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市議の孫の私と北九州市とその市議に北九州民が市長選挙を通して見た現実Part1

本日2月19日は北九州国際マラソン。
そして、16年に渡る北九州市長を勇退する、北橋市長の最後の公
式行事が行われる。

何処の党の誰が市長を見送り、本当は心で何と思い誰が誰を憎み、
誰が次の職を探してるなんて、36年選挙に関わり、与野党に左派
全ての選挙をやってきたら中身はガラス、つまりほぼ見透かせる。

先日ある野党議員と話をした。
久しぶりに素晴らしい話となった。

そしてその後、ツラツラと北九州を考えた。

これを連載形式で書こうと思うので、良いも悪いも拡散して、皆で
心や道徳、人の道とその在り方、未来を子供達の為に考えて頂けれ
ば幸いに思う。

私は私なりの政治観、というより市の道徳や個と全体、未来を想い
勉強し、今後を考え之を宿題とし生き、之を達成し、死んでいきた
いと思う。

さて北九州の92万人の市民の多くが。政治に興味がない。
いや、それ処か憎み、或いは無視され、或いはバカにしている。
これを政治家の自業自得、と言うのは大袈裟ではないと思う。

そしてここが重要だが、今後の各党の各々の市議の行動を見てそれ
を皆で如何にプラスにし、如何に心の悪が住みにくい街、北九州に
するか。

自民党市議団が大石、三原氏を処分するなどという下らない、反吐
の出る様な、北九州の恥を皆で考えプラスにしていきたいと思う。

例えば元戸畑市議で、参議院選で落ちた父を持つ家に、長女として
生まれた私の母は政治に興味がない。ないどころか怨んでいる。

今回「どうしても!」という私の土下座により、初めて市長選挙に
行ってもらい、新市長である武内候補に、と頼み行ってもらった。

この「行ってもらう」という意味を、どうか政治家はよく考えてほ
しい。

18歳の冬、少年鑑別所にぶち込まれた私がは、寒くて堪らない
当時、小倉北区高峰町にあった鑑別所の独房は、55歳の今尚忘れ
ない程寒かった。これを今の我が市の様に自業自得という。

入所中のある夜。鑑別所では消灯前、布団に入り、暖かく汚い仙兵
衛布団を被り、寝る事が唯一の楽しみだった。

ある晩担当看守が、部屋の窓から私の方を覗き、こう言った。

「おい見ろ。この親不孝モンがあ!」。

そう言って、1通の封筒を入れてきた。封筒は鋏で切られ開けられ
ており、中を検閲され読まれている。

今ではチャクラが7個も開き、殆どの事を予測できる私だが、当時
から勘だけは鋭かった。担当の看守の雰囲気が何かおかしい。

手紙の中身は、中卒の学歴の母親からの手紙であった。

読むと、担当の目が潤んでいた様に見えた意味が、よく分かった。

私の父は当時国鉄に勤め、私は公務員の息子でおまけに両親が揃っ
ている。色んな問題はある家庭であったが、両親はまだ私の事を諦
めていなかった。

そういう場合、余程の凶悪事件なら兎も角、私の様に暴力団に絡ま
れて謝ったのに許さん、と言われたのでつい玉金袋・・。もとい。
堪忍袋の尾が切れ半殺しにした、傷害罪位で少年院に送られない。

同じ事件でも、両親が居るかどうかで殆ど少年院送りか否か決まる
当時の日本は、真相は知らぬがやはり神道の国であり、教育は家庭
にある、という事を起因の一つにしているのでは、と思う。

私は留置所の少年房と、鑑別所を通して1ヶ月ちょっと入り、保護
観察処分で娑婆に出た。出て2日後に暴行事件を起こしたが、弱い
女性を守る為だった事もあり、警察が事件を握り潰した。

