異人娼館の怪異

*このテキストは横浜の黄金町を舞台にしたノンフィクション連作短編集「黄金町クロニクル」の中の一作です。

 電書としてリリースしましたが「電書は専用端末がないと読めない」「タブレットがないと読めない」という誤解や風評被害がひどいため、ネット上に晒すことにしました。
 ……皆様、電書はパソコンでも読めます。
 メーカーの陰謀に乗らなくても、お手持ちのパソコンで読書できますのでご安心ください。

 さて、繰り返しになりますが、この作品は「連作の一部」です。
 本作を読んで「もっと読んでもいいかな」と思ったら、「黄金町クロニクル」をどうぞ。
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【異人娼館の怪異】の概要ですが、ざっくり言うと「町を牛耳る組織(笑)から町の自由を取り戻すために、『百物語』というゆる〜い手段で近隣住民がささやかな抵抗を試みましたとさ。そしたらなんか不思議なことがおきまして……」というお話です(実話)。
では、はじまりはじまり。

●風俗街にマリア様を

 遊郭は外界から閉ざされた小宇宙だった。その一角にはかならず神社があった。
 悲しい思い、辛い思い。今いる人、通り過ぎていった人。ひと言で言い表せないものを受け止めるための場所だ。
 もっとも私娼屋が集まった歓楽街である「岡場所」には神社がなかった。非公式な売春地帯だったから、魂を鎮める空間が用意されなかったのだ。「東の黄金町・西の飛田新地」と謳われたほど盛況を極めた黄金町だったが、ここは戦後生まれた私娼街である。物質万能の世の習いそのままに、娼婦の心が顧みられることはなかった。
 大岡川沿いに小さなカトリック教会がある。
 2005年に大摘発が実施されるまで、この町は千人にも届こうかという外国人娼婦たちで溢れていた。その多くは中国やタイ、フィリピン、ラテンアメリカの出身だった。カトリックの国から来た女たちは少なくなかった。そしてこの教会では毎週韓国語のミサとフィリピン人のための英語のミサが行われているという。
「もしや彼女たちはここに来ていたのだろうか」
 見当違いだった。この教会に現れるのは、ビジネスパーソンやその家族たちだという。黄金町には遊郭のような湿っぽさはなかった。外国から来た彼女たちは明るかったし、タフだった。だからというわけではないだろうが、スピリチュアルなものはなにもないのだった。日本人だけの町だったら、どこかに神棚の一つもこしらえたかも知れない。あるいは誰かがクリスチャンの彼女らのことを慮(おもんばか)って、ロザリオを掛けたマリア様の像をお供えしてもよかったかもしれない。
 十年ほど前、ドミニカ共和国の売春宿に行ったときのことだ。そこはプランテーション農園主の屋敷を再利用した場所で、信じられないほど立派だった。しかし屋敷以上に印象に残ったのは、屋敷の表に設置された聖ラサロの等身大の像だった。カトリックの世界では、聖人ひとりひとりに特定のご利益があると考えられている。たとえば聖ペトロは「天国の鍵」を持っているので泥棒避けの力が、聖クリストフォロスは渡し守だったので旅人を守る力があると信じられている。そして聖ラサロは病死したにも関わらずキリストによって生き返らされたため、病気平癒のご祈願をする人が多いという。「売春宿という場所柄、きっと性病避けのおまじないなのだろう」と思い、私は一人でニンマリしていた。
 黄金町にはスピリチュアルな要素が見あたらなかったし、洒落っ気もなかった。わたしは常々残念だと思っていたので、この町でちょっとしたイベントを開くことにした。日本古来の夏の行事、そう、肝試し……ではなく、百物語である。

