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修学旅行前夜(皐月物語 128)

 藤城皐月ふじしろさつき江嶋華鈴えじまかりんは二人だけの最後の修学旅行実行委員会を終え、4・5年生たちが授業を受けている静かな学校を出た。華鈴と一緒に下校するのはこれが最後になるのかもしれない。そう思うと皐月は明日の修学旅行がいつまでも来なければいいのにと、幼いことを考えた。
 校門を出て左に曲がり、しばらく細い路地を歩いていると、華鈴に袖を引っ張られた。
「一緒に帰ろうって言ったのに、何も話さないんだね」
 修学旅行が終われば華鈴と会う理由がなくなってしまう。皐月はそんなことを考えていたら寂しくなり、話しかける軽い言葉が何も出てこなかった。
 華鈴に皐月の無言に腹を立てている様子はなかった。だが、沈黙を破る最初の一言がこれだと思うと切なかった。皐月は修学旅行の終わりなんかで華鈴との繋がりを切りたくなかった。
「5年生の時みたいに江嶋と同じクラスだったら、修学旅行が終わっても毎日話ができるのにな」
「同じクラスだったとしても、席が近くなければわざわざ私のところまで話しになんか来ないでしょ」
「今の俺なら行くよ」
「それなら6年1組の私のところまで会いに来てよ」
 5年生の時の後半の半年間、華鈴が後ろの席に固定されていたことは皐月にとって平和で幸福な時間だった。6年生になり、華鈴と務めた修学旅行実行委員の短い期間は久しぶりに訪れた幸せな時間だった。だが、恋愛を知った皐月には華鈴を異性として意識するようになり、心が揺れる日々でもあった。
「俺なんかが江嶋に会いに行ったら、変な噂を立てられちゃうぞ?」
「噂になって困るのは、私よりも藤城君でしょ?」
 華鈴と二人で児童会室にいた時、皐月は確かに華鈴のことを好きだった。華鈴が自分をファーストキスの相手に選んでくれた時、華鈴も同じ想いだったのかもしれない。だがここで軽率な行動を取ると、さざなみの日常が大波にさらわれてしまうかもしれない。
「俺はもういろいろ噂になり過ぎているからな。今さら噂が一つ増えたって、どうってことねえよ」
「じゃあ言い方を変える。噂になって困るのは、私よりも入屋千智いりやちさとさんだよね」
 確かに千智には嫌な思いをさせるかもしれない。しかし千智は5年生だ。学年が違うと噂の伝わり方も変わってくる。千智に自分の噂がどのように伝わっているかはわからないが、今のところ千智が自分の噂に苦しんでいる様子はない。
「俺と噂になることが光栄だって思えるくらい、俺が魅力的になればいいんだよな。そうなれば千智は困らないし、江嶋だって嫌な思いをしなくて済むだろう」
 開き直るとこういうことになるのかと、強がりから出た言葉に皐月は天啓のようなものを感じた。この時、心の中のさざなみがおさまって、いだような気がした。

 二人は皐月の家の前の松枝の下まで来た。華鈴は家まで送らなくてもいいと言ったので、ここで別れなければならない。だが、まだ話し足りない皐月は華鈴と別れがたくなっていた。この後、栗林真理くりばやしまりと会う約束をしているので、ここで未練を断ち切らなければならない。
「ちょっと待ってて。前に食べた羊羹があるから、持ってくるよ。お土産だ」
「いいよ、気を使わなくても」
「明日の修学旅行に持っていこうと思って買ってあるんだ。訪問先は別々だけど、同じおやつを食べようぜ」
 玄関を開け、大きな声で「ただいま!」と言うと、奥から母の弟子で住込みの及川頼子おいかわよりこが出てきた。母の小百合さゆりも家にいるはずだが、出てこないということはお座敷の準備をしているのだろう。
「おかえり。あれっ? この前、家に来た子?」
 頼子が皐月の背後にいた華鈴に気が付いて、嬉しそうな顔をした。
「こんにちは。江嶋華鈴です。御無沙汰しています」
