京都みなみ会館の閉館発表で考えたこと~僕は近いうちに映画を見なくなるのだろう~

一番最初に、親に連れて行ってもらった映画の記憶はアニメ『瞳のなかの少年 十五少年漂流記』である。だが、実はこれ、日本テレビのスペシャル番組。僕は公民館での上映で見た記憶があるのだけれど、親は忘れているし、本作がスクリーンで上映されていたか調べるのも面倒くさいし、確実なところで『がんばれスイミー』を挙げておく。これは昭和後期に生まれた人間が初めて見る映画の定番なので、あまり言いたくない。つまらない答えだからだ。

映画館ごとにも、初めて見た映画の記憶は残る。近所のイオンシネマでは『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』だった。京都シネマの前身、京都朝日シネマは『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』である。社会人になり、大阪遠征する金ができるとシネ・ヌーヴォに初めて行って『THIS IS ENGLAND』を見た。

しかし、京都みなみ会館で初めて見た映画がなかなか思い出せない。たぶん、ギャスパー・ノエの『カノン』だったと思う。高校生のとき、友達を誘ってキャッキャと通った記憶はある。いや、それは大学のとき見た『24アワー・パーティー・ピープル』と混同しているのかな。『カノン』は弟と行って、無口になって帰ったんだっけ。とにかく、みなみ会館ではたくさんの映画を見た。

大学生のとき、『ジョゼと虎と魚たち』が流行った。正確には、僕の周りのかわいい女の子たちの間で『ジョゼと虎と魚たち』は愛されていた。若き日の妻夫木聡が主演していたからである。僕も見に行った。女子との会話に入りたかったからだが、特に、僕に話題が振られることはなかった。この切ない経験があったので、監督と脚本家が同じ『メゾン・ド・ヒミコ』はスルーした。今でも見ていない。当時、僕の周りの女子はやはりオダギリジョーがかっこいいと騒いでいた。女子に話しかける勇気もなかった僕は勝手に、「誰が見るか」とひがんでいた。

その後、両作の脚本の渡辺あやさんとは一度だけ、働いていたミニシアターでご挨拶させていただいた。渡辺さんが舞台あいさつに来てくれたからである。大物ゲストが来てくれたおかげで客席は満員になった。混雑を予想して僕は急遽、双子の弟を手伝いに呼んでいた。劇場に入ってくるなり、渡辺さんは僕の顔を見て腰を抜かすほど驚いた。直前に、同じ顔の弟とすれ違っていたのである。この間ドラマ『エルピス』を見ていたときも、「あのとき驚かせてしまった渡辺さんか」と思う。渡辺さんが覚えているかどうかは知らない。

2007年に社会人になってからは、仕事があまりにもつまらなかったので映画館にばかり行っていた。大学の友人たちが合コンやジムやキャバクラに使う金を、僕は映画にまわしていた。みなみ会館にはアンゲロプロスの特集に通い、すべてのプログラムで寝た。『地下鉄のザジ』『暗殺の森』『ミツバチのささやき』はVHSで見る何倍も感動した。

その頃に、番組編成を担当していたRCSが撤退することになった。RCSは最後に恒例の「ポップコーンナイト」というイベントの特別編を組んだ。本来はどんな映画を上映するか知らせずに行う、オールナイトだった。その日はRCSの佐藤さんとミルクマン斎藤さんがトークをして、一本だけ覆面上映をした。劇場を出たときに渡された紙で初めて、今見た映画が『カルパテ城の謎』だったのだと知った。するときれいな女性に、「この映画見たことありましたか?」と話しかけられた。「いいえ」と答えて会話は終了した。

最初の会社を辞めて、僕は関西の映画の現場に出入りしながら「どうにか好きな映画に関わって食っていけないか」と模索し始めた。みなみ会館の上映にも顔を出し、映画監督やスタッフさんや俳優さんとも知り合いになった。あれから10年経ったがいろいろあって、ほとんどの人とは縁を切っている。でも、あの頃は日本の自主映画を見に行くと、誰かしら知り合いが来ていた。

大林宣彦監督が『この空の花 長岡花火物語』のトークに来館されると聞き、ワクワクして駆けつけた。すると、僕が嫌いな映画監督も来ていた。飲み会で、僕が農家の息子と聞くと「農家はいいよな。映画と違って水さえやってればいいんだから」と言い放った人物である。映画も大林監督のトークも素晴らしかったが、とても嫌な気持ちになって僕は帰路に着いた。そのことを当時、先輩と慕っていた映画人に話すと「ああいう機会にはああいう人たちがたくさん来るんだよ」と教えてくれた。僕は「そういうものか」と思い、「ああいう人」の一員に自分がなっているようでうれしかった。