●曰くありげな昭和遺産

 黄金町の外れ、日ノ出町駅の奥まった路地に埋もれるようにして、無国籍アジア風の看板建築が建っていた。昭和20年代前半に建てられたとみられる木造二階建てだ。一階の入ってすぐ左側は厨房で、その奥に人一人すり抜けるのがやっとという極細の廊下が伸びている。ここを境に六畳ほどの部屋が三つくらいずつ並んでいた。左側には共同浴場もあって、白人女性の色っぽい姿がガラスに透かし彫りされていた。時代がかった白いタイルには、小ぶりではあるが銭湯のようにペンキの風景画も描かれている。流しには金魚のレリーフが仕込まれていたり、天袋に木工細工が施されていたり、と随所に遊び心があり、昔の色街の妖艶な香りが抑えきれない、といった風情だった。
 年季の入った真鍮の手すりを撫でながら階段を上がる。
 二階のつくりも強烈で、洋室と和室が混在した奇妙な間取りだった。和室が二つに洋室が三つだったと思うが、和室は入口に庇が設けられており、完全に遊郭建築と同じ構造をしていた。洋室はペンキ塗りされ手作業の味わいがあった。いやらしいことに、最奥部の部屋へ伸びる廊下は赤い絨毯敷きで微妙な曲線を描いており、それだけでなんだか秘密めいて見えるのだった。
 この建物はなんども所有者が変わり、そのたびに「旅館・清明荘」〜「山賀旅館」〜韓国人の住む住宅〜倉庫と用途も変えながら町を見守ってきた。そして2010年、ついに廃墟になって朽ち果てるに任せていたのだが、再開発のはじまる2012年までの限定、という条件付でギャラリーとして再生されたのだった。
 黄金町を歩くと、空気に粘るような妙な重みを感じるのだが、とくにこの物件には女の怨念が沈殿しているようなすごみがあった。それは錆と剥げたペンキ、水色の窓、赤い戸袋……という独特の佇まいによるのかもしれないし、一階が同伴喫茶、二階が連れ込み旅館だったという過去のいきさつが、ぬぐいがたい記憶となって照射されているせいかもしれなかった。この建物だけでも充分すぎるほど強烈だったが、真向かいはオウム真理教の道場だった場所である。男と女の歴史のみならず、煩悩や哀切も染み付いた裏街道のエアポケットと言えた。
 この物件を取り仕切ることになったアーチストたちが簡易改装を終えてパーティーを開いたとき、私もその場にいた。この建物が何に使われていたか、正式な名称はなんというのか、近隣に住む年配者たちに伺ったところ、誰一人として知らなかったという事実は、この物件の異様さを物語っているように思えた。開かずの扉が開いて「竜宮美術館」として最後の日々を送り始めたとき、わたしはひとり密かにここを「横浜異人娼館」と呼んでいた。
 実は「ちょんの間(三畳程度の売春部屋およびその家屋)」の大部分は阪神淡路大震災以降に建てられた新しいものばかりなのだ。なかには「バイバイ作戦」のほんの二ヶ月前に建てられたものもある。歴史の語り部と言えそうな物件は、この「異人娼館」だけだった。
 やはり「竜宮」だの「美術館」だのでは健全すぎる。隠微さが足りないのだ。湿度の高さそうな、曰くありげな昭和遺産にはそれ相当のネーミングが必要だ。「異人」「娼館」というゴシックなロマネスク漢語こそふさわしいにちがいない。
 すっかりこの物件に魅了された私は、ここでなにか面白いことをしたいと考えていた。遊び場として使うのであれば、当然いかがわしい方がいいだろう。「なにかやろう」と思ったのがたまたま夏だったので、そしていかにも曰くありげな物件だったので、「百物語しかないだろう」と思った。
 そして後日判明するのだが、……ここは第一印象の通り、実際に心霊スポットだったのである。