「こんにちは。今日は遊びに来てくれたのかしら?」
「いいえ。帰り道が同じだから一緒に下校したんです」
 皐月は遮るように頼子と華鈴の話に割り込んだ。
「ねえ、頼子さん。明日の修学旅行に持っていくおやつの羊羹なんだけど、江嶋にも分けてあげてもいい?」
「井村屋の『片手で食べられる小さなようかん』ね。ちょっと待ってて。持って来てあげる」
 頼子が台所に下がって、羊羹を取りに行った。華鈴は玄関の中には入らず、外で待っていた。
「この前もらった羊羹だね。あれ、美味しかった」
「江嶋はおやつ、どうするの? 餡ドーナツは持っていかないの? 前、俺に食べさせてくれたやつ」
「そうだね、餡ドーナツか……。家にあったと思うから、持っていこうかな。羊羹のお礼に藤城君にも分けてあげる。明日の朝、出発式の前に渡しに行くよ」
「ホント? 華鈴んで食べた餡ドーナツ、美味しかったから楽しみだ」
 頼子が台所から戻ってきた。手には羊羹が二つあった。皐月が受け取って、華鈴に羊羹を一つ渡そうとしたら、頼子に叱られた。
「こらっ! 二つとも江嶋さんにあげるんだからね」
「ああ、そうなんだ……。ごめんごめん」
「江嶋さん。よかったらまた遊びに来てね」
「はい。今日はありがとうございました」
 華鈴は頼子に頭を下げ、皐月の家から去ろうとした。皐月は慌てて華鈴を追いかけようと、玄関の式台にランドセルを置いた。
「ちょっとそこまで送ってくる」
 華鈴は少し先で皐月が追ってくるのを待っていた。顔を見合わせた二人はどちらからともなく笑顔になった。
「表参道まで送るよ」
「ありがとう」
 皐月の先導で事務用品店の角を左に曲がり、細い裏路地に入った。料亭や小料理屋、スナックなどが並ぶ小径こみちを通り抜けると栄町商店街の端、豊川稲荷の表参道に出る。皐月と華鈴はレトロな琺瑯ほうろう看板の下で別れることにした。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「修学旅行、楽しみだな」
「うん」
「今日は江嶋の家に行けないけど、また遊びに行ってもいい?」
「……ダメ。入屋いりやさんに悪いから」
「……そうか」
「うん」
「じゃあ俺、帰るね」
「バイバイ」
 華鈴は豊川進雄神社の方に向かって歩き出した。しばらくその場で見送っていたが、華鈴は一度も振り向かなかったので、皐月も家に向かって歩き出した。

 皐月が家に帰ると、居間で頼子と小百合がお茶を飲んでいた。小百合は九割方、化粧を済ませていた。
「おかえり。皐月が連れてきた女の子、見たかったな~。あんた、結構女の子と遊んでるんだね」
「違うよ。修学旅行の委員会があったから、一緒に帰って来ただけだ。家の方角が一緒なんだよ」
 親に女の話をされるのは面映ゆい。それに小百合が面白がっているのが憎らしい。
「小百合。その子ってこの前話した、児童会長をしている江嶋さんっていう女の子よ。しっかりしてて、いい子なの」
「へぇ~。皐月は女を見る目はあるんだね。この前うちに来た千智ちゃん、あの子もいい子だったよね。私も頼子も男を見る目がないからね。皐月は私たちとは大違いだね」
 自分が好きになった子を褒められるのは悪くない。だが皐月はこれ以上、華鈴や千智ちさとの話を続けたくなかった。
「ねえ、頼子さん。真理のお弁当のことなんだけど、頼子さんに作ってもらってもいい?」
「もちろんよ。お弁当のことはりん姐さんさんに頼まれていたからね。真理ちゃんは遠慮して、コンビニでパンを買うって言ってたらしいから、ちょっと心配だったのよね」
「じゃあ、後で真理に伝えておくね」
 皐月はランドセルを持って、二階の自分の部屋に上がった。家に母がいるということは、真理の家にもまだ凛子がいるはずだ。真理にメッセージを送ると、凛子が出かけたら連絡すると返信があった。
