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ネタバレあり熱意しかない「君たちはどう生きるか」感想

「君たちはどう生きるか」を観てから、頭の中で感情がぐるぐる収まらないので、文字に起こしました。申し訳ございませんが、熱意しかなく、文章はめちゃくちゃです。

 心をわしづかみにされて揺らされた。
 もともと原作付きの映画は原作を読んでから観に行く派だったのだが、そんな学生は社会人になり早数年で時間と心の余裕のなさに気づき、観れるもんは今観ることが大切だと、機会があれば万全ではなくとも観る派に転身した。
 「君たちはどう生きるか」は宣伝がなされなかったこともあり公開前に本屋で見かけることもなかったと思う。世代的にもジブリ作品はほとんど一度は見たことがあったし、金曜ロードショーでもやってたらチャンネルを合わせるぐらいにはファンである。「君たちはどう生きるか」の上映もなんとなく耳に入れ、タイミングが合えば見に行きたいなと考えていた。
 公開数日前から宣伝全くないけどどういうこと?みたいなネット記事をちらほら見かけ、ああ何にも情報を入れずに観に行けたらいいなに変わった。公開されてからは情報や感想から目を逸らしつつ過ごしたが、「わかりにくい」「原作本は主人公に影響を与える本として出てくる、ストーリーには関係ない」ということはわかった。情報の波から逃れることはできない。
そんな月曜日のこと、その週の土曜日に入れていた用事がなくなった。小説を読もう、それで土曜日に観に行けたらいいと強く思った。仕事が終わると一番近所にある本屋に車を出す。日中の猛暑でジムニーの布椅子は夕方になってもあっつあつだった。
車で来たのに汗かきながら入店する本屋は、冷房が効いていて本当に気持ちがよかった。田舎の本屋なのでもしかして小説はおいてないなんてないよなと若干の不安はあったが、入り口すぐの特集コーナーの島がスタジオジブリの本でいっぱいに飾られていた。安心もつかの間、島にはジブリの絵本やスタジオのドキュメンタリー本ばかりで「君たちはどう生きるか」はすぐに見つからなかった。島をぐるっとまわると白地に黒の明朝体が大きくデザインされた文庫を見つけることができて、3冊しか置かれていないことが、期待の薄さとも思えてさみしさを覚えた。
 小説は児童文学だとイメージしていたよりも厚さがあり、文字も小さめだよな、なんだか読み始めるときは気おくれがあった。だが、ただの道徳の教科書ではなかった。コぺルくんが正義感のある正しい子供ではないところも大きいけれど、物語はコぺルくんの気づきから始まり、周りの大人たちが、子供同士が、きちんと相手を侮らず誠実に向き合っており気持ちがよいからか。勇気を持つことが大切だと語る本は多くとも内省する勇気についての本は子供時代に出会わなかったと思う。でも不思議と中学生のときに読んでいれば、とは思わなかった。それはこの小説の中から語りかけられる多くの大切なことは他の物語の中から学んでいたからだ。「君たちはどう生きるか」を読んでいるのに「ハリーポッター」や「星の王子様」や「ナルニア国物語」や、それこそジブリの数々のアニメが浮かんでダブり、子供のころ、この本には出合えなかったけど他のたくさんの物語と出会っていたことを思い出して、そう、忘れていた懐かしい友人たちを思い出して、記憶との再会に泣いた。
 「大人も昔は子供だったのだ。でもたいていの大人はそのことを忘れてしまう。」小学生のころは「そんな“たいていの”大人になんかならない」と生意気に思っていた。あぶなー忘れていた。でもこれでセーフにしてほしい。
 いよいよ土曜日、映画館の座席はほぼ満員だった。カップル、家族連れ、、、一人で来た私は少し居心地の悪さを覚えた。
 ここからは私の解釈を書く。いくつか解説のブログを読んで解釈を間違えていたらしいとこがあったが、そのまま書く。だって本来なら一回目の感想が本当の感情なのだから、正しい、間違えているなんて、そんなの「間違ってる」のだと強気で。個人の感情で見えてないものが見えて、言ってないことを聞いても、物語の鑑賞方法としてはいいんじゃないか?