●この部屋は出ますよ

ちょんの間」とよばれる黄金町の私娼屋は、最盛期には257軒もあったという。そのすべてが町を機動隊の装甲車で取り囲むという大掛かりな摘発で壊滅した。いわゆる「バイバイ作戦」である。
 町から外国人娼婦たちを一掃したまでは良かったが、その後もぬけの殻になった260近い「ちょんの間」をどうするのか、という課題が残った。おりしも横浜市は「創造都市構想」というアートやデザインを巻き込んで「新しい公共」を推進するといった政策を取っていたため、黄金町は「アートで町を再生する」というコンセプトで「バイバイ作戦」後を歩んでいくことになった。
 具体的な動きとして黄金町エリアマネージメントセンターが立ち上げられ、中区の資金援助の元に地域住民、警察、行政、横浜市立大学などが定期的に話し合いを持ちながら、「アートによるまちづくり」を進めていくことになった。前後するが、このときは既にこの町で活動するアーチストの公募や「黄金町バザール」という年毎のアートイベントも行われていた。
「異人娼館」(竜宮)も若手アーチストに管理が任されることになった。「L PACK」という二人組で喫茶を通じた場作りをしているという(場作りという行為自体が作品らしい)。コーヒーによる茶道みたいなものだろうか。
 仕事ぶりを拝見したところ、彼らは普通の喫茶店と同じように豆を焙煎し、カウンターに立ち、注文を取り、コーヒーを煎れていた。野点(のだて)のように野外出店(出展?)したり、インスタレーション作品を制作することもあるようだが、日々の活動は喫茶店経営そのものだった。「百物語」を開催するにあたり、この物件を管理する彼らの許可をもらうことにした。
 二人はひじょうに取っ付きにくかった。ただ単にアートと関係のない部外者が「場所を借りたい」と言ってきたことに戸惑っていただけかも知れないが、その辺はよく分からない。はっきりしていることは、その後顔を合わせても全く挨拶を返してくれなかったことである。ただ初顔合わせだったこのときは、よそよそしさはあったものの、かなりまっとうな対応をしてくれた。ざっくりまとめた企画書を手渡し概要を説明すると、あっさりOKが出た。そうして二人のうち背の低い方である中嶋哲矢さんがこんなエピソードを教えてくれた。
「先月(2011年の6月)ここで『任意の点を「R」とした展覧会』というグループ展をやったんですよ。全部で九人の作家が参加したんですが、そのなかに杉山孝貴さんという方がいたんです。この方がすごかった。一階の廊下に人間の背より大きくてゴツい剣を突き刺したんですよ。『この剣で建物の中を走る気の流れを止めて見せます』と言い放ってね。
 そうしたら二週間の展示期間中、客足がぱったり途絶えたんです。この店があるので『竜宮』は人の出入りがある場所なんですが、ほんとに人が来なくなったんです。展覧会が終了して剣がなくなっても、半月以上客足が戻りませんでしたね」
 びっくりである。集まって怪談話をしようとしたその場所が、既に「アート界の都市伝説」的様相を帯びていたのだ。もうひとりのメンバーで丸メガネをかけた小田桐奨さんが言った。
「じつは二階に霊が出る部屋が二つあるんですよ。ひとつは天井が斜傾した洋室。もうひとつは奥の和室。床の間の脇にある両開きの扉の前がヤバイですね。この二部屋は出ますよ」

●招かれざる客

 元来私は臆病である。このイベントは是非やりたいが、おかしなものを自宅に連れて帰りたくはない。日ノ出町から黄金町にかけての一帯は野毛山という丘の麓にあるのだが、この高台のてっぺんに伊勢山皇大神宮という神社が鎮座している。ここでお守りを作ってもらうことにした。私はカトリックのキリスト教徒だ。しかしこういう地場の霊魂には外来の神威よりも、ドメスティックなカミサマの方が威力を発揮してくれそうな気がする。
 とはいえ、持ち金は少ない。一番安いお守りで済ませることにした。効力の程は定かではないが、身につけることで安心できることが重要なのである。
 と、ここまで書いて思いだしたのだが、「L PACK」とは別にエリアマネージメントセンターからも承認を得る必要があった。事務局長の山野真悟氏とは面識があり、とくに険悪な関係ではなかったはずだが「アートな施設で百物語をやりたい」という企画に対して難色を示されてしまった。
「黄金町の物件はアーチスト以外には貸し出しできません」
 私は招かれざる客であった。
「アーチストはこの町と関係ない場所からやって来たわけですよね? 私はこの町内に住んでいるわけではありませんが、最寄り駅が黄金町です。つまり広い意味での地域住民です。中区の資金で運営しているのに、徒歩圏内の住民を蔑ろにするというのはどうなんでしょう? 誰のための町の再生なんですか?」
「アートでまちづくりするための施設なんですよ」
 どうやら怪談に偏見があるようだ。確かに怪談は娯楽だが、その一方で由緒もあるのだ。怪談そのものは近世以前から存在していたが、近代以降の「怪談ブーム」は明治末期に欧米で流行していたスピリチュアリズム(「こっくりさん」とかエクトプラズムとか霊魂に関する疑似科学とか)の影響を受けたのが発端だった。民俗学の名著と言われる「遠野物語」でさえも当時の怪談ブームによって登場したのだ。夏目漱石の「夢十夜」、川端康成の「片腕」、泉鏡花の「鰻」、萩原朔太郎の「死なない蛸」のように純文学作家が盛んに怪談を書き、「百物語」を催した。江戸川乱歩の「人間椅子」や夢野久作の「瓶詰地獄」、渡辺温の「兵隊の死」などもこの範疇に入るのかも知れない。怪談は奥が深い。立派なアートだ。
「私、これまでにフランスのアヴィニオン演劇祭に出演したり、桜木町のランドマークホールで国際振付コンクールの予選に出たりしていますけど。黄金町でも舞台人に場所を提供しているじゃないですか」
(その程度では)あなたはアーチストとは言えません
「海外の演劇祭参加では不十分ですか。随分厳しいですね。でも町内の人はつかっていますよね? 朝市を開いたり、いろいろ動きがあるじゃないですか」
「町内の人はいいんですよ」
 しばらく押し問答があった。最終的にエリマネ側が折れてくる形になったのだが、黄金町という町が町なだけに、運営側としては不確定要素を減らしたかったのだろう。と同時に、百物語が「黄金町バザール」の期間と被っていたのも「ただ乗り」のようで心証を害したらしい。怪談と言えば夏である。夏季開催だった「バザール」と期間が被ってしまったのは偶々である。私はアートを見に来た観客にも気軽に参加して欲しいと思っていたのだが、山野氏はそれも気にくわないようだった。
「チラシには『黄金町バザール』の名前は絶対載せないこと。『竜宮』にイベントの案内を貼ったりしないこと。うちとは無関係な企画なので、一切広報には協力しないからそのつもりで」と申し渡されてしまった。
 しかし幽霊が出る連れ込み旅館の跡地で怪談話をやるのは、極めて自然な発想だと思うのだ。アーチストは案外頭が固いようである。
 山野氏は「タイから来たアーチストの作品が展示されているので……」とも言っていたが、実際現場を見たところ、それは地域住民の「アートの町になって安全になりました」というインタビュー映像を延々流すだけ、というシロモノだった(いまでも黄金町界隈にはヤクザの事務所がいくつもあるのに、安全宣言するのはどうかと思うのだが)。壁にも資料のような平面作品(たしか手紙かなにか)が掲示されていたが、破損を案じるようなデリケートなものでなく、かなり拍子抜けした。壁の作品は照明を消してしまえば気にならない。映像を映している大きなモニターはシーツを掛けて隠すことにした。

