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破戒無慙ぎりぎり(皐月物語 121)

 児童会室を出た藤城皐月ふじしろさつきは6年4組の教室に戻る前に3組に立ち寄った。修学旅行実行委員の田中優史たなかゆうしを訪ねたが、校庭に遊びに出ていたようなので、教室にいた中澤花桜里なかざわかおりを呼び出した。
「どうしたの? 藤城君」
「バスレクのことでちょっと伝えておきたいことがあるんだ」
 皐月は児童会室で副委員長の江嶋華鈴えじまかりんと話したことを花桜里に伝えた。花桜里によると、3組がバスレクをなしにしてバスの車内で音楽を流すことにするという話が進んでいるようだ。だが、花桜里も優史も著作権法のことは何も気にしていなかったらしい。皐月の伝えた情報は大して花桜里たちの役に立たなかったようだ。
「今の話、田中君にも伝えておくね。著作権のことを心配しなくてもいいってことがわかってよかった」
「そう? そう言ってもらえると俺も調べた甲斐があったよ。じゃあ、3組もがんばってね」
 花桜里と話して皐月は少し気が晴れた。3組を離れようとした時、ちょうど2組の教室から華鈴が出てきた。華鈴も2組の水野真帆みずのまほに情報を伝えていたようだ。
「さっきの話、中澤さんに伝えておいたよ。2組にも伝えてくれたんだ」
「うん」
 華鈴の様子がいつもと違っていた。児童会長らしい硬質な雰囲気ではなく、男子にモテそうな柔らかい表情をしていた。華鈴とはついさっき児童会室でキスをしたばかりなので、廊下のような公な場所で出会うのは何となく気恥ずかしかった。皐月はあえて修学旅行委員会の話をして、感情を通常モードに戻そうと思った。
「3組もバスレクで音楽を流すんだってさ。2組はバスレクどうするんだろう?」
粕谷かすや先生が張り切って、ゲームとか考えているみたいだよ。いいな~、2組は若い女の先生で。うちのおじさん先生と違って、レクとか好きそう」
「1組は太田おおた先生か。粕谷先生みたいにはしゃぐってタイプじゃなさそうだな」
「藤城君のクラスは前島まえじま先生だよね。私も女の先生のクラスになりたかった」
「前島先生は落ち着いていて、太田先生とタイプは近いと思う。でも俺は前島先生、好きだよ」
 皐月と華鈴が話しているところに野上実果子のがみみかこが教室に戻って来た。
「なんだ? お前ら、変なところにいるな。何やってんだ?」
「委員会の仕事で2組と3組に来てたんだよ」
 実果子は機嫌が良さそうだった。言葉はきついけれど、口調が柔らかい。だが、実果子を知らない人が聞いてもこの微妙なニュアンスは皐月以外には伝わりにくいだろう。皐月と実果子は昨年半年間、隣同士で過ごした仲だ。
「そういえばさ、藤城が華鈴の作っためし、食いたいんだって」
「えっ?」
 実果子に昔の話を持ち出され、皐月は少し気分が悪かった。この話は実果子と二人きりだったから話せたことだ。実果子が華鈴に話すのは構わないが、このタイミングはないなと思った。しかもニュアンスが気に入らない。
「俺が華鈴に飯の作り方を教えてもらってるって話をしたら、藤城が食わせろって言うんだ。俺の不味い飯よりも華鈴が作った飯の方が美味いぞって言ったら、華鈴の飯を食いたいんだってさ。華鈴、藤城に飯食わせてやれよ」
「でも藤城君が本当に食べたいのは私のじゃなくて、実果子の料理だよね」
 実果子が一人称を俺にしている時はリラックスしている時だ。だが、皐月の心はざわつき始めていた。二人の女子に自分の話をされ、皐月の神経は張り詰めていた。
「おい、藤城。お前、華鈴の飯が食いたいって言ったよな?」