 開始早々の火事、眞人がズボンに着替えるシーンで、見に行くんじゃなくて助けに行く準備をしていくんだ、考える子供だ、と思ったつかの間、走っていく風景は眞人の目線になる。そこでもう自分は眞人だ。今までのジブリの映画は物語を外側から見ていた。主人公と自分は違う人間だった。千尋がカオナシから階段を駆け下り逃げるシーンも「こっちえおいでじゃないよ!早く置いて逃げなよ!」だったと覚えている。大切な人が死ぬ絶望で視界が揺らいだことがあるので、その感情をとっかかりにして、そこから眞人になって物語は進む。
 早々、父親は死んだ母の妹と結婚する。この時代だから、順当だろうと心は冷めている。眞人は父親の冷徹ではないけれど、時代が正しいということを進んで受け入れる「父親」だと理解しているのだろう。母親の妹は母親にそっくりである。いくつか夏子おばさんが好きだったのではという解釈がみられたが、眞人(自分)としては、母親の外見で母ではないなんて気味が悪いコピー品が現れたと感じた。コピーが本物になろうと自分に優しくするのだ、引いてしまう。そして血のつながりを確定させる赤ちゃんがいるとお腹を触らそうとしてくるなんて、私は眞人と同じようにイーの顔をした。
 お手伝いのおばあさんたちなんてわかりやすいだけである、眞人について来たお土産に群がって眞人には価値がないという態度。眞人だって理解している、自分がただあの父親の子供だというだけの存在だと。
 小説に話が移るが、主人公のコぺルくんからは生産者になることが大切だというメッセージをもらった。眞人はただ裕福な家の子供なだけの無力な(生産性のない)自分に鬱屈としているようにみえる。というか私がそのような幼少期を過ごしたので、過剰に共感して感情を過剰に読み取ってしまった。
 私の小学校のころの命題といえば、「恵まれたならば存分にその恵みを活かさなければいけないのか」で、それは良い環境にいるのに向上心ややる気がないことへの後ろめたさであった。
 それは地方のそこそこの田舎町で育ち、父親は小さい会社ながら社長をしており、周囲と比べ裕福な自覚があったこと。やりたいことはいくつも習い事させてもらえたが、自分はどうもそこそこ出来るけど光るものはないんだなとわかってしまう程度には賢かった(生意気だった)こと。祖母は戦中戦後を小学生として過ごし、真面に教育を受けられなかったので、「あなたは恵まれた時代にいるのだから勉強でもなんでも頑張りなさい」とたびたび言われたこと。自分はこの幸運を無駄にしているという申し訳なさである。そして鬱陶しさを感じながら過ごしていた。勝手に恵んできて、羨んで頑張れなんて知らないよと思っていた。
 なので、自分は何も生産していないのに、何の困難もない暮らしをする息苦しさを「わかるよ」と思った。
 学校に行かなくていいように自分の頭に石を打ち付ける狡さを私は知っている。転んだと言う狡さとそれで父親をどう動かせるかも知っている賢さも自分の経験に共鳴した。そんな父親を嫌だと思っているのに利用する自分が嫌になるんだよなあ。私はこのような誰も信用しない子供であったし、今でもその子供は成長せずに私の中にいる。
 アオサギは最初、不遜に縁側の中を飛行して、自由なことを見せつけてくる。そこからは本当に不気味だ。ポスターではくちばしの中に目が描かれていたが、くちばしの中に歯茎があるなんてぞわぞわする組み合わせだ、わざとだろ、かわいいマスコットキャラクターをイメージしてたら、こんな不気味な使者だなんて。
 やることも母親の模造品を作るのなんて最悪の冒涜である。だれもだれかの代わりになんてならないんだよ。母親の代わりになろうとする夏子おばさんも、溶けて崩れる母親も、外側を真似て騙されると思ったのか?と周囲すべてに怒りが湧く。