 5時少し前に母から呼ばれ、皐月は居間へ下りた。和服に着換え、これからお座敷に出るようだ。
「今日は真理ちゃんを夕食に呼ぶから、後で迎えに行ってあげて」
「うん、わかった。真理が家に来るなんて久しぶりだね」
「お弁当の話を凛子りんこにしたら、真理ちゃんにお礼に来させるって言ってね。そしたら頼子が夕食も食べてったらって言ったの」
 真理の家に行く理由ができたので、皐月は嘘をつかないで真理の家に行けることになった。凛子のことを気にしないで済むのはありがたい。
「頼子さん、今日の晩ご飯は何?」
「豚の生姜焼きだけど、真理ちゃん、大丈夫かな?」
「あいつは何でも食べるから心配しなくてもいいよ。ねえ、ママ。今日のお座敷は凛姐さんと二人?」
明日美あすみも一緒だよ。あの子と組むのは久しぶりだな。あんたの服のお礼を言っておかないとね」
 明日美の名前を聞き、皐月は心がざわついた。秘密を持つと、代償として平穏を失うことになる。凪いだ心は常にさざなみが立つようになってしまった。だがこの漣はまかり間違うと大波となり、大波は怒涛となって愚かな自分を飲み込んでしまうだろう。

 真理の家に着いたのは5時をまわっていた。夕食の6時まであまり時間がない。皐月は最近、いつも時間に追われているような気がする。
 玄関に出てきた真理は学校にいた時と同じ服を着ていた。それでも真理は可愛いが、学校の延長のような感じがしてときめきが薄れる。
「よう」
「入って」
 この日の真理は玄関で抱きついてこなかった。親公認で家に来ているので、気兼ねなくリビングに通され、皐月はソファーに深く座った。真理も隣に座り、唇を求めてきた。
「またキスの仕方が変わった?」
「試行錯誤してるんだよ」
 興奮している真理を焦らすよう、皐月はみちるに手ほどきを受けたソフトなキスをした。うっとりしている真理を見ていると、自分はここに何をしに来たんだろうと錯乱してくる。
「真理……今日は家にご飯を食べに来るんだよな」
「うん。もう少し先の話しかと思ってた」
「親同士が決めちゃったからな。修学旅行の弁当の話は聞いた?」
「聞いた。ありがとう。やっぱりパンを買って持って行くのはちょっと嫌だったから」
 真理が夜、一人でコンビニやドラッグストアにパンを買いに行く姿を想像すると、確かに侘しい。
「そりゃそうだ。弁当は明日、鴨川デルタでランチする時に渡すから」
「みんなの見ている前で?」
「別にいいだろ。俺たちが幼馴染だってことはみんな知ってるし」
「ちょっと照れるね」
 はにかんで頬を赤くしている真理が可愛くて、皐月から真理に口づけをした。今度は真理の癖に合わせたキスにしたので、真理の反応から歓びが伝わってくる。
「お弁当持って移動したら、荷物が重くなっちゃうでしょ?」
「真理の弁当くらい増えたって、たいして変わらないよ」
「優しいんだね」
 今度は真理からキスをしてきた。家に戻る時間まで、二人はこうしてずっと戯れ合っていた。

 皐月が真理を連れて家に帰ったのは夕食の少し前だった。玄関の靴を見ると、祐希はまだ家に帰っていなかった。
 皐月と真理はまず台所へ行った。頼子が玄関に顔を出さない時は、たいてい食事の準備をしている。
「頼子さん。真理、連れて来たよ」
「こんばんは。真理ちゃん、よく来てくれたわね」
 火の前にいた頼子は味噌しを鍋に掛けて振り向いた。
「今晩は夕食をもらいに来ました。修学旅行のお弁当、ありがとうございます」
「いいのよ。一人作るのも二人作るのも変わらないから。祐希が帰ってきたらご飯にするから、それまで皐月ちゃんと遊んでてね」
 どこで時間を潰そうか迷ったが、皐月は自分の部屋へ真理を連れて行った。二部屋が一部屋になった皐月の部屋に真理が入るのはこれが初めてだ。
「狭くなっちゃったね。それに薄暗い」
「襖を閉めてるから、通りから陽の光を入れられなくなっちゃった。前は贅沢に二部屋も使ってたけど、一部屋に圧縮するとこんなもんだ」