「ああ。江嶋の作る料理が美味しいって野上が絶賛するから、俺も食べてみたいなって言ったよ。でも俺は野上の作る料理も食べてみたい」
 実果子の言い方にカチンときたが、話を華鈴から実果子に軌道修正しようとした。皐月は自分でも料理をすることがあるから、純粋に実果子の作る料理を食べてみたいと思っていた。
「お前さ、そういう二股をかけるようなこと言うなよな」
「なんだよ、二股って。料理の話をしてんだろ?」
「女が作った飯を男が食うってことは、そういうことだろ?」
「はぁ? 何言ってんだよ。そんなのお前が勝手にそう思ってるだけだろ? それともなんだ……お前、俺がお前の飯を食いたいって言った時、告白されたとでも思ったのか?」
 いきなり実果子にビンタをされた。派手な音が鳴ったが、皐月はそれほど痛みを感じなかった。教室にいた2組と3組の連中が一斉にこっちを見た。
「無神経な奴だな。お前のそういうところが気に食わねえんだよ」
「俺も一方的に責められるのは気に食わんな」
 皐月もビンタをし返してやろうと思ったが、実果子が涙目になっているのを見て、正気を取り戻した。皐月と実果子は5年生の時によく喧嘩をしていたが、ここまで険悪になることはなかった。
「ちょっと二人とも、喧嘩はやめてよ……」
 いつも落ち着いている華鈴が珍しくおろおろしていた。実果子は目に涙を浮かべながら皐月のことを睨みつけていた。
「俺は料理を食べるのが好きだから、野上のも江嶋のも食べてみたいって言っただけだ」
 言い終わると、皐月は急に頬に痛みを感じ始めた。実果子はまだ皐月のことを睨んでいた。
「野上」
「……なんだよ」
 実果子の瞳の光が揺れた。
「お前の作った飯、絶対俺に食わせろよ」
「……クソ不味くても知らないからな」
 実果子は皐月と華鈴を残して教室に入って行った。皐月も実果子に続いてこの場を去り、自分の教室に向かった。華鈴は2組と3組の境目のところに一人取り残された。
 華鈴が呆然と皐月のことを見ていると、2組の教室から真帆が出てきて、華鈴の傍までやって来た。
「会長、どうかしたの?」
「うん。藤城君と実果子が喧嘩を始めちゃって、ちょっと驚いただけ」
「へぇ~、喧嘩ね」
「でも、もう仲直りしたみたいだからいいんだけど……」
「もう仲直りしたの?」
「うん、そうみたい。去年もあの二人はよく喧嘩をしてたけど、やっぱりすぐに元の二人に戻ってた。でも今日のはちょっと激しかったな……」
 華鈴の目から涙があふれた。それを見た真帆が慌ててハンカチを取り出して、華鈴の頬を濡らした涙を拭いた。

 皐月が4組の教室に戻ると、皐月の班は栗林真理くりばやしまりしか席にいなかった。真理は相変わらず受験勉強をしていた。
「真理、一人なんだ」
「うん。金曜日はいつも絵梨花えりかちゃんも千由紀ちゆきちゃんも図書室に行ってる」
「ああ……返却日か。真理は図書室で本、借りないんだ」
 皐月は自分の席に座った。真理は勉強している手を止めて振り返り、後ろの席の皐月の方へ体を向けた。
「私は読みたい本は買うから。……ねえ。……今日、家に来てよ」
 皐月は一瞬、躊躇した。茶吉尼天だきにてんの神前で誓ったことを思い出した。その決意はすでに破ってしまったから、罪の意識と自己嫌悪で
血が濁るような感覚になった。
「いいよ。実行委員の仕事が終わったら行くよ。でも、今日は家で晩御飯を食べなきゃならないから、6時までには帰る」
「わかった。じゃあ、待ってる」
 真理は身体の向きを元に戻し、再び受験勉強を始めた。皐月は朝の読書で読んでいた芥川龍之介の文庫本を取り出し、『或阿呆の一生』を読み始めた。