●百物語のルール 

 本来の百物語は、夜集まって百本のろうそくに火をつけるところから始まる。怖い話を語るたびにろうそくを一本づつ消していき、最後のろうそくが消えたとき、霊が現れるという。しかし仮に一話を平均10分で語ったとしても、100話通すと16時間以上かかる計算になる。とても現実的とは思えないプランだ。恐い思いではなく、たいへんな思いをしそうである。
 そこで百話という数字には拘らないことにした。日数も一日だけではなく、8月25日(木)〜29日(月)までの五日間にしてゆとりを持たせた。最終日が日曜日でなく月曜日なのは、最終日が新月になるようにしたためだ。せめてもの拘りである。五日間すべてに参加するのはたいへんなので、単発参加でも構わないことにした。また火災予防の観点からろうそくの使用を禁じられてしまったので、キャンプ用のLEDカンテラを中心に車座に座ることにした。
 この時点で百物語とはかなりちがうものになってしまっていたが仕方ない。幽霊を呼び出すことよりも、幽霊屋敷で恐い話をして盛り上がろう、という方向に趣旨変更した。
 人数が多いと怪談の会らしくなくなると思い「各回5名限定」というふれこみで募集したのだが、大人相手に「怪談の会をやりませんか」と言っても、簡単に人が集まらない。結局集まったのは 
 
・26日 6名
・27日 0名
・28日 3名(予約1名のみだったので急遽友人2名を招集)
・29日 6名

という寂しい数字だった(なお、二五日はエリマネ側の管理の都合で全面休館となった)。
「五名限定」としていたのに6名参加の日が二回あるが、細かいことには目をつぶってほしい。5名というのはあくまでも目安であって、一人増えても差し支えはない。
 誤算だったのが、「恐い話を聞く会なら参加するんですが」という人が結構いたことである。中学生時代、恐い話や不思議な話を嬉々として話したがるクラスメイトはたくさんいた。そのときのイメージがあったので、「自分で話す」がこんなに高いハードルになるとは思っていなかった。結局募集を締め切る少し前から「見学のみ」も受け付けることにした。
 しかし会が始まってしまえば、なんのことはない。二周目あたりからみんな自発的に話し始めた。自分で話した方が絶対楽しいのだ。知らない相手ばかりだから、はじめのうちこそ多少緊張するかも知れない。だが徐々に奇妙な連帯感が出てきて、他人が他人でなくなってくるのだ。こういう部分もこの会の醍醐味だったかも知れない。
 それにしても、まっさらな古畳の部屋というのは恐い。おそらく洋室だったら、照明を落としてもただ暗いだけで恐くもなんともなかったと思う。侘びしい和室が闇に沈むと、もうそれだけで只事ではない。ましてや「横浜異人娼館」である。あのねっとりした闇。この会は降霊会ではなく、「建築の過去や町の歴史を遊ぶ」イベントだと考えて企画した。 負の歴史を消そうと躍起になっているエリマネ事務局や横浜市当局の思惑を尻目に、黄金町の歴史を合法的に活用するコワオモシロ企画だと思っていた。「怖いもの見たさ」もあった。しかしあまりにも場に力がありすぎた。
 部屋の中だけではない。窓を開けると、さび付いた平屋のトタン屋根が視界を捉えた。戦後七〇年間、麻薬街や青線街として悪名をとどろかせた町の名残が感じられた。

