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「高野山」運慶快慶!「金剛峯寺/丹生都比売神社/慈尊院」世界遺産制覇!【高野詣】【和歌山】高野山

平安時代から丹生都比売神社を参拝して高野山に入るのが習わし!世界遺産の高野山へ!!
丹生都比売神社初参拝したとき高野山の僧が来ててびっくり!そう神仏習合!歴史・文化・運慶・快慶と知ったうえで行くことで、さらに満足すると思う。

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ということで、弘法大師母公の寺・慈尊院高野山の鎮守社・丹生都比売神社金剛峯寺は切り離さずに記すことにした。
長くてすみません。(m´・ω・`)m ゴメン…

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世界遺産・女人高野・高野詣りは慈尊院から弘法大師母公の寺「慈尊院」→丹生都比売神社→高野山へGO!

2015年 高野山開創1200年記念大法会
なかなか高野山に行く機会がなく、見計らっていましたが、ついに来た!!運慶と快慶の仏像たちと秘仏公開!!だが、人多すぎです・・・・。なんでこんなに人がいるのか意味不明・・・

2021年 高野山霊宝館開館100周年記念大宝蔵展「高野山の名宝」
運慶・快慶の仏像部屋ができる。4期に分けてこれでもかと宝物が(略)。

変更履歴
2023/01/23 追記(「※2023/01/25」で検索)
2023/01/12 追記(「↓2023年01月12日」で検索)
2022/08/07 追記(「↓2022年08月08日」で検索)
2022/02/19 更新(京都ぶらり歴史探訪)
2021/11/05 初版


▼HP

※後述

▼アクセス

 慈 尊 院 :和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832
丹生官省符神社:慈尊院境内。
丹生都比売神社:和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
高野山金剛峯寺:和歌山県伊都郡高野町高野山132

▼祭神・本尊と脇時

 慈 尊 院 :木造弥勒仏坐像@国宝
丹生官省符神社:後述「▼見どころ」参照
丹生都比売神社:後述「▼見どころ」参照
高野山金剛峯寺:後述「▼見どころ」参照

▼見どころ

↓2022年08月08日---------------------------------------

箇条書き説明です。なんで高野山と丹生都比売神社を併せて世界遺産なのか?

  • 標高1000m前後の峰々に囲まれた盆地

  • 816年、空海が開いた宗教都市

  • 高野山を開くべく空海は嵯峨天皇に上表文を出す

  • 上表文は「密教経典には、深山の平地が修行にふさわしい場所だと説かれています。私は少年のころ好んで山河を渡り歩きました(略)、国家の道場とすべく、あるいは多くの仏道修行者の道場とすべく、このあら地を切り開いて、修行のための一院を建立したい」とされる

  • 空海がこの地を選んだのは空海が育った四国の風景に似ており、世間と離れた場所であるべきと考えたそうな

  • 空海は中国から帰国する前に、三鈷杵を投げたそうな(フリ)

  • 帰国後に、高野山周辺に行くと地主神・高野明神と出会う

  • その後、丹生都比売と出会う

  • 丹生都比売はアマテラスの妹神で稚日女命(ワカヒルメノミコト)である

  • 丹生都比売は空海に高野山を預け、空海は土地を切り開くと、中国から日本に投げた「三鈷杵」を発見!?(回収)

  • 高野明神は丹生都比売大神の御子・高野御子大神である

  • 816年、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を創建、高野山への宿所と冬期避寒修行の場としたのが「慈尊院

  • その後、空海の母・玉依御前が香川・善通寺より参り、入滅された時に母が弥勒菩薩になられた霊夢により廟堂を建立したことから「慈尊院=女人高野」とする

  • 835年、高野山に入山する

  • 丹生都比売神社は、高野山参詣の表参道として、ここに参拝した後に高野山に登ることが慣習となる

  • 鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神を勧請、厳島神社から市杵島比売大神が勧請

  • 北条政子により社殿が寄進され、本殿が現在の四殿となる

  • 本丸の高野山は真言宗金剛峯寺を中心に、今でも塔頭100以上から構成されている

  • 運慶「八大童子@国宝」、快慶作「孔雀明王」と「四天王立像」など仏像の宝庫
    ↑2022年08月08日---------------------------------------

  • 明治の神仏分離で丹生都比売神社と高野山は別れる

  • 平成27年、丹生都比売神社と高野山は元に戻そうとしている!