 二人は教室内ではあまり仲良くし過ぎない方がいいことを気にするようになっていた。皐月には真理がどうして周りに配慮するようになったかわからないが、皐月は他の女子に真理との恋愛関係を悟られたくないという、ズルい気持ちで真理とのことを隠している。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が学校中に鳴り響いた。

 帰りの会が終わった後、皐月は修学旅行実行委員の筒井美耶つついみやの前の席に座り、みんなの好きな曲を書いたメモを見せてもらった。全員分が揃ったかどうかを確認していると、皐月たちの周りに女子が集まり始めた。
「ねえ、藤城君。昼休みに3組の野上さんに引っ叩ひっぱたかれたって本当?」
 真っ先に聞いてきたのは恋愛話の好きな惣田由香里そうだゆかりだ。仲良しの小川美緒おがわみお松井晴香まついはるかが由香里の後ろで聞いていた。美緒は心配そうな、晴香は機嫌の悪そうな顔をしている。
「本当」
「ねえねえ、何があったの? 喧嘩?」
「そう。ただの喧嘩。別になんもねーよ」
「痴話喧嘩?」
 昨日、美耶の真似をして皐月をからかった長谷村菜央はせむらなおが皐月と由香里の会話を茶化そうとした。
「まあ、そんなとこ」
 一緒にいた伊藤恵里沙いとうえりさ新倉美優にいくらみゆから歓声が上がった。恵里沙も美優も学校内のゴシップが大好きだ。
「藤城君と野上さんってしょっちゅう喧嘩してたよね。でも藤城君が鼻血出すくらい殴られるとか、なかったよね?」
 5年生の時に皐月と同じクラスだった浅見寿々歌あさみすずかが心配している。寿々歌と皐月は5年生の時に同じクラスだった。
「鼻血なんか出してねーし。なんか話が大きくなってねーか?」
「私はボコボコにされたって聞いたよ」
 恵里沙の聞いた話も大げさに盛られている。
「大丈夫? 怪我しなかった?」
「大丈夫だよ。見りゃわかるだろ?」
 美耶は本気で心配している。確認しなくてもわかることを聞かれ、皐月は美耶のことを鬱陶しく感じた。
「どうせあんたが野上さんを怒らせるようなこと言ったんでしょ?」
 晴香は皐月のことをよく知っていて、図星を突いてくる。皐月はこの時やっと実果子に叩かれた原因がわかった。晴香と実果子は気性の荒いところが似ている。だがコミュニケーション能力は圧倒的に晴香の方が高い。晴香のつもりで実果子をからかったから実果子は怒ったのだろうと皐月は考えた。
「そうだよ。俺が野上のことを怒らせた」
「何を言ってた怒らせたの?」
「秘密」
 どんな些細なことでも皐月は事情を話したくなかった。皐月の秘密主義を面白がっているのか、周りの女子たちが代わる代わる卑俗なことを聞いてくる。そんな彼女らの質問に皐月は全部「秘密」と答えた。
「もう仲直りしたの?」
 うんざりしている中、二人のことを知る寿々歌は真剣に心配をしていた。当時の寿々歌が皐月と実果子の関係をどう思っていたのかわからないが、5年3組の中では皐月と実果子は浮いた存在だった。寿々歌は皐月と実果子のことを遠巻きに見ていたような記憶しかない。
「仲直りしたよ」
 寿々歌とのやり取りの中で場の空気が少し緩んだ。気持ちに余裕ができて周りが見え始めると、皐月は教室の外に実果子と華鈴が立っているのを見つけた。
「ちょっとわりぃ」
 皐月は席を立つと、廊下にいる実果子たちのところへ急いだ。そんな皐月を見て、女子たちがぞろぞろと後からついて来た。
「どうした?」
「実果子が謝りたいって」
 華鈴がお節介を焼いたんだなと思った。昔は皐月と実果子が喧嘩をすると、いつも華鈴が仲裁に入ってた。華鈴はどことなくピリピリとしていたが、実果子は穏やかな顔をしていた。
「藤城、ほっぺた叩いちゃってごめん。痛かった?」
「痛かったー。口ん中、切っちゃった」