●納涼怪談どころか冷や汗ものの会に

 怪談の多くは「古い記憶」に由来する。その記憶のすくなからぬものが、土地にまつわる記憶である。
 たとえば、「兵士の幽霊が出る」という噂を持つ学校を調べてみると、兵舎の跡地だった、という類である。つまり「土地は固有の記憶を持っている」といえる。そして建築は記憶が発現する依り代である。
 開催当日。時間が来るまで一階の「L PACK」のカフェで時間をつぶし、開始時間の一九時半になったら一斉に上階に上がることにした。一階のカフェはウッディな内装で居心地が良く、いくらでも長居できそうな快適さだった。コーヒーなどを楽しみながら、ほぼ全員集まったところで二階に上がった。
 前述したとおり、二階は遊郭風のつくりで一階とはまるでちがう。そして外界から完全に遮断されているように思えた。なんというか、二階だけで完結しているのである。このフロアにいると下階の喧噪から切り離され、森の奥のしじまに投げ込まれたように感じる。
 奥の和室に入り、カンテラを灯す。今時の製品なので非常に明るいが、あの空間でろうそくの灯火だったら心細くてみんな逃げ出してしまったかも知れない。そういう意味で、LEDカンテラにしたのは正解だった。
 参加者はここが連れ込み宿だったことは知っていたが、変な不安を与えないように幽霊の話は最終日まで伏せておくことにした。みんな雰囲気のある空間に圧倒されているようだ。前日までは、客入れのタイミングでBGMを流して雰囲気を出そうか、などと考えもしたのだが、下手な小細工を弄さずともありのままでヘビー級の効果があった。
 まずざっと自己紹介をしてから、言い出しっぺの私が話すことにした。今回の企画は完全な思いつきで、怪談の持ちネタはない。ネットや図書館で拾ってきた話をアレンジして語った。初日集まった六名のうち一名は、ゲストとして来てくれた三味線弾きのお姉様、上田恵子さんである。怪談と言えば琵琶だろう、と思ったが手配がつかなかったのだ。
「……人気のない山奥を歩いていると、ふいに竹藪に出ました。その竹藪を抜けようと足を進めたところ、どこからともなく三味線の音が聞こえて来るではありませんか……」 
 語りの内容に合わせて、上田さんが弦をつまびく。かなりの臨場感だ。そのときである。
 ぽた。ぽた。
 唐突に、実に唐突に、水の垂れる音がしたのである。その場にいた全員が硬直し、耳をそばだてた。
 流しではない。この部屋から流しは遠い。ここ数日間天気は良かったので雨漏りでもない。水が垂れるはずはない。あるはずのないことが起きてしまった。しかも怪談話の最中に。あまりのタイミングのよさに、みな笑うしかなかった。
 調べたところ、エアコンから水が滴っていたことが分かった。リノベーションしたとはいえ、長い間放置されていた物件だからそういうこともあるだろう。原因が分かったので、一同安心した。それにしても驚いたねぇ。くすくす。
 仕切り直しをして話が二巡した頃である。
「うちの父が子供の頃、家出をしたんですけど、行く場所がないので神社に来たんです。もう夜遅い時間でした。野宿しようとお社の裏に回ったところ、同じくらいの年頃の男の子がやって来たんです。こんな時間にどうしたんだろうと思ったんですが、話をしたところ、どうやら近所に住んでいるようでした。その子はしばらくすると行ってしまい、父はその場で一夜を明かしました。 
 大人になった父が貧乏旅行をしていたあるとき、人のいない駅舎で一夜を明かそうとしました。横になっていると、突然、どこからともなく子供が現れたのです。朧気ながら覚えていたあの子にそっくりでした……」 
 みな要領がつかめてきたので興が乗ってきた。カンテラと闇のコントラストも良い塩梅である。皆が語りに集中していたその瞬間、またしても怪奇現象が起きた。今度はカサカサと軽い音がするのである。
 女性たちは「え! なに?」と言って身構えた。男性陣も顔を見合わせた。今度はなんだ?
 ……ゴキブリであった。またしてもである。今度も妙にタイミングが良い。見えざる存在が絶妙な演出を施しているように思えてならない。やはり出るのだろうか。