▽慈尊院@世界遺産

弘法大師母公の寺「慈尊院」でここも世界遺産です!

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秘仏「木造弥勒仏坐像@国宝」は如来形の弥勒仏の像。下ぶくれの頭部、重々しい面相、量感のある体躯表現で平安時代初期彫刻の特色が表れている。

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組んだ両脚の前の裳先部分に892年の墨書がある。在銘作品の少ない平安前期彫刻の基準作として重要。長年秘仏として伝えられてきたため、光背、台座も当初のものが残されている。開扉は21年に一度とされている。

▽丹生官省符神社@世界遺産

慈尊院境内。816年に弘法大師・空海によって創建されたお社。慈尊院の奥の階段を登るとこの神社に来ます。明治の神仏分離まで、ここと慈尊院は一体の神仏習合です。

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▽丹生都比売神社@世界遺産

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神仏習合!!2015年は高野山のお坊さんが来ており、興福寺の僧が神の前で祈る光景を見た春日大社ぶりの光景にびっくり。神事は長そうなのでじっくり見れなかったのが残念ですが、お目当ての御朱印帳を入手できたので、まあ~良しとしましょう。

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「丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)」は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして登録されている。また、約1700前に創建された紀伊國一之宮の古社で、主祭神は、天照大御神の妹神・弘法大師空海に高野山を授けた「丹生都比売大神」である。

以降は2021年参拝時です。

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境内には、国内最大級といわれる一間社春日造の本殿に、楼門@重文と輪橋などがある。

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空海こと弘法大師が高野山を開く際、こちらの神様に仏法の守護を願い出て、神々の山である「高野」の神領を譲り受けたとされている。高野山の鎮守社であり、空海を高野山へと導いた狩場明神が祀られ、古くから高野山と密接な関係を保っている。

ということから高野山の僧がここに来るんですね。納得!

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拝殿は上賀茂神社と同じで、立派すぎて本殿が見れない。拝殿左側に素晴らしい本殿がみられるスポットがあるのでそこから見るべし。

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丹生都比売神社の本殿は、国内最大級の一間社春日造で、国の重要文化財。第一殿から第四殿の4棟からなり、第四殿のさらに左手には若宮が鎮座する。右から第一殿「丹生都比売大神(ニウツヒメ)、第二殿「高野御子大神(タカノミコ)」、第三殿「食都比売大神(オオゲツヒメ)」、第四殿「市杵島比売大神」、そして若宮「行勝上人」。若宮の行勝上人は、鎌倉時代に同社の発展に尽力した真言宗の僧侶だそうな。千木・鰹木の存在がすごい!
----↓2023/02/04
ニウツヒメはアマテラスの妹としている。魏志倭人伝では卑弥呼は神を祈る場合、丹生の色で固めると記されているそうな。
-----↑2023/02/04

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カエル久しぶりに見たな~。石のカエルばかり見ていたけど・・。っと、周りを見渡すとカエルだらけ!!自然だね~。

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▽高野山@世界遺産へ

山道の国道を車で走る。バスやトラックも通る道で、ところどころ融合が難しくなるところもあるので運転は要注意で!

2021年参拝時は途中信号待ちで看板があった「ソーシャルディスタンシング」ってing系??と違和感があったが、ing系が正しいようだ。やはり寺は学校の要素もあるな!

↑高野山大門

 空海は今もここに生き続けているとし、高野山の入り口である。
 デ、デカッ!京都にもこの大きさはあるのだが、遠いところから正面からアプローチするので、遠くから見えているのでネタバレしているが、ここは横から振り向くといきなり出てくるので大きく感じるのだろう。

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大きい山門です。京都の東福寺、知恩院などと同じ、五百羅漢と釈迦がいるのでしょうか?仁王像もなかなかの型です。

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 左右には金剛力士像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ巨像のようで、江戸中期に活躍した京仏師である北川運長と康意の作。高さ約25mの国内最大級の木造二重門だそうです。康伝、康意、康敬、運長の4人の仏師がかかわったことが分かっている金剛力士像。日本で2番目に大きいそうです。

↑高野山霊宝館

 アベノハルカスで「八大童子@運慶、孔雀明王@快慶、四天王@快慶」が勢ぞろい!!博物館・美術館で見るよりも、実際に安置されているところで見るほうがよいですね。

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2021年 高野山霊宝館開館100周年記念大宝蔵展「高野山の名宝」
4期に分けて次から次へと宝物が。そして、この時から運慶・快慶の仏像部屋ができました!