「マジ? ごめん!」
 実果子が左頬をさすってきたので、皐月は実果子の右手を掴んだ。
「嘘だよ。怪我なんかしてねーよ」
「なんだ、嘘かよ!」
 皐月は掴んでいた手を実果子に振りほどかれた。
「お前、手加減してくれただろ? 全然痛くなかったよ」
 本当は痛かった。痛かったのは頬だけではなかった。
「野上と喧嘩するのなんて久しぶりだな。同じクラスだったら毎日喧嘩できるのにな」
「喧嘩なんかしたくねーよ」
「そりゃそうか。どうせなら仲良くしたいよな」
 皐月と実果子が笑いあっているのを見て、4組の女子たちが何も言わず、静かにに二人のことを見ていた。その背後から無表情で真理も皐月のことを見ていた。

 皐月が家に帰ると、小百合さゆり頼子よりこがお座敷に出る準備をしていた。芸妓げいこにとって金曜日は毎週のようにお座敷が入る書き入れ時だ。この日は芸妓が足りないのか、頼子も急遽お座敷に出ることになったようだ。
「皐月、あんたには悪いけど、今日は一人で夕飯を食べてもらうね」
 懐かしい言われ方だった。今は頼子も祐希ゆうきも一緒に住んでいるのでこのような言われ方をしない。一人で夕食をとるということは、祐希の帰りが遅くなるということだ。皐月は頼子に祐希のことを確かめた。
「頼子さんもお座敷になったんだね。祐希って帰りが遅いんだ」
「私がお座敷に出るってメッセージを送ったら、外で晩御飯を食べてくるんだって。ごめんね、皐月ちゃんのこと一人にさせちゃって」
「別に俺はいいけど。それに晩飯だったら何か買って食べてもいいし、自分で作ったっていいし。たまにジャンクな物を食べたくなっちゃうんだよね。だから気にしないで、頼子さん」
 皐月は独りで夕食を食べろと言われ、チャンスだと喜んだ。真理と一緒にいられる時間が長くなる。その浮き立つ気持ちを紛らせるために皐月は頼子を安心させる話をひねり出した。
「皐月、あんたジャンクな物って何を食べるつもりの?」
「え~っ、例えば菓子パンとか、カップ麺とか……。そういうのって昔よく食べてたからさ、時々無性に食べたくなるんだよね」
「じゃあ食事代は500円もあればいいわね」
「うわっ、いつもの半額かよ!」
 そんなつもりはなかったが、ジャンクフードの話をしているうちに皐月は本当に菓子パンが食べたくなってきた。菓子パンなら真理の家からゴミを持ちかえれば物的証拠にもなる。
「そっか……。私がここに来てから皐月ちゃんは一度も菓子パンとかカップ麺とか食べていないよね。私は独りでお昼を食べる時に、時々パンやカップ麺を食べたりしてたからね。祐希だって高校の購買で買い食いしているみたいだし。……ごめんね、皐月ちゃん。今まで気づかなくて」
「いいよ、そんなことで謝らなくたって。いつも美味しいご飯を食べさせてもらっているんだから、感謝しかないよ」
 皐月は2階の自分の部屋へ行き、ランドセルを下ろし、体操服から私服に着替えた。真理にメッセージを送り、小百合と頼子を送り出してから家を出ることを伝えた。夕食を一人で食べることはあえて伝えなかった。

 小百合と頼子を見送った後、皐月はすぐに家を出た。駅前のコンビニで夕食のパンを買ってから真理の家に行こうと思ったが、思い直して何も買わずに手ぶらで行くことにした。豊川駅の東西自由通路を渡って東口を出ると、相変わらず人も車もいなかった。背徳感と寂しさを抱えながら、皐月は真理の住むマンションへと早歩きで向かった。
 真理の部屋のインターホンを鳴らすと、学校とは違う雰囲気の真理が出てきた。ドキッとした。
「どうしたの? やけに可愛いじゃん」
「ちょっとメイクしたの」