なぜか、みなみ会館の舞台に上がらせてもらったこともあった。『劇場版 テレクラキャノンボール2013』が上映されたとき、トークゲストに推薦してくれた方がいたのである。上映後、宇治茶監督と2人であれこれ勝手なことをしゃべった。僕は、エロいAVの見分け方について力説した。打ち上げでファミレスに行ったとき、友人たちから「気持ち悪かった」と言われた。

登壇前、ロビーで新京極商店街会長の井上さんに会った。井上さんは財布を忘れたとおっしゃっていたので、僕がお金を貸した。井上さんは僕がトークゲストとは思っていなかったらしく、上映後にびっくりしたらしい。井上さんからも「全然、トークがスイングしていなかった」とダメ出しされた。後日、井上さんはお金を返してくれるときに藤木TDCの「アダルトビデオ革命史」という本をくれた。完全に、そういうジャンルの人間だと思われたのだろう。井上さんはそれから2年ほどして、癌で突然亡くなった。

とある映画祭の手伝いもさせてもらったことがある。アニメ映画の仕掛け付き上映に駆り出されたのだ。僕はミニシアター勤務時代に上映側で同じ仕掛けを経験していたので、またもや人から紹介されたのである。だが、準備はもめにもめた。進行表の解釈をめぐり、僕はある人と対立した。上映中、桜吹雪をまくところで、スタッフが用意した送風機の出力が弱く、僕たちは必死で手でまいた。すると、映写師さんに「スクリーンにかけるな」と怒られた。打ち上げでは映画祭スタッフに一言も礼を言ってもらえないまま、「若い奴らを車で送ってあげてくれ」とだけ頼まれた。最後は片手をちょっと上げただけで見送られた。散々だった。腹が立って、翌日以降の映画祭には行かなかった。

そんなこんなでも、みなみ会館には通い続けた。エリック・ロメールやエドワード・ヤンといった好きな映画監督の作品を見られたのは本当にうれしかった。二日酔いでキム・ギヨン特集に行ったとき、一緒に飲んでいた映画監督も気持ち悪そうにしながらロビーに来ていた。監督と帰り道で、『玄界灘は知っている』のロケ地がどこなのかという話で盛り上がった。

この秋、京都みなみ会館がなくなる。みなさんお疲れさまでしたという気持ちと、そうだろうなという気持ちの両方がある。僕の周りの人間は本当に、映画館に行かない。ミニシアターともなれば、もっと行かない。ミニシアターはどんどんなくなっていくだろうし、そういうものだという感慨しかない。昔の僕なら声高にミニシアターの素晴らしさを訴えかけ、保護活動に加わっていたかもしれない。だが、今の僕は無理である。映画の嫌な部分を見すぎた。そして、ミニシアターという文化は確実に、映画の闇と一部分で重なっている。

ミニシアターがなくなるとき、いきなりエモいことを言いたがる人たちが嫌いだ。「本当にそう思ってるのかよ」と白けてしまう。普段思っていないことは、土壇場でも思うはずがない。僕は映画館にいい思い出も悪い思い出もある。ミニシアターで働いて感じたのは、「これ、誰かが働こうとしていたら止めよう」だった。今もミニシアターに行くたび、そこで働いている人たちの環境を想像して複雑な気分になる。そもそも、いつ潰れてもおかしくない映画館で働いている人間が経済的に余裕など持てるはずがないのだ。

こういったすべてを無視して、僕は「ミニシアターの灯りを守ろう」などと能天気なことは言えない。ただ、みなみ会館は京都における僕の映画人生の大きな部分を占めていた。そして、それは代用が効く代物ではない。

アップリンク京都など行ったことはないし、出町座には行く気もない。京都シネマがなくなれば、僕が京都で通うミニシアターはなくなる。もう何も思わない。受け入れて、限られた環境で限られた映画を見るつもりだ。そして、いつしか配信に移行し、映画すら見なくなるのだろう。きっと遠い日のことではない。

確実に、僕が映画ファンでなくなる日は近づいている。みなみ会館がなくなると知り、そんな実感をさらに強めたのだった。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?