臨時休館日は6月7日(月)、8月2日(月)、10月4日(月)、11月29日(月)・30日(火)。拝観料は一般1300円、高校・大学生800円、小学・中学生600円。

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↑↑高野山霊宝館:新館1室「シン・快慶 霊宝館版: 愛」

運慶と双璧である快慶作「執金剛神立像@重文」「深沙大将立像@重文」「四天王立像@重文」「孔雀明王像@重文」が安置されている。

 孔雀明王像は快慶展でも展示されていましたね。

 執金剛神立像と深沙大将立像と言えば、京都舞鶴の寺にもあるが、ここのは本当に素晴らしい!
 作風が少ない「執金剛神立像」は分裂すると金剛力士像になる特殊な仏像で、「深沙大将立像」とあわせて日本一の執金剛神立像・深沙大将立像だ!

 そして四天王も絶品で面白いのが仏具の持ち手が逆のものが多いこと。兵庫県小野市・浄土寺の快慶作・阿弥陀如来立像も逆手があり、快慶の逆手仏像は何を意味しているのだろうか?

快慶仏を纏めると


 ↑↑高野山霊宝館:新館2室「シン・運慶 霊宝館版: 命」

運慶作「八大童子立像@国宝」は、かつて不動堂に安置されていた元本尊・不動明王坐像とともに展示されている。

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八大童子立像を動画でどうぞ!

 ↑↑高野山霊宝館開館100周年記念大宝蔵展「高野山の名宝」

第1期

第2期

第3期

第4期

 ↑↑運慶展

八大童子が展示されていましたね。

 ↑壇上伽藍

 空海が密教を極めるために一番初めに作ったところで中門ともいう。中門内側には広目天が安置されているのだが、胸元には「セミ」がいる。これはアブラゼミで、お経が遠くまで届くように!という願いが入っているそうな。

 金剛峯寺持仏に安置されている御本尊弘法大師座像が安置されている。

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2015年「高野山開創1200年記念」
特別ご開帳でしたが、余りにも人が多く、行列ができているため、今回は断念しました。それよりも、運慶と快慶の仏像が見たくてたまらない・・・。

 ↑↑壇上伽藍:金堂

 壇上伽藍は火事などで何度か焼失しており、現在の建物は7度目の再建したもの。「釈迦成道驚覚開示の図」や「八供養菩薩像」の壁画がある。本尊・薬師如来は秘仏で、脇侍に不動明王などが安置されている。金堂の次は隣にある「六角経蔵(ろっかくきょうぞう)」に移動。

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 堂内には金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅がある。金剛界曼荼羅は悟りに至るまでの段階を表現しており、9つの部屋に分かれており、これが段階であり時間の流れなのだそうな。胎蔵界曼荼羅は中央に大日如来があり周りに菩薩が並んでいる。

 そして、それを表現したのが立体曼荼羅という仏像たちとなる。それが根本大堂(多宝塔)に行くとわかる。

 ↑↑壇上伽藍:大塔の鐘

壇上伽藍の金堂内を拝観中に鐘の音が響いたので、外を見ると坊さんが定期的に鐘をついていた。時計を見ると12:56。13:00までに定期的に突くようだ。

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 ↑↑壇上伽藍:根本大塔 ↓2023年01月12日

----↓2023年01月12日
 こちらの立体曼荼羅は胎蔵界式大日如来(胎蔵界曼荼羅)で、東寺は金剛界式大日如来(金剛界曼荼羅)なので1対なんだろうなと思う。
----↑2023年01月12日
 壇上伽藍にある大日如来の体内である。拝観料は500円で館内は撮影禁止です。
 壇上伽藍の中心的建物で、真言密教のシンボル。中に入ると立体曼荼羅となっている。本尊は胎蔵界式大日如来、周りには金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には十六大菩薩、四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれている。

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 ちなみに胎蔵界式大日如来坐像は横から見ると前かがみであることがわかる。ということで、金剛界式大日如来坐像は後ほど!!