 今日の真理はリップだけでなく、目元もメイクをしていた。皐月は真理に可愛いと言ったが、本当は綺麗だと言いたかった。咄嗟のことで本心を言えず、つい女子を喜ばせる時に言うような軽薄な言葉を使ってしまった。
「服も着替えたんだ。こんなお洒落な格好して学校に来たことないよな」
 真理はファッション雑誌から抜け出したような服を着ていた。こういう真理を皐月はあまり見たことがない。
「これは名古屋に行く時に着る服。明日、塾に着ていくつもりだったの」
「そんなの今日着ちゃってもいいのかよ?」
「明日もこの服で行くからいい。まあ入って」
 真理に促されるまま、皐月は部屋に上がった。いつものように真理がじゃれついてきたが、今日はキスをしてこない。真理は皐月の顔を見つめながら、ずっと妖しく微笑んでいる。香水は前に皐月が真理の部屋に来た時と同じものだ。
 皐月は真理と二人でいる時は真理のことだけしか考えないようにと思っていた。だが、挑発的な真理を見ていると、児童会室でキスした後の恥ずかしそうに微笑んでいた華鈴のことを思い出した。真理と二人でいるのに、皐月は華鈴のことを急に愛おしく感じた。
 華鈴の記憶を振り払おうと真理にキスを迫ると、顔を引かれかわされてしまった。少しイラっとした。
「皐月、私とキスしたいの?」
「当たり前じゃん」
「だめ~」
 真理は皐月から身体を引き離し、笑いながら自分の部屋へ行ってしまった。すぐに追いかけるのも癪だから、皐月はゆっくりと真理の部屋へ入った。
 真理はベッドに座っていた。皐月も真理の隣に座った。体の重みでマットがたわみ、体と体が密着した。
「なんで拒むんだよ」
「だって、せっかく可愛くメイクしたんだよ。もうちょっと私のこと見てよ。それに皐月はエッチだから、すぐにメイクをぐちゃぐちゃにするでしょ?」
「しないように気をつけるよ」
 皐月は真理の肩を抱き、髪に優しくキスをした。香水と整髪料の匂いの混じった、女の濃い香りがした。皐月に体を預けたまま真理が話し始めた。
「皐月ってさぁ……野上さんと仲がいいんだね」
 真理は放課後の皐月と実果子のやり取りを見ていた。何か聞かれるだろうな、と皐月は予想していた。何も聞かれないよりはいい展開だと思っていた。
「まあね。去年同じクラスだったし、北川に半年も隣同士の席にさせられてたからな」
「先生が席を決めてたの?」
「そう。北川の奴、俺と野上のことを問題児扱いしててさ、それで俺たちをくっつけて江嶋に監視させてたんだ」
「皐月が問題児? 嘘でしょ?」
「なんかそうだったみたい。授業中におしゃべりしたり、宿題を出さなかったりしてたからかな。それでいてテストは全部満点だったし、俺のことが気に食わなかったんだろ」
「あれ? もしかして自慢しちゃってる?」
 真理がくすくすと笑った。
「5年の時はクラスに真理がいなかったからな。俺みたいな奴でもクラスでトップになれたんだよ」
 真理や絵梨花と同じクラスにいると成績のことで自慢できないことくらいはわかっている。皐月は時々、無双していた5年生の時を思い出すことがある。あの頃の自分と今の自分を比べると、プライドがズタズタになる。
「俺と野上はしょっちゅう喧嘩してたんだ。あいつって気性が荒いからさ、気に障ることを言われるとすぐに怒るんだ。まあ、いつもの喧嘩だよ。それを見ていた奴らが大げさに騒いだだけだ」
「へぇ~。じゃあ皐月、気に障るようなことを言ったんだ」
「言ったのかな? 俺、よくわかんないんだ。あいつが何を怒ったのか。まあ怒ったって言っても、大して怒ってなかったけど」
「ふ~ん」
 本当はある程度わかっていた。だが実果子と自分のプライドを守るため、このことは絶対に人には話せない。