●知らぬが仏

 お守りを買っておいて良かった、部屋の前に盛り塩をしておいて良かった、と思ったのは言うまでもない。私は臆病なのだ。このイベントはあと三日続く。なんとも心臓に良くない。
 幸い二日目は参加者がいなかったため中止になり、三日目は参加者が三名のみとギャラリーが少なかったためか、怪奇現象は起こらなかった。
 やはり単なる偶然だったのか、と思っていた最終日である。前述の通り、この日は新月だった。魑魅魍魎が跋扈するには格好のタイミングである。 この日は横浜市役所に勤めている方が参加して、地元にまつわる話を次々披露してくれた。例えば「血流坂」。「横浜市都筑区あゆみが丘と川崎市宮前区有馬九丁目の境目の辺りに、かつて『血流れ坂』と呼ばれた坂があります。言い伝えによると、この辺りに死刑場があり、罪人の血が流れ落ちるため誰言うとなく『血流れ坂』と呼ばれたということです。
 さて。この辺りはニュータウンの造成で区画整理や町名地番の整理変更が行われた場所ですが、それに伴って坂の位置が変わったのだそうです。ところが以前の場所の因縁が、新しい場所にもそのまま引き継がれたというのです。
 あるとき何も知らない若者が、あゆみが丘の新築マンションを下見しようと地元の不動産屋を訪ねました。現地に足を運び内観したところ……」 そして昭和26年4月24日の昼下がりに桜木町駅構内で発生した列車火災事故にまつわる話。いわゆる戦時設計だったため、車両が燃焼しやすいのにも関わらずドアが開かず、すし詰めの乗客が火炎地獄に身をさらしたという惨事である。焼死者は106人、重軽傷者は92人に達した。当時の「ちょんの間」は外国人だらけになった平成時代とは異なり、日本人のママさんと女の子の組み合わせでなり立っていた。「ある夜ゲートル姿の男がやって来ました。女の子は寝床で接客中で誰も空いていません。その旨を告げられた男が店を出たのと、二階の客が降りてきたのはほとんど同時でした。先ほどの客はまだ外にいるはずだ。すぐ引き戸を開けましたが、なぜかゲートルの男は影も形もありません。そういえば、桜木町事故が起きたばかりです。黄金町と桜木町は目と鼻の先。あの男は独り身の復員兵の亡霊だったのではないでしょうか……」 地元ネタの話は盛り上がる。参加者一同聞き入っていた。
 そのときである。どこからともなく水が雨のように溢れ出し畳の上に降り注いだのだ。
 原因はまたもエアコン。排水管がゴミで詰まり、除湿の水が溢れたようなのだ。外気は既に涼しく、室内の湿度も低いはずだったが、水量はじゃぶじゃぶと形容しても差し支えないほどだった。この部屋は「黄金町バザール」の展示で昼間もつかっているはずである。なぜ怪談話が盛り上がったときに限ってトラブルが起きるのだろうか。水はなおも流れ続け、一時間近く降り注いだ挙げ句、ようやくとまった。やはりこの屋敷は「とんでもないなにか」を孕んでいるのだろうか。
 だめ押しが帰り際である。会がお開きになり、エアコンを消そうとしたところ、何度リモコンを操作してもしばらくすると電源が勝手についてしまうのだ。前日まではきちんと消えていたはずなのに。まるで目に見えない何者かが別れを惜しんでいるかのようだった。

 この体験談はこれまで一度も書かれたことがない。黄金町に仕事場を構えるアーチストたちやエリマネのスタッフたちにさえ、教えていない話である。知っているのは会に参加したメンバーと、今この作品を読んでいるあなただけである。

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いかがでしたか。
togetterに【「黄金町クロニクル」の感想まとめ】があります。
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