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----↓2023年01月12日
 この塔は焼失し、平清盛が1156年に再建する。落慶式で平清盛は老人にあい、広島・厳島神社を再建せよと言われたようで、言うと姿を消したのを見て空海だと確信し、今の厳島神社となったとさ。ちなみに空海と平清盛の出会った場所が対面桜である。
----↑2023年01月12日

 ↑↑壇上伽藍:六角経蔵

壇上伽藍内の金堂左側にある。鳥羽天皇の皇后であった美福門院が天皇の菩提を祈るために、浄写された一切経を納めるために建てられたのが六角経蔵の始まりであり、平安時代後期の1159年に建てられた。ちなみに三井寺、広隆寺などと同じく回せます!

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 ↑↑壇上伽藍:御社(明神社)

壇上伽藍左にある御社は、壇上伽藍の諸堂のなかでも最初に建立された。御社の祭神は、山の神である「丹生都比売命」、丹生都比売命を祀っていた狩人「狩場明神」。狩場明神は白と黒の二匹の犬を連れた狩人の姿で現れ、弘法大師を高野山に導き開山の手助けをしたと伝えられている。

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 2柱は高野山一帯の豪族・丹生氏の氏神だとも言われ、丹生氏が弘法大師を助けて高野山を開山したおり、丹生氏の氏神を高野山の守護神としたものと思われる。最後に氣比明神も祀っているのが面白い。

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 ↑↑壇上伽藍:西塔

壇上伽藍内の金堂左側にある。とおうことで東塔は胎蔵界式大日如来坐像でこちらは金剛界式大日如来坐像である。金剛界式曼荼羅の真ん中上に描かれている仏ですね。

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古墳に「円墳」「方墳」「前方後円墳」などがあるのだが、面白い形の多宝塔(西塔)である。一つ一つの彫刻が見どころといえようか。

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 内陣には金剛界式大日如来と胎蔵界式大日如来の脇侍4体となっている。887年建立されたが5度消失していることから、金剛界式と胎蔵界式が混在した??

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 ↑↑壇上伽藍:孔雀堂 

壇上伽藍内の金堂左側にある。快慶作「孔雀明王坐像@重文」が安置されていたのだが、今は霊宝館で見仏することになる。今は似ていない摸刻が安置されている。何度となく落雷で焼失しているので、霊宝館で安置するほうが良いか。

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 ↑↑壇上伽藍:准胝堂

壇上伽藍内の金堂左側にある。変化六観音の一つ准胝観音を安置するお堂。天台宗になると准胝ではなく、虚空蔵菩薩になる。こちらは霊宝館に安置されていなかった気がするので、御堂内が本尊なのかな。

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 ↑↑壇上伽藍:御影堂

壇上伽藍内の金堂左側にある。弘法大師・空海を祀るお堂。空海在世中、御堂に如意輪観音を安置し、常に念誦していたので、念誦堂、持仏堂または御庵室と呼ばれていたらしい。やはり、高野山には変化六観音を安置するお堂があったと妄想してしまう。変化六観音の如意輪もいるのは分かっているし、聖観音、十一面、千手はどこかに居そうだ。となると、馬頭がいないのかも。。

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 ↑↑壇上伽藍:愛染堂

壇上伽藍内の多宝塔右側にある。後醍醐天皇ゆかりのお堂である。長日談義(ちょうじつ)とよばれる行事が行われていたために別名「新学堂」とも呼ばれていた。

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 ↑↑壇上伽藍:大会堂

壇上伽藍内の愛染堂右側にあり、「だいえどう」と読む。本尊はチーム阿弥陀(本尊・阿弥陀如来、脇侍・勢至菩薩・聖観音菩薩)である。内陣には室町時代以降の阿弥陀の特徴をした阿弥陀如来坐像が見られた。

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 ↑↑不動堂

国宝「不動堂」は1908年に一心院谷から現在の地に移築されたそうです。1998年、全面解体保存修理が完了し、現在の建物の建立年代が鎌倉後期頃であることが推定されているそうです。

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 ↑↑三味堂

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 ↑↑東塔

尊勝仏頂尊と不動明王・降三世明王を祀る。西塔には大日如来を安置しておいることから安置する仏像もついになっている。
つまり、大日如来は言うことを聞かない人たちは、不動明王に変化して説法をするので。そして、大日如来は神道ではアメノミナカにあたる。あらゆるものの良いところを吸収してしまうのは今も昔も同じだなと思う。

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 ↑↑金剛峯寺

2015年参拝時は「なんじゃ??」と思っていましたが、当時の首相が来られていたみたいで、すごい人が、、SPもいる。。おかげで行けなかったです。。

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 まあ~次回、行くことにし、2021年にコロナ禍で少なかろうと思い車で参拝した!というこで、ここから2021年。