「久しぶりに喧嘩をしたから距離感を間違えたのかな。クラスが離れてからだいぶ時間が経ったから、お互い5年生の頃とは変わったってことに気付かなかったのかもしれない」
 皐月はすっかり興醒めしてしまった。抱いていた肩から手を離し、立ち上がって窓辺に移動した。夕暮れの外の景色を眺めていると、真理の部屋に来たばかりなのに、もう家に帰りたいと思い始めた。
りん姐さんと俺のママ、別のお座敷みたいだな」
「お母さんは明日美あすみ姐さんと一緒なんだって。だから今日はちゃんと家に帰ってくるけど、帰りは遅くなると思う」
「そうか……良かったな」
「もう帰って来ても来なくても、どっちでもいいけどね。独りは独りで気楽だし」
 皐月には真理の言葉が本心なのか強がりなのか、わからなかった。だが、以前よりはメンタルが安定していることは伝わってきた。そんな真理の変化が嬉しくて、皐月は優しい気持ちを取り戻した。
「今日さ、頼子さんもお座敷に出てるんだ。だから家で晩御飯をたべられなくてさ。真理、俺の晩飯付き合ってくれない?」
「いいけど……私の晩御飯、お母さんが用意してくれてるの。どうしよう……」
「真理は凛姐さんの作ってくれたものを食べればいいじゃん。俺はどこかでパンを買ってくるよ。ママや頼子さんにも菓子パン食うって言ったからさ、ごみを持ち帰りたいんだ」
「へぇ……皐月も私みたいなアリバイ工作するんだ。悪い子だね」
「当たり前じゃん。俺がいい子のわけないだろ?」
 真理がベッドサイドにある月をかたどったナイトライトの明かりをつけた。ベッドから立ち上がり、窓辺にいる皐月のもとへやって来た。真理から皐月に抱きついてきて、軽い口づけをしてきた。
「窓の外から見えちゃうぞ?」
「見せてあげてるのよ」
「お前、バカだろ?」
 今度は皐月からキスをした。真理には華鈴へしたときのように優しくはしなかった。
(これで二人目か……)
 快感と背徳感で理性を抑えられなくなってきた。目の前にベッドがあるのが見えた。皐月は真理の身体を押し、ベッドに倒した。
「ちょっと……服がしわになっちゃう。明日、塾に着ていかなければならないんだから……」
「じゃあ脱げよ」
「皐月、いやらしい!」
「いやらしい俺は嫌い?」
「好き」
 夜が迫って来た。真理は皐月の顔を引き寄せ、官能的なキスをしてきた。メイクの崩れを気にした皐月は顔を離し、優しく口づけを返した。ピンクのリップが少し乱れていたが、枕元の月影に照らされた真理はえもいわれないほど美しかった。真理は自分から服を脱ぎ始めた。

 真理の住むマンションを出て家に帰ると、及川祐希おいかわゆうきはまだ家に戻っていなかった。祐希は嗅覚が鋭いので、皐月は真理の匂いを消すために早速風呂を沸かして入った。
 風呂から出て自分の部屋に戻ると、隣の祐希の部屋の明かりがついていた。祐希はもう帰っているようだ。皐月は二人の部屋を隔てている襖をノックした。
「祐希、お帰り」
 小さな声で「ただいま」と返事があった。声にあまり元気がないように感じた。
「お風呂、入れるようにしてあるからね」
 襖を開けずに言うと、祐希からの返事がなかった。祐希の態度が少し気になったが、皐月は学校から持ち帰ったバスレク用のプレイリストを作ろうと思い、机上のノートPCを立ち上げた。皐月はヘッドホンをして Spotify を開き、みんなのリクエストの書かれたメモを見ながら曲を検索し始めた。
 襖がノックされ、祐希が皐月の部屋に入って来た。祐希は暗い廊下を通りたくなくて部屋に入って来たのだろうと思い、皐月は振り向きもしないで作業に没頭していた。
「何してるの?」
 祐希が背後から肩越しに顔を寄せて来た。思わず祐希の方を見ると、顔が至近距離にあった。もう少し大きく振り向けばキスをしていたかもしれなかったが、ヘッドホンが邪魔でできなかっただろう。皐月はおもむろにヘッドホンを外した。