「窮屈で可哀想。これじゃあ友達も呼べないね」
「前は頼子さんの部屋を借りて、博紀ひろきたちと麻雀をしたよ」
 勉強机とベッドで部屋の大半を占めているこの部屋には友達を呼べないと皐月も思っていた。これまでは部屋を広く使えるのをいいことに、家に友達を呼んで遊んでいたが、今では自分から友達の家に遊びに行くようになっていた。
「私、勉強机のところに座ってるね」
 ベッドに腰掛けながら、学習椅子に座っている真理を見た。皐月は千智が家に遊びに来た時のことを思い出した。あの時は二人でノートPCで豊川進雄神社の手筒花火と綱火の画像を見ようとしていたら、月花博紀げっかひろきたちが遊びに来た。健全で無垢だった頃の自分が遠い昔のことのように思えた。
「皐月、『応用自在』で算数してるんだ」
「真理に貰った『特進クラスの算数』は俺には難し過ぎた。でも『応用自在』の例題は全部やったし、解法はもう覚えちゃったから、修学旅行が終わったら『特進クラス』に挑戦しようと思ってる」
「そうか……皐月も勉強頑張ってるんだね」
「算数は脳トレみたいで面白いな。今は算数だけじゃなく、小説を読んだり、ネットで神社やお寺の歴史の勉強をしてる。修学旅行が終わったら、英語と数学の勉強もしてみようかな」
 受験勉強を頑張っている真理に、自分が好き勝手やっていることを話すのは気が引けた。これからはお互いに違う道を進むんだな、と皐月は寂しくなった。真理は名古屋の私立中学に行く。そこは女子校なので、皐月が追いかけて行ける世界ではない。真理と同じ学校に通える時間はあとわずかしか残っていない。
 階段を上る音が聞こえてきた。祐希が高校から帰って来たようだ。いつもの祐希なら皐月の部屋を通って自分の部屋に戻るが、今日はこの部屋に真理がいる。
 皐月の部屋がノックされ、ドアが開かれた。真理が来ているのを聞いていたからなのか、祐希は部屋に入って来なかった。
「ただいま。真理ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、祐希さん。お邪魔しています」
「真理ちゃんと一緒にご飯食べるの、久しぶりだね。お母さんにもう食事の準備ができるから降りてらっしゃい、って言われたよ」
「わかった。じゃあ俺たち、先に下に行ってるね」
 皐月と真理が立ちあがると、祐希は皐月の部屋を通らずに廊下をまわって自分の部屋に戻った。祐希の後姿を見て、皐月はほっとした。

 この日の夕食は豚の生姜焼きだった。生姜味のたれで焼かれた豚肩ロースは体を温めて胃腸の調子を整えてくれる。豚肉に含まれるビタミンB1は糖質をエネルギーに変え、疲れを取ってくれる。旅行前にふさわしい献立だ。
「初日の京都旅行では六人一組で班を作って、班ごとに好きなところを観光するんだ。真理と俺は同じ班になったんだよ」
 皐月は京都旅行について、頼子や祐希に細かい話をしていなかった。頼子に真理の弁当を作ってもらうので、真理と一緒に京都をまわることを話しておきたいと思っていた。
「このあいだ遊びに来た博紀君も同じ班なの?」
 頼子が博紀の名前を覚えていたことに驚いた。華鈴のことは『この前、家に来た子』と言っていた。博紀はこんなおばさんにもインパクトを与えるんだなと感心した。
「ううん。あいつは別の班だよ」
「そうなの? お友達なのに?」
「先生が勝手に班のメンバーを決めたから、博紀とは同じ班になれなかったんだ」
「信じられない! 仲のいい友達と同じ班になれないの?」
 祐希の反応はクラスの陽キャの反応と同じだった。皐月は祐希がどんな高校生活を送っているのか知らなかったが、多分幸せなんだろうと思った。
「班決めはくじ引きで決めるクラスもあれば、友達同士で班を決めるクラスもあるよ。好きな子同士で班を決めたクラスはめっちゃトラブってたみたいだけど」