 屋根には自動消火水があるが、これで消えるのかな・・。それはさておき、山中にあるので落雷で火災になったことから、こういう形になったとか・・。

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 嵯峨天皇の命により816年に弘法大師が開いた高野山の真言宗の総本山。前回は当時の総理大臣が来ていて、入れなかったのを思い出した。現在では世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部を構成している。最初に通るのが正門。金剛峯寺の中で1番古い建造物となっている。一歩足を踏み入れれば、そこには1200年という長い歴史を築いてきた神聖な空気の流れを感じ、そう熊野本宮の雰囲気そっくりな気がした。

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 ここでは空海が行った修業が体験できるのが「阿字観」です。「阿」は大日如来を指し、はじまりの「あ」であり”この世の始まり”ということらしい。神様ではアメノミナカですね。

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 一方、ここは豊臣秀吉が建立した寺である。専門家曰く、豊臣秀吉は当初は高野山を攻めるつもりだったとか。理由は聖域であり様々な意味で厄介な存在だったが、高野山の僧が仲裁をし信頼を得たようだ。そのことから豊臣家の家紋に似た神紋である。なお、この仲裁できたネタは秀吉の母の菩提寺とすることと、豊臣家の安寧を願うことだったらしい。結果的に後者はやっていなかった??手抜きした??w
 というのもあり、武士の崇敬も厚く宿坊や子院(塔頭)には名称の家紋が多いようだ。
----↑2023年01月12日

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↑奥之院

 高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが入定されている聖地で、高野山でもっとも重要なところ。おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいるそうです。

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 織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信、明智光秀など名将の供養塔があり、有名な会社関係のものなどがある。

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 豊臣家墓所斜め左右に分かれるところがあるので行きは左へ行きましょう!すると看板が立っているのでわかるかと。

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織田信長墓碑
 1970年に再発見された「織田信長供養塔」。信長の墓所の存在は、江戸時代の記録にはあったのですが、明治以降の案内書には記載されず、人々から忘れ去られていたそうです。信長は本能寺の変で暗殺される前に、高野山総攻撃を計画し、高野聖を約1300人も処刑したらしい。最後に、織田信長の墓所は豊臣家の墓所のすぐ近く、小さな坂を少し上がった左手にあります。

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↑奥ノ院:弘法大師御廟・燈籠堂

 この橋から先は飲食・カメラなどは絶対禁止の高野山で一番重要なところである。今でも空海は生きているとか!?参道左には「おまかる石」があります!本当に重いやつですね。腰が・・・・

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 最後は奥之院燈籠堂にお参り。弘法大師空海が現在も入定しているといわれる高野山の信仰の中心とされている聖地。

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 ↑↑苅萱堂 ※未参拝

 このお堂は苅萱道心が出家し、実の子である石道丸とともに父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれたと伝えられています。

 ↑↑徳川家霊台 

 徳川家康、秀忠の御霊をまつるために三代将軍家光により1643年に創建された。落成・完成まで10年以上費やされたといわれ、大徳院の裏山に建てられたそうな。

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 向かって右が家康霊屋、左を秀忠霊屋と呼称する三間四面の一重宝形造の建物は、東照宮形式。

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 金銀箔を押した極彩色の厨子は細部まで彫刻や金具などの装飾に飾られています。家康の方には東照大権現という神様として崇められている為なのか、鳥居が置かれていますよ。

↑女人堂

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 明治時代の高野山の女人禁制が解かれるまで、女性のための参籠所として設けられたと言われるのが「女人堂」。

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 女性は細く険しい女人道と呼ばれる高野山の周囲を囲むように尾根道を巡り、遠くから大師御廟を礼拝することだけが許されていたのです。山内に入れない女性の為、高野七口と呼ばれた高野山への入口それぞれにお篭り堂が置かれていて、女性たちは女人堂から女人堂へと八葉の蓮華に例えらられる峰々を辿ったそうな。

▼祭り

→寒中水行 ※2023/01/25


▼セットで行くところ

特になし。

▼旅行記

▽食事処

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▽宿坊「蓮華定院」泊まってみた風景 ※有料(写真16枚ペタペタしているだけw)

 戦国武将・真田幸村との縁も深い「蓮華定院」は宿坊をしている。護摩行なども体験できる。

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