 夏子おばさんが森に行くのをチラと見てほおっておいたのも、関わりたくないという行動だったと思う。しかしここで小説「君たちはどう生きるか」を読み、眞人は世界が広がったのだと思う。そんな簡単に?と思っちゃうとこだが、あの小説にはその力があるので少し舞台装置としてはずるいアイテムだと思う。だから夏子おばさんを助けに行くという気持ちじゃなくて、善き人間でいようという気持ちが眞人を地下の世界に向かわせたのではないかと思う。「夏子おばさんが好きなのか?助けたいのか?」と聞かれたとき、眞人は精いっぱいの誠実な回答をする「(好きじゃないし、善き人間になるためだけど)父の好きな人だから助ける」。それは小説から人と人は繋がりあって生きていると知ったから、亡き母の意思を感じたからかもしれない。
だから眞人は沈んでいくとき覚悟の顔をしている。異世界に飲み込まれるのに動揺しないんだよ。
 そこから眞人の相棒はバトンを渡していくようにくるくる変わっていく、眞人も一人で世界を解釈しながら冒険をしているので、そこに動揺はないのだと思う。異世界に行ってからよくわからないという感想はわかるけど、世界とはそういうものじゃないかと思う。みんな現実世界でも全部納得して理解して生きているのだろうか。私はASDのグラデーションの端っこにいるので、ずっと世界はよく理解できないまま進んでいくものだ。
 ペリカンに生まれてしまったら、飢えて死ぬしか高潔に生きたことにはならないのか。生まれた場所で正しい生き方は決まってしまうなんてすごいムカつくよな。ペリカンに自分を重ねながら、だれに怒ればいいのかわからないのだった。
 インコはコミカルに食べようとしてくる。ペリカンとは打って変わって、ごちそうだ~ペロッて軽い感じで、眞人を捌く前のノリノリのインコはかわいいと思ってしまった。そうなんだよ、食事のたびに神に祈ったりはしない。(ピッコロ社で昼飯の祈りを目の前にしたポルコの顔)
 最後の場面では涙が止まらなかった。
 ここ数日、日常のなかでふいに最後のヒミの言葉が思い浮かんで泣きそうになってしまうことが何度もあった。「こんなにいい子を産めるなら火事で死んでもかまわない」一回しか見ていないので正確なセリフではないが、ヒミの生きることを肯定する姿と言葉を反芻して何度でも感動する。今も思い出して泣いている。眞人が主人公ではあるし、ヒミがそう言ったのも眞人が母の死を受け入れてほしいがゆえからの発言かもしれないが、私には火事という理不尽に殺されたヒミが私は「火事で死んだ」だけの母ではなく「眞人を産んだ(そのような幸福な)」母なんだよと自分自身に胸を張っているように見えた。
 あらゆる不幸なんてないほうがいい、けれど、その運命の中で強く生きる美しさ!人生はあらゆる角度から生きることができるのだ。ヒミの言葉に視野がいっきに開くのを感じた。
 アオサギが最後消えていくとき「どうせ忘れる。それでいいんだ」と言う。
 子供のころ読んだ小説や映画、数々の物語たちを今は忘れてしまっていた。それでも物語から受け取ったものは私の核になって今も残っている。アオサギのサヨナラの言葉は、忘れてしまった物語からの「忘れてもいい、大切なことをおぼえているなら」というメッセージだと思った。泣いた。
 眞人は現実の世界で生きていくことを選んで、父親が身をもって助けに来たことも、夏子お母さんが自分を疎ましく愛おしく思ったことも知るだろう。親がたくさんの顔を持つただの個人だとわかったのは、大学生になって家を出てからだった、そのときの諦めに似た気持ちを映画を通して思い出した。
 もう一度観られないぐらい飲み込むのが大変な自分の映画だった。

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