教育は家庭にあり、それが事実だから、教育をジムで行うのだが、
今回それはさておき。

鑑別所の話に戻る。担当の眼が潤んでるのが気になり、手紙を読む
と、嗚呼なるほどな、と思い自分が情けなくなった。

手紙の内容は、以下の書き出しで始まった。

「こういちへ。わたしわ、いま・・・」

担当の眼が潤んだとは、つまりそういう事だ。

中卒の母は、殆ど書いた事のない字の「は」を「わ」と書いた。

「こんなさむいなかに入れられて、わたしだけがあたたかいとバチ
があたるから、こたつをたかずに、よるねてます」。

続いてこの様な事を書いていたが、その後は不思議な事に何と書い
てたか全く記憶にない。

さてこの母親の父。つまり私の祖父は、四国は宇和島の漁師であ
り当時こういう人を「風来坊」と呼んでいたそうだ。

対する祖母、つまり母の母は当時、台湾の基高(キーマン)にあった
名田造船所の娘で、祖父と祖母がデートをする時は祖母の姉と祖父
の妹がダミー役で、4人連れ立って歩いてたそうだ。

造船所の社長の娘と風来坊の男が、逢引きをするなんて許されぬ時
代だったと思う。

その後、祖父は日本水産の通信士から、海員組合代表として社会党
から出馬し当選。戸畑市議となる。
北九州5市合併の、かなり前、昭和24年の事で一期で辞めた。



祖父は非常に頭が良かった。

田中角栄が中国に行き、日本が友好条約を結ぶ前。

3度行われた、北京における通算8年の漁業交渉に、交渉役代表で
出席。その後スイスのジュネーブでILO本部会議に出席。

この時、作家の山口淑子(李香蘭)さんに会い、彼女の夫がスイスの
大使館員でお世話になったそうだ。

アメリカに行き、昭和35年日本生産性本部代表として乗り込み、
ダグラス・マッカーサーの甥、ダグラス・マッカーサー二世と会
う。

祖父の率いる視察団歓迎レセプションでは、マリリン・モンロー
(当時34歳)の横に座り、その後ナイアガラからカナダに行く予定
が、祖父が中国の地を踏んだ為、アメリカが祖父を国から出せない
となり、祖父率いる団員も皆カナダ行きを拒否したそうだ。

アフリカ沖と南アフリカへも視察しており、昭和27年韓国が勝手
に引いた李承晩ラインにより、日本の漁船が拿捕された為、昭和
40年に日韓漁業会議に出席。

また台湾にも行くが、これも中国へ行った事から祖父だけ台北のみ
の滞在、とある。


参議院選挙

昭和35年、民社党から参議院議員通常選挙に立候補。

投票日即日開票分で、当確がテレビに流されお祝い電報が届く。

しかし、翌日の東京都の開票が祖父の、そして母、後にひいては私
と父にも関わる事となる。

然るに祖父は42万票を獲得したが、公明党の票が伸び当確マーク
は消え、祖父は落選。

これが後の母の性格を形成した様に思うが、これは後述する。

当確でお祭り騒ぎの中、全国55位で落選した為に母は学校で金持
ちの娘がザマアミロと虐められ、選挙や議員に憎悪とアレルギーを
起こす事となる。

祖父は引退後、千葉に住むと昭和48年に軽自動車を買う。

昭和49年、地元住民の為にと、平和交通バスと市役所に掛け合い
「皆さんが不便だからJR千葉駅からバスを運行させろ」と交渉。

これを運行させ、昭和61年。

即ち私が鑑別所に入る前後に亡くなり、旭日双光章を授与、従六位
の位階を授かった。

祖父が死ぬまで、北九州でクズの様な事をしていた私は合わす顔が
あるはずもなく、小学6年を最後に千葉には行けなくなり、父母だ
けではなく祖父にも死ぬ迄、心配をかけた。

その点、父の祖父は、朝鮮から連行された朝鮮人と共に炭鉱夫をし
私は此方の祖父とは死ぬ迄、兄弟の様に接した。

その様な時、父に社会党から北九州市議会議員に出る様依頼が来る
という、とんでもない事が起き、これが私の素行不良が重なり柳原
家は私のせいで、ちょっとした揉め事が起きる事となる、

しかし当時の私は、薄々何かが起きてるな、としか考えず悪の限り
を尽くしていた。

続く。

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