「あ~、余った子問題ね。確かに私たちのクラスでもそういうあったな……」
「多分うちの担任はそういう残酷な事態を避けようとしたんだと思う。おかげで俺は真理と一緒の班になれた。なっ」
 皐月は真理に笑顔を見せた。真理は食卓についてから全く会話に加わってこなかったので、ここで相槌でも打ってもらいたかった。
「先生に班を決めてもらった方が不満が平等になっていいと思う。満足度は好きな子同士で班を決める方が高いと思うけど、不満というか、悲しみの総量は好きな子同士の方が高いと思う」
 抽象度の高い言葉を多用した言い方で真理が会話に加わった。真理の性格を知っている皐月には真理に他意がないことがわかる。だが、祐希はどうだろう。祐希は真理の言葉に言外の含みを憶測するかもしれない。皐月には真理の言いたいことがよくわかって感心したが、祐希はこれを批判されたと受け取ったかもしれない。
「俺なんか博紀のグループから弾き出されちゃうから、ぼっちになってたかもな。先生に班を決めてもらえて良かったよ」
「皐月ちゃんは真理ちゃんと同じ班になれたからよかったんだよね~」
 頼子のフォローがありがたかった。これで祐希の意識をらすことができそうだ。
「他のクラスだと、男子だけ女子だけの班っていう決め方したクラスもあったよ。俺たちは男子3人女子3人の班って決められてた。もしうちのクラスも男だけの班にされたら、真理とは同じ班になれなかったからね」
 これは皐月の作り話だ。祐希には真理に意識を向けられたくなかったから、皐月は嘘をついた。さざなみを大波にしないように気を使うのはひどく疲れることだ。
「同じ班に鉄道ヲタクとオカルトマニアがいてさ、そいつらが観光ルートを決めるのに活躍してくれたんだ」
 皐月は明日の京都巡りの詳細に話題を移した。興味深く、感情の揺れない話をして、どうにかこの緊迫した夕食を乗り切ろうと思った。
 皐月は主に頼子を意識して明日参拝する寺社の紹介をした。真理には観光ガイド的な説明をしてもらい、皐月はマニアックな情報を補足した。頼子は楽しく聞いてくれたが、祐希に興味を持ってもらえるように話すのはなかなか大変だった。祐希は少し機嫌を損ねていたようだ。

 食事を終え、皐月は真理と二人で玄関へ出た。頼子は見送りに来たが、祐希は自分の部屋に戻った。
「じゃあ真理のこと、送ってくる」
「明日は朝が早いから、あまり遅くならないようにね」
「家まで送り届けたら、すぐに帰ってくるよ」
 皐月と真理は夜の街へ出た。この時間ならまだアーケード商店街には開いている店もある。喫茶店のパピヨンもまだ営業していた。
「パピヨンでお茶でもしていく?」
「何言ってんの。私は帰って、少しでも勉強するよ。修学旅行期間は受験勉強できないんだから」
「そんなの受験生ならみんな同じだろ? 焦り過ぎなんじゃない?」
「わかってるけどさ……やれることはやっておかないと気持ちが悪いから」
 真理は変わったな、と思った。皐月の知っている真理はもっと楽な方に流される子だった。中学受験が真理を変えたのだろう。それに引き換え自分は女の間を行ったり来たりしている。華鈴には偉そうなことを言ったが、今の自分は魅力的な男とは程遠い。それどころかひどい有様だ。皐月は自己嫌悪に沈んだ。
「真理は偉いな。そういうところ、好きだよ」
「うわぁ~。皐月が好きなんて言うの、珍しいね」
「そうか?」
「私も皐月の素直で、よく気がきくところが好き」
「じゃあ、俺って神様みたいないい子?」
「皐月が神様? さすがに神様はないって。ハハハ」
 皐月も真理に合わせてヘラヘラと笑った。だが、このやりとりで真理が『人間失格』を読んでいないことはわかった。真理は京橋のスタンド・バアのマダムの台詞を知らないようだ。
 皐月は以前、文学少女の吉口千由紀よしぐちちゆきに「葉蔵ようぞうみたいだね」と言われたことがある。真理の一言が千由紀の一言と繋がり、自分が人間失格の烙印を押されたような気がして薄ら寒いものを感じた。
 真理の住むマンションの前までやって来た。周りに誰もいないことを確認し、二人は素早くキスをした。外でこんなことをするのは初めてだった。
「じゃあ、明日。私のお弁当、忘れないでね」
「わかってるよ。真理こそ明日、寝過ごすなよ。朝早いんだからな」
「大丈夫だって。ちゃんと起きられるから。それにお母さんも起こしてくれるって言ってるし」
「へぇ~。凛姐さん、頑張って早起きするんだ」
「私を起こしたらすぐに寝ると思うけどね」
「夜遅い仕事だからしかたがないよな」
 もう一度まわりを確認し、キスをして別れた。自分も真理も大胆になったと思った。風が涼しかったので、皐月は豊川駅の東西自由通路の階段を一気に駆け上がった。

 家に帰ると祐希が風呂に入っていた。皐月は入浴の順番待ちの間に明日の用意を終わらせた。弁当とスマホ以外の物を全てバッグに詰め込み、明日美と一緒に選んだ服を勉強机の上に置いた。スマホを持って行くのは禁止されているが、皐月はバスレクの音楽再生のためだけに使うことで、修学旅行実行委員として特別にスマホを持って行く許可をもらった。
 この日は皐月のスマホにたくさんのメッセージが届いた。毎日やり取りしている千智以外にも、同じ班の二橋絵梨花にはしえりかや、同じ修学旅行実行委員の筒井美耶つついみやからもメッセージが届いていた。どちらも明日の修学旅行のことが楽しみだという他愛もないものだった。
 明日美からもメッセージが届いていた。仕事の合間に送ってくれたのか、手短に「いってらっしゃい」とだけ書かれていた。明日美とは日曜日に会う約束をした。みちるからも「お土産ヨロシク」と一言だけのメッセージが来た。こんな軽い言葉なのに、皐月は満からレッスンの続きをしてもらいたくなってしまった。
 祐希が階段を上ってくる足音が聞こえた。皐月の部屋のドアを開けた祐希は濡れた髪と上気した顔が色っぽかった。
「お風呂に入っておいで」
「うん、わかった」
 部屋を出ると、祐希は洗面所で髪を乾かしていた。ドライヤーの風が風呂上がりの匂いを運んできた。皐月は真理との逢瀬では満ち足りなかった。祐希の色香に狂いそうになったので、逃げるように階段を下りた。
 風呂を上がり、すっきりした気分で部屋に戻ると祐希に襖をノックされた。襖を開けるとパジャマに着替えた祐希が延べられた床の上に座っていた。一緒に夕食を食べていた時とは違い、表情が柔らかかった。
「明日の準備はもうできたの?」
「うん。終わった。完璧」
「忙しい?」
「う~ん。少しお寺や神社の歴史とか予習しておきたいところだけど、いいよ」
 皐月は自分の部屋のベッドから下り、祐希の部屋の畳の上に座って自分のベッドにもたれた。
「いよいよ修学旅行だね。明日は皐月、この部屋にいないんだ」
「なんだ、寂しいのか?」
「まあ少しは寂しいかな。皐月は?」
「俺はどうせクラスの奴らと大騒ぎしてるからな……。寂しいなんて感じる暇もないと思う」
「それもそうだね。でも、少しは寂しがって欲しいな」
「じゃあ、祐希のことを思い出して寂しがることにするよ」
「じゃあは余計だって」
 祐希がいきなり枕を投げつけてきた。修学旅行では枕投げを楽しみにしていたけれど、旅館から禁止されているのでできない。
「皐月と真理ちゃんって、ちょっと恋人同士みたいな雰囲気があるね」
「そう? ただの幼馴染じゃん」
「千智ちゃんよりも真理ちゃんの方が皐月の彼女っぽく見えるんだけどな……」
 そう見られないように注意していたはずだが、祐希は二人の仲がただならないことを感じている。女は勘は鋭いな、と皐月は怖くなった。
「祐希って最近、千智とうまくいってないの?」
「えっ? そんなことないよ。どうして?」
「別に……。千智と仲良くしてくれてるなら、いい」
 皐月は祐希の恋人の竹下蓮たけしたれんにいい感情を持っていなかった。だから祐希も千智に対して良くは思っていないんじゃないかと心配していた。
「皐月は千智ちゃんとうまくいってるの?」
「ああ。俺たちは仲良くしているよ。健全だけどね」
「うん。健全がいいよ」
 自分は不健全な付き合いをしているのに何を言ってるんだ、と皐月は少しイラっとした。だがけがれているのは祐希よりも自分の方だ。祐希に怒りの感情を抱くと、その怒りは何十倍にもなって自分自身に返ってくる。
「どうしたの? 黙り込んじゃって」
 心が闇に堕ちていると、時間の経過がわからなくなる。
「千智は尊いんだ」
「……うん」
 皐月はこの時、祐希と魂が響き合ったような気がした。
「お願いがあるんだけどさ……」
「何?」
「千智のこと、傷つけたくないんだ」
「うん」
「だからさ……俺たちのこと、絶対に秘密にしてほしいんだ」
「……うん。……わかった」
 うつむいていた祐希が顔を上げた。穏やかな表情をしていた。顔にかかった髪をそっとかき上げる仕草が美しかった。
「そうだよね。こんなこと、絶対に知られたらダメだよね」
「そう。絶対に秘密にしておかなきゃいけないんだ。千智は祐希のことを心の支えにしているみたいだからさ。頼むよ」
「千智ちゃんの心の支えは皐月だよ。わかるもん、話してたら。でも……」
「でも?」
「よりによってこんな悪い子を心の支えにするなんて、千智ちゃんも男を見る目がないなって」
「悪い子? 俺、超いい子じゃん」
「え~っ! 悪過ぎでしょ。私にキスしたくせに」
「あれは祐希が悪い」
「えっ? 私?」
「そう。祐希がいい女だから悪いんだ。そんなの抗えるわけないだろ? あーヤベっ! 俺、もう寝るわ」
 ベッドに上がろうとすると祐希に腕を引っ張られ、皐月は祐希の布団に引きずり込まれた。
「なんでそうやっていつも逃げるの?」
「エロいことしたくなっちゃうから逃げてんだろ、バカ!」
「したいなら、すればいいじゃない」
「えっ?」
「女の子だってそういう気持ち、ないわけじゃないんだから」
「……そうかもしれないけどさ、千智の話をした後にそんなことできるわけないだろ?」
「今さら自分だけいい子になろうっていうの? もう遅いよ」
 確かにその通りだった。今さら純真無垢の少年に戻れるはずがない。そんなことは皐月にもわかっていた。ただ覚悟が足りないだけだ。
「祐希はロータスに悪いとは思わないのか?」
「蓮君は関係ない。私は私のもの。好きに生きるんだから」
「じゃあ、千智には悪いって思わない?」
「う~ん。さすがに千智ちゃんには悪いって思う……」
 その言葉を聞いて皐月は安心した。祐希のことを信用してもいいと思った。祐希を布団に押し倒して上に乗った。
「千智のこと、絶対に傷つけるなよ」
「わかってるよ」
「俺たちのこと、絶対に秘密だからな」
「はいはい」
 皐月から祐希キスをすると、すぐに押しのけられた。
「今日はもう寝たら?」
「なんだよ……自分で引き止めたくせに」
「さっき皐月、言ったでしょ? 千智ちゃんの話をした後にこんなことできるわけないって。私もそんな気分になっちゃった」
「……そうだよな」
 皐月も本気で祐希を求めていたわけではなかった。祐希に恥をかかせたくなかっただけだ。
「私たちは千智ちゃんの心の支えなんでしょ?」
「そうだな。ひどい心の支えだよな」
「皐月、絶対に千智ちゃんを悲しませないでね」
「わかってる。千智だけじゃない。祐希だって悲しませないから」
 祐希は起き上がって、皐月にキスをした。
「皐月はかなしいよね」
「俺は別に悲しくないけど」
 祐希の笑みが気になった。皐月にはどうして祐希が笑っているのか、全くわからなかった。


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