたのにという後悔の念があった。


高校生になっても中学一年一学期の英語レベルで止まったままだった。「英語さえできれば人生が変わっていた」と何万回思ったことか。もう英語が嫌いで英語の授業は憂鬱で、宿題なんてやったことが無く、テストは4択の記号問題しか答えられなく(山勘で当たるものだ)毎年三学期が終了しても、英語と国語の教科書は新品同様だった。これが中学と高校の6年間続いた。


得意教科の物理は学年トップ、でも英語はいつも赤点だった。赤点を取ると通信簿に本当に赤のボールペンで「1」って書かれるのだ、そして全校生徒が出席をして校長先生の話を聞く終業式には出してもらえず、赤点保持者だけが集まる別室に呼ばれて「お前らはまだ一学期は終了していない、夏休みは学校へ来て授業を受けること!」とお金を払って、夏休みも冬休みも学校へ通っていた。

数学の確率統計の授業は面白くて仕方が無かった。微分積分はクイズだと思って一生懸命解いていた。
大学入試は、理科と数学だけが入試科目の大学が無いかを探した。しかしどこも必ず英語が必須で、まっ確かにこんな自分に都合の良い大学などあるわけないと思った。先生からも理科と数学だけが入試科目だったら早稲田でも慶応でも好きな大学いけるのになと嫌味を言われたこともあって、その通りだし、苦笑いするのが精一杯だったのを思い出す。

高校三年の10月、札幌はストーブを出す季節。一枚の資料が学校から手渡された。卒業した先輩達の進路(就職)先だった。札幌市内の某大学の卒業生は、聞いたことも無い小さなスーパーや工場へ就職が決まっているようだ。そう、これが自分が入れそうな大学のラインだったのだ。
「一生、こんな小さな会社で働いて、一生雇われサラリーマンでいいのか?」
そうでなければ、自分が社長になるには、どんな道があるのか。6年間勉強しなかったツケがこんな所に回ってきたと後悔をしたが後の祭りだ。

「手に職をつけて5年や10年辛抱すれば、自分がオーナーになれば経営者ではないか」

経営者の可能性が広がる手に職をつける進路。技術の取得ができ、尚且つ英語の授業がない学校へ言った。北海道理容美容専門学校、母親の卒業した学校だ。

逆言えば、もし、自分が英語の成績が良くて、進学校へ行き、良い大学へ進んでいたら、海外で働くことなんて無かったのかもしれない。

『人生とは遠回りが実は近道だったりするんだ』

こんな英語のできなかった自分が、海外で英語のシャワーの中で仕事をしている。受験生に英語の家庭教師もやったし、美容師相手に英会話教室を開いて英語の先生もした。

そして、こんなに国語の嫌いだった自分が、Webマガジンのライターとして記事を投稿しているし、過去にも某出版社から執筆依頼があり出版された。フリーペーパーの編集長も努め、校正を覚えるために東京の専門学校主宰の「校正3日間コースを受講し、年に数回はオーストラリアの大学の日本語学科で授業をするようになった。

僕は社会人になってから本を読み、文章の書き方を勉強した。30歳を過ぎてから英語のABCを習い、そこで「三単現(さんたんげん)」の「s」を取得した(笑)。

勉強に遅いなんてない、勉強したいときが始め時なのだ、年齢なんて関係ない、周りの目なんてどうでもイイ。できない言い訳はするな!思い立ったが吉日である。


あきらめない限り、夢は逃げない。20年後にスタートしたっていいじゃない、だって今は嫌いなんでしょ!?好きになった時にやりゃいいし、好きになれるように仕向けりゃいい!

人生というのは分からない。分からない人生だから面白いのだ。

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