「修学旅行の帰りのバスの中で流す音楽を集めてる。みんなから好きな曲を聞いたんだ」
「ふ~ん。ちゃんと修学旅行の委員をやってるんだ」
 祐希は相変わらず顔を寄せたまま画面を見ていた。皐月はここで祐希が制服姿のままだと気が付いた。着替えの入ったトートバッグを床に置き、祐希は皐月の肩に手をかけて、また顔を寄せてきた。
「祐希。顔、近い」
「嫌なの?」
「別に……」
 祐希の声のトーンが平板だった。皐月には元気がないと言うよりも、機嫌が悪いよう感じた。
「皐月、いい匂いがするね」
「風呂上がりだからな」
 祐希の様子が少しおかしい。何があったのかわからないが、皐月には画面を見つめている祐希から言い知れない哀しみが伝わって来た。理由を聞いてはいけないと思った。
「そんなに顔が近いと、キスしたくなっちゃうんだけど……」
「したかったら、してもいいよ」
 祐希は無感情に画面を見ていた。言われた瞬間は神経を逆撫でされたが、よく見ると祐希は画面を見ているようで見ていないことがわかった。皐月はそっと頬に口づけをした。祐希が動くまで、ずっと唇を触れたままでいようと思った。
「そんな遠慮しなくてもいいのに」
 祐希から皐月の唇にキスをしてきた。今日はキス慣れをしていたせいか、皐月は抵抗なく祐希のキスを受け入れてしまった。
(これで三人目だ……)
 祐希のキスからは愛情を感じられなかった。少し乱暴で、ヤケになっているような気がした。こんなことをされていても切なくなるだけだと思い、皐月は身体を反らしてけた。
「ちょっと待って。この体勢、首が痛い」
「あっ、ごめん……」
 椅子から立ち上がり、祐希と向き合った。制服姿の祐希を見ていると、皐月は荼枳尼天だきにてんの前で煩悩を祓うと決意したことを思い出した。
 今日はすでに三回も誓いを破っている。罪の意識にさいなまれ、心がぐちゃぐちゃになってきた。今、目の前には祐希しかいないのに、真理のこと、華鈴のこと、明日美のことが頭の中で点滅するように去来した。
「皐月、怒ってる?」
「……怒ってないよ」
 皐月には祐希が高校生で自分より年上なのにひどくか弱く見えた。さりげなく抱き寄せてみると、そのまま身体を預けてきた。制服から埃と汗の臭いがした。
「祐希からキスしてくれて嬉しかった」
 これは半分本心だ。だが皐月には祐希が何を考えているのかわからなくて、言葉とは裏腹の気持ち悪さを感じていた。
「また千智ちさとちゃんに悪いことしちゃった……」
「俺はロータスに悪いなんて思わないけどね」
「ロータス?」
「英語にした。祐希の彼氏の名前なんてストレートに言いたくないからな」
 皐月からキスをしても、祐希は逃げなかった。優しいキスはしなかったが、祐希は前の時のように慌てて唇を離すようなことはしなかった。
 心が気持ち悪くても身体が気持ち良くなってくると、何もかもがどうでもよくなってくる。一日で三度も戒律破りをしていると、自分の良心が信じられなくなってくる。
 だが皐月は祐希の気持ちに応えることには誠実でいたいと思っていた。祐希がどんな気持ちでキスをしてきたかはわからないが、皐月は祐希を拒否して突き放す気にはなれなかった。祐希は今も自分にしがみつくように抱きついている。
 二人しかいない世界なら、モラルよりも相手の気持ちに呼応することの方が大切じゃないかと、皐月は開き直るように自分を納得させてようとした。だが、皐月にはまだ恥ずかしく思う心が残